枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

正月一日、三月三日は

 1月1日、3月3日は、すごくうららかでした。
 5月5日は、1日中曇りだったの。
 7月7日は、曇ってたけど、夕方になって晴れてきた空に、月がとても明るくて星もたくさん見えたわ。
 9月9日は、明け方から雨が少し降って、菊の花に露がいっぱいで、花を覆った綿なんかもすごく濡れて、花の移り香も際立ってて。早朝には止んだんだけど、まだ曇ってて、ともすると雨粒が落ちてくるように見えるの、それもまたすごくいい感じなのよね。


----------訳者の戯言---------

「菊の着綿(きせわた)」といって、この時代には、9月9月(重陽節句)に菊の花に黄色の真綿を被せて朝露を含ませ、その綿で体を拭くと、無病でいられる、という習慣があったらしいです。

今回は、「節句」の日の天気がそれぞれどうだったか、とか書いてます。しかしそれほど大したことは書いてないですね。


【原文】

 正月一日、三月三日は、いとうららかなる。

 五月五日は、曇り暮らしたる。

 七月七日は、曇り暮らして、夕方は晴れたる空に、月いとあかく、星の数も見えたる。

 九月九日は、暁方より雨少し降りて、菊の露もこちたく、覆ひたる綿などもいたく濡れ、うつしの香ももてはやされて。つとめてはやみにたれど、なほ曇りて、ややもせば降り落ちぬべく見えたるもをかし。

うへに候ふ御猫は③ ~暗うなりて~

 あたりが暗くなって、ご飯をあげても食べないから、結局翁丸ではない犬だって結論に達してね、翌朝早く定子様が髪をセットして、お顔を洗うもんだから、私、参上して、鏡をお持たせになってご覧になるためお側に侍ってたら、犬が柱のところにいるのを見つけて。「かわいそう。昨日は翁丸をひどく叩いたものね。死んじゃったそうだけど…哀しいわね。今度は何に生まれ変わったのかなぁ。どんなにか辛かったでしょう…」ってつぶやいたら、そこにいたその犬が震えわなないて、涙をポロポロこぼすの、すごくびっくりしちゃった。
 やっぱり、翁丸だったんだね。昨夜は自分のことを隠して、耐えてたんだろうって、哀れなだけじゃなく、それに加えて、素敵に思えることこの上なくて。鏡を置いて、「あなたは翁丸なの?」って聞いたら、地面に突っ伏して、大きく鳴いたの。

 定子さまがすごくお喜びになって。右近内侍を呼び寄せて、「こうこうこういうわけなのよ」っておっしゃったら、女房たちもみんなにぎやかに笑って、その騒ぎを天皇もお聞きつけになって、定子さまの部屋に来られたのね。
 「驚きだね、犬にだってこんな心があるもんなんだね」って、お笑いになっられて。
 天皇のお付きの女房たちもこれを聞きつけて、集まってきて翁丸の名前を呼んだら、そのたび跳ね回るのよ。「でもまだ、顔なんか腫れてるものね。手当てをしてあげないと」って私が言うと、「とうとうこの犬が翁丸だってことを白状したわね」なんて笑うもんだから、源忠隆がこれを聞きつけて、台所の方から、「本当ですか。翁丸が見つかったって! 拝見させていただきます」って言ってきたから、「あら、ひどい。絶対そんな犬いないですわ」ってスタッフに言わせたら、「とは言っても、私が見つけてしまう時もございますでしょうし。そんなに隠しおおせることはできないでしょう」と言うのね。

 こうして翁丸は帝から許されて、元通りに戻ったの。でも、犬がカワイソがられて震えて泣き出すのなんて、今まで聞いたこともないくらい、素敵で感動しちゃったわ。人間なら人から言葉をかけられて泣いたりすることはあるんだけどね。


----------訳者の戯言---------

内侍というのは前にも出てきましたが、帝の側室(候補)もいる、女性だけの部署「内侍司」の女子職員です。ここでは「右近内侍」という人が登場していますね。これは固有名詞。一条天皇のスタッフだった女官の一人の名です。
内侍司」には側室がいるというだけではなく、もちろん色々な仕事もありました。今で言うなら、秘書課、総務課、庶務課あたりの役割だったのではないかと思います。
内侍司には尚侍という長官(カミ)が2名、典侍(スケ)という次官が4人、その下に掌侍(ジョウ)が6人いたそうです。
内侍司も最初のうちは、トップの尚侍(カミ)やナンバー2の典侍(スケ)も所謂女官だったらしいですが、このあたりの人はそのうち皇妃に準ずる立場、つまり側室、妾となったそうですね、実質的には。ってことは、実際に中心となってこの部署の仕事をしたのは掌侍(ジョウ)ということでしょうか。
で、さらにこまごまとした雑用をした女孺(にょじゅ/めのわらわ)というスタッフが100人いたらしいです。

さて本段。賢い犬の話です。
っていうか、正直、虐待がかわいそう過ぎて、後半、なかなか頭に入ってこない。
今の常識からすると、一条天皇も、源忠隆らもオカシイ人でしかないですね。
犬に感動するより先にそっちだろ!と思います。特に一条天皇ね。自分が「シバいて捕まえて流刑にせい!」って言っておいて、最後には「驚き! 犬にもこんな心があるものなの」と、しれっと言うメンタル。

しかし、いくらやりたい放題でも、さすがに清少納言天皇批判はできません。
巧みに「犬に感動した話」に持っていってます。
官僚が安倍首相に忖度するようなもんですね。


この記事を最初に書いたのが2018年ですから、まだ安倍政権時代で、森友問題、加計学園問題、それに伴う公文書改ざんの問題などが露呈していた頃です。この後さらに「桜を見る会」の問題なども出てきました。安倍さんは亡くなりましたが、ああいう権力者への忖度、というのはまじで非常に大きな問題がありましたね。もちろん統一教会との癒着もどうかと思いました。(2023/8/1追記)


【原文】

暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬる、つとめて、御けづり髪、御手水など参りて、御鏡を持たせさせ給ひて御覧ずれば、候ふに、犬の柱もとにゐたるを見やりて、「あはれ、きのふ翁丸をいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身にこのたびはなりぬらむ。いかにわびしきここちしけむ」とうち言ふに、このゐたる犬のふるひわななきて涙をただ落しに落すに、いとあさまし。さは、翁丸にこそはありけれ。昨夜は隠れ忍びてあるなりけりとあはれにそへて、をかしきこと限りなし。御鏡うち置きて、「さは、翁丸か」と言ふに、ひれ伏していみじう泣く。

御前にもいみじうおち笑はせ給ふ。右近の内侍召して、「かくなむ」と仰せらるれば、笑ひののしるを、上にも聞こしめして渡りおはしましたり。「あさましう、犬などもかかる心あるものなりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房なども聞きて、参り集まりて呼ぶにも、今ぞ立ち動く。「なほこの顔などの腫れたる。物のてをせさせばや」と言へば、「つひにこれを言ひあらはしつること」など笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「まことにや侍らむ。かれ見侍らむ」と言ひたれば、「あな、ゆゆし。さらにさるものなし」と言はすれば、「さりとも、見つくるをりも侍らむ。さのみもえ隠させ給はじ」と言ふ。

さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。なほあはれがられて、ふるひ泣き出でたりしこそ、よに知らずをかしくあはれなりしか。人などこそ人に言はれて泣きなどはすれ。

 

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うへに候ふ御猫は② ~御膳のをりは~

 「お食事の時には必ず来てたのにね、寂しいよね」なんて言って、3、4日経った昼頃、犬がすごく吠える声がしたから、どの犬がこれだけ長く吠え続けるんだろうと思ってたら、めちゃいっぱいの犬が見に走っていくんだよね。

 トイレ清掃担当者が走ってきて、「ああ、大変です。犬を蔵人が二人で叩いてらっしゃる。死んじゃう! 犬を流刑にしたんだけど、帰ってきたからって懲らしめてるんです」って言うの。心配だわ、翁丸でしょうね。
 「忠隆や実房なんかが叩いてる」って言うから、止めに行ってもらったら、ようやく鳴きやんで。止めに遣った者が戻ってきたら「死んでしまったので敷地の外に捨ててしまいました」って言うもんだから、かわいそうにって思ってた、その夕方、ひどく腫れあがって、あきれるくらいひどい風貌のみすぼらしい犬が、震えながら歩いてるので、「翁丸かな? 最近こういう犬、歩いてたかな?」って言って、「翁丸!」って呼んだんだけど、反応がないの。
 「翁丸でしょ」って言ったり、「翁丸じゃない」とも、口々に言ってたら、「右近(内侍)だったらわかるでしょう。呼んできて!」と定子様がおっしゃったので、呼び寄せたら、やって来たのね。で、「これは翁丸かい」とお見せになったの。「似てはいますけれど、これはあまりにも酷うございます。また、『翁丸かい?』と呼んだら、喜んで寄って来るはずなんですが、呼んでも寄って来ませんしね。違うでしょう。翁丸は『叩き殺して捨ててしまいました』とも報告を受けています。二人がかりで叩いたんなら、生きてはいないでしょう…」などと申したので、定子様は傷心なさってしまわれたのです。


----------訳者の戯言---------

動物虐待です。かなり酷いですね。こんなことが宮中で行われちゃいけません。
時代はだいぶ後ですけど、徳川綱吉激怒ですね。
関係はありませんが、実は生類憐みの令は天下の悪法のように言われていますけど、あれはかなり誤解があるようです。それほど、人間にキツい法ではなかったようですね。

今なら、もちろん動物愛護法です。この段のようなことがあると通報、逮捕になるかもしれません。

いずれにしても動物虐待は今も昔もちゃんと裁いてほしいです。


【原文】

「御膳のをりは、必ず向かひ候ふに、さうざうしうこそあれ」など言ひて三四日になりぬる昼つ方、犬いみじう鳴く声のすれば、なぞの犬のかく久しう鳴くにかあらむと聞くに、よろづの犬とぶらひ、見に行く。

御厠人なる者走り来て、「あな、いみじ。犬を蔵人二人して打ち給ふ。死ぬべし。犬を流させ給ひけるが、帰り参りたるとて調じ給ふ」と言ふ。心憂のことや、翁丸なり。「忠隆、実房なんど打つ」と言へば、制しにやるほどに、からうじて鳴きやみ、「死にければ陣の外にひき捨てつ」と言ヘば、あはれがりなどする夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば、「翁丸か。このごろかかる犬やはありく」と言ふに、「翁丸」と言ヘど、聞きも入れず。「それ」とも言ひ、「あらず」とも口々申せば、「右近ぞ見知りたる。呼べ」とて召せば、参りたり。「これは翁丸か」と見せさせ給ふ。「似ては侍れど、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また、『翁丸か』とだに言へば、喜びてまうで来るものを、呼べど寄り来ず。あらぬなめり。それは『打ち殺して捨て侍りぬ』とこそ申しつれ。二人して打たむには、侍りなむや」など申せば、心憂がらせ給ふ。


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うへに候ふ御猫は①

 一条天皇といっしょに暮してる猫は、五位の位階を授けられてて、「命婦(みょうぶ)のおとど」という名前で、すごくかわいくって、天皇も大事にお世話をなさってたんだけど、ある日部屋の端に出てって寝てるもんだから、お世話係の馬の命婦が、「あら、みっともない。奥に入りなさい!」って呼んだのね。それでも日なたで気持ちよく眠ってたから驚かそうとして、「(犬の)翁丸はどこ? 命婦おとどに噛みついちゃえ!」って言ったもんだから、「マジか!」って、バッカみたいに襲いかかっちゃったの。それで、怯えて、うろたえちゃって、「おとど」は御簾の中に逃げ込んじゃったのうよね。

 ちょうどご朝食の部屋に天皇がいらっしゃったから、これをご覧になってめちゃくちゃ驚かれたの。猫を懐にお入れになって、男性スタッフたちを呼んで、蔵人の源忠隆と「なりなか」が参上したらね、「この翁丸を叩いて懲らしめて、犬島に流しなさい! すぐに!」っておっしゃるもんだから、みんな集まって大捕り物になっちゃったの。お世話担当の馬の命婦のほうも責め立てられて、「担当を変えよう、すごく不安だ」っておっしゃるから、恐縮して帝の御前にも出られないの。犬は捕まえられて、滝口の武士たちとかに追放されちゃったのよね。

 「かわいそう、すごくゆったりと歩いてたのにね。3月3日の桃の節句に、蔵人頭が柳の飾りをつけ、桃の花をかんざしにして、桜を腰に差したりして歩いてた時は、こんな目に遭うとは思わなかったでしょうに」って、つくづく同情してしまうわ。


----------訳者の戯言---------

五位に任命されることを「かうぶり/こうぶり」と言ったらしいです。冠のことですね。五位になったら初めて冠をかぶることを許されることからこう呼んだんだそうです。
一条天皇、猫に冠位を与えたわけですね。

「源忠隆」はまあ、わかります。人の名前ですね。当時の蔵人の一人のようです。しかし「なりなか」は不詳。やはり蔵人の一人かと思いますが、どのテキスト見ても不詳となっています。
蔵人っていうのは、この前にも出てきましたが天皇の秘書官ですね。

犬島。犬にも島流しがあるんかいな、と思ったら、本当にありました。厳密に言うと島じゃないんですが。
現在の京都市伏見区淀、というところで、今は京都競馬場がある辺りです。罪を犯した犬の流刑地だったのだそうです。

「滝口」というのは、もちろん滝口さんという人のことではなく、「滝口の武士」のことでした。滝口の武士というのは当時の内裏の警護係だったようですね。9世紀末から、蔵人所の組織下にあった武士なのだそう。清涼殿の東庭北東の「滝口」と呼ばれてる御溝水(みかわみず)の落ち口の近くに詰所があったので「滝口」「滝口の武士」と呼ぶようになったそうです。

私、思うんですけど、一条天皇も、馬の命婦っていう「命婦おとど」(猫)の世話係も、大人げないです。しかしこの頃、一条天皇ってまだ20歳過ぎくらいなんですよね。天皇の指示とは言え、蔵人とか滝口の武士とかも、別に罪もないような犬を捕まえて懲らしめるってどーよ。と思いました。

命婦」というのは五位以上の位階にある女性のことだそうです。「おとど」というのはネットで調べたら、「御殿」または「大臣の尊称」とありましたね。この猫さん、男の子なのか女の子なのか、それもちょっとわかりませんね。ま、名前なんでね、「おとど」ちゃんでいいですか。ですね。


【原文】

うへに候ふ御猫は、かうぶりにて命婦おとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせ給ふが、端に出でて臥したるに、乳母の馬の命婦、「あな、まさなや。入り給へ」と呼ぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるをおどすとて、「翁丸いづら。命婦おとど食へ」と言ふに、まことかとて、しれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾のうちに入りぬ。

朝餉の御間に、上おはしますに、御覧じていみじう驚かせ給ふ。猫を御懐に入れさせ給ひて、男ども召せば、蔵人忠隆、なりなか参りたれば、「この翁丸打ち調じて、犬島へつかはせ。ただ今」と仰せらるれば、集まり狩り騒ぐ。馬の命婦をもさいなみて、「乳母かへてむ。いと後ろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて御前にも出でず。犬は狩り出でて、滝口などして追ひつかはしつ。

「あはれ、いみじうゆるぎありきつるものを。三月三日、頭の弁の柳かづらせさせ、桃の花をかざしにささせ、桜腰にさしなどしてありかせ給ひしをり、かかる目見むとは思はざりけむ」などあはれがる。


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大進生昌が家に③ ~つとめて、御前に参りて啓すれば~

 翌朝早くに、定子さまの御前に参上してご報告したら、「そんな軽薄な話は聞いたことない人なのにね。昨夜のことに感心して行ったんでしょう。不憫ですね、あんまりあの人のことを手厳しく言うのも、かわいそうですよ」って、お笑いになるの。

 姫宮(内親王)さまにお仕えする女の子の着物を作るようにと定子さまが生昌におっしゃった際にも、「この『袙(あこめ)のうわおそい(上襲=上に着る物)』は、何色にして仕立てましょうか」って言うから、また笑っちゃうんだけど、仕方ないわよね。
 「姫宮の御膳に使う食器は、大人に使うものでは具合悪いでしょう。小せえ折敷に、小せえ高坏なんかのほうがよろしゅうございますでしょう?」なんて言うもんだから、「そう、それだったら、『うわおそい』を着た子も、お仕えしやすいでしょうしねw」って私が言ったら、定子さまが「いやいや、普通の人みたいに、この人をそんな風に笑ってはいけません。とてもまじめな人なのですから」と、すごく気の毒がっていらっしゃるの、それがまたとっても素敵なの。

 合間の時間帯に、「大進が(清少納言に)どうしても申し上げたいことがあるんですって」と(誰かが)言ってるのを、定子さまがお聞きになって、「またどんなことを言って、笑われようとしてるのかしらね」っておっしゃる様子もまたかわいらしいの。「行って聞いてきたら!?」とおっしゃるものだから、わざわざ彼のところに出向いたら、「あの夜の門のことを、中納言(兄の平惟仲)に話しましたら、すごく感心いたしましてね、『何とかいい機会があったら、ゆっくりお会いしてお話ししたいもんだよね』って申してましたよ」って。でもそれ以上には何も言わないのよね。
 あの夜のことを言うのかな、ってドキドキしたんだけど、「今はまあ、置いといて、また、そちらに伺いますね」とだけ言って帰っちゃったから、定子さまの元にまた参上したら、「それで、何事でしたの?」とおっしゃるの。で、彼が言ったことを、こうこうこうでした、と申し上げたら、みんなが「わざわざお伺いを立てて、呼び出して言うことではないわよね。たまたまお屋敷の端っこの方とか部屋なんかにいる時にだって言えるでしょうに」って笑うんだけど、定子さまだけは、「自分の中で『賢い』って思う人が褒めたものだから、きっと喜ぶだろうナって思って、報告に来たんじゃないかしら?」って。そうおっしゃるその様子も、すごくステキなの。


----------訳者の戯言---------

袙(あこめ)っていうのは女の子の着物の一つなんだそうです。その上に「汗衫(かざみ)」という上着を着るらしいんですが、その名前を知らなかったようですね、生昌は。で「うわおそい(上襲)」、つまり「上に着るもの」って雑な感じに言っちゃった。
で、笑われてしまったと。

折敷(おしき)というのは食器を載せる四角い縁付きのお盆に脚がついた食台とのこと。高坏(たかつき)というのは高い台のついた坏形の食器。「坏」というのはお椀よりは浅くて皿よりは深い、というものらしい。だいたい木製で、形はソーサー型のシャンパングラスのような形です。飲み口が広くフラットになってる、シャンパンタワーに使うやつといえば、わかりやすいでしょうか。

ここで出てきた「中納言(兄の平惟仲)」は前々回、「大進生昌が家に①」でちょっと触れましたが、中宮定子の兄である藤原伊周の政敵・藤原道長に超ヨイショして昇進した人ですね。
平惟仲と平生昌は異母兄弟のようですが、きっと兄のことを尊敬してたんでしょうね。

読んでいると、なんとなく、生昌がことあるごとに笑いものにされてるように見えるんだけれども、そんな大悪人でもなく、ちょっとドジで、でもマジメ、という意外といい人そうにも感じられるようになってきます。イジられキャラですね。アンジャッシュ児島的な。夜這い?モドキのことされても、清少納言もまんざらでもなさそうですしね。

そして何かにつけて、中宮・定子を絶賛する清少納言。ほめ過ぎでしょう。


【原文】

つとめて、御前に参りて啓すれば、「さることも聞えざりつるものを。夜(よ)べのことにめでて行きたりけるなり。あはれ、かれをはしたなう言ひけむこそ、いとほしけれ」とて、笑はせ給ふ。

姫宮の御方の童べの装束、つかうまつるべきよし仰せらるるに、「この袙のうはおそひは、何の色にかつかうまつらすべき」と申すを、また笑ふもことわりなり。「姫宮の御前の物は、例のやうにては、憎げに候はむ。ちうせい折敷に、ちうせい高坏などこそよく侍らめ」と申すを、「さてこそは、うはおそひ着たらむ童も、参りよからめ」と言ふを、「なほ、例の人のやうに、これなかくな言ひ笑ひそ。いと謹厚なるものを」と、いとほしがらせ給ふもをかし。

中間なるをりに、「大進、まづ物聞えむとあり」と言ふを聞こしめして、「またなでふこと言ひて、笑はれむとならむ」と仰せらるるもまたをかし。「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のこと、中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、『いかでさるべからむをりに、心のどかに対面して、申し承らむ』となむ申されつる」とて、またことごともなし。一夜のことや言はむ、と心ときめきしつれど、「今しづかに、御局に候はむ」とて往(い)ぬれば、帰り参りたるに、「さて、何事ぞ」とのたまはすれば、申しつることを、さなむと啓すれば、「わざと消息し、呼びいづべきことにはあらぬや。おのづから端つ方、局などにゐたらむ時も言へかし」とて笑へば、「おのが心地にかしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふと、告げ聞かするならむ」とのたまはする御けしきも、いとめでたし。

 

 

大進生昌が家に② ~同じ局に住む若き人々などして~

 同じ部屋に滞在する若い子たちみんな、別に何も気にしないで、眠くなったから寝てしまったの。
 私の部屋は東棟の「西の廂」の部屋で、北に続いてるんだけど、北の障子戸にはカギも付いてなくって、そのことも確認してなくって。家の主人だってことで彼は家の勝手も知ってて開けたんだね。変にしゃがれてて上ずった声で、「入っていいですか? どうですか?」って、何回か言う声がするもんだから、びっくりして見たら、几帳の後ろに立ててた燭台の光で明々としててね、そこで障子を15cmほど開けて言ってたの、めっちゃウケるわww
 こんな色っぽいことなんか絶対しないはずのに、自分ちに中宮が来られたので、浮かれちゃって無闇にはしゃいじゃってるんだろうなーって思って、すごく可笑しいのよね。

 横に寝ている女房を揺り起こして、「あっちをご覧になって! こんな時にほんとなら見れない者がいるじゃない!」って言ったら、頭を持ち上げて見て、めちゃくちゃ笑うの。「あれは誰? 告りに来たの?」って言ったらね、「違いますよ。家の主として、相談したいことがことがございまして…」って言うの。で、「門のことは言いましたけど、障子を開けけてくださいなんて、言ったかしら?」って言ったら、「そのことも申し上げましょう。そちらに伺ってもいいですか? いかがですか?」と言うもんだから、「ほんとに見苦しゅうございますわ! ここから先は入っちゃダメです」って他のコが笑ったら、「若い人がいらっしゃったんですね」って、戸を閉めて帰って行った後、めちゃくちゃ笑っちゃって。開けるくらいなら、シンプルに入ってきたらいいんだし。いいかどうかと言われたら、OKとは誰も言わないでしょうよ、まじウケるわ。


----------訳者の戯言---------

廂というのは「ひさし」のことで、母屋の外側に付加されてる部屋らしいです。

「几帳」というのは、この当時の間仕切り。可動式のパーテーションですね。
細かなところまできっちりしている人を「几帳面な人」と言ったりしますが、この几帳から来てるそうです。元々、几帳の柱が細部まで丁寧に仕上げてある、ということからこう言うんですね。勉強になりました。

こういう気のつかない人、残念な人というのは、いつの世にもいるもので、ある意味、不器用な人であり、同情すべきでもあります。


【原文】

同じ局に住む若き人々などして、よろづの事も知らず、ねぶたければみな寝ぬ。東の対の西の廂、北かけてあるに、北の障子に懸金もなかりけるを、それも尋ねず、家あるじなれば、案内を知りて開けてけり。あやしくかればみさわぎたる声にて、「候はむはいかに、いかに」と、あまたたび言ふ声にぞおどろきて見れば、几帳(きちやう=間仕切り)の後ろに立てたる灯台の光はあらはなり。障子を五寸ばかり開けて言ふなりけり。いみじうをかし。さらにかやうのすきずきしきわざ、ゆめにせぬものを、わが家におはしましたりとて、むげに心にまかするなめり、と思ふも、いとをかし。

かたはらなる人を押し起こして、「かれ見給へ。かかる見えぬもののあめるは」と言へば、かしらもたげて見やりて、いみじう笑ふ。「あれはたそ、けそうに」と言へば、「あらず。家のあるじと、定め申すべきことの侍るなり」と言へば、「門のことをこそ聞えつれ、障子開け給へとやは聞こえつる」と言へば、「なほそのことも申さむ。そこに候はむはいかに、いかに」と言へば、「いと見苦しきこと。さらにえおはせじ」とて笑ふめれば、「若き人おはしけり」とて、引き立てて往ぬる、のちに、笑ふこといみじう、開けむとならば、ただ入りねかし、消息を言はむに、よかなりとは、たれか言はむ、と、げにぞをかしき。

 

 

大進生昌が家に①

 中宮大進の平生昌の家に、中宮(定子さま)がお出ましになるっていうんで、東側の門は四つ足の門に改築して、そこから御輿がお入りになるのね。
 北の門から、お付きの女房たちの車は、警護スタッフがいないからそのまま入れるだろうなと思ってて。だからヘアスタイルが決まってない人も、そんなにはセットしなくても、建物に車を付けて降りられるわ、ってあなどってたら、檳榔毛(びろうげ)の車みたいな大型車なんか、門が小さくって、つっかえてしまって入れなかったから、いつもの敷物(筵道)を敷いて降りなくちゃいけなくて、それ、すごく憎ったらしくて腹立ったんだけど、どうしましょ! 殿上人(幹部スタッフ)から一般のスタッフまで、詰所の側に立って見てるのも、すごく癪に障るのよね!

 で、定子様の御前に参上して、事の次第を申し上げたら、「いくら気を遣わなくていいっていうこの屋敷にしても、人は見るものでしょ? どうしてそんなに気が緩んでたの?」ってお笑いになるの。
 「でも、それは知り合いばかりですから、すごくオシャレにし過ぎてたら、かえって驚く人もいるでしょう。でも、これほどのお屋敷なのに車が入らない門があろうとは…。主人の生昌様がお見えになったら、笑いものにしてあげませんとねw」なんて言ってたら、生昌が「これを(中宮に)差し上げてください」って、硯なんかを御簾に差し入れられたのね。
 「ちょっと、みっともないでしょう!? どうしてあの門はあんな狭く作ってらっしゃるんですか?」って言ったら、笑って、「家のサイズは、身の程に合わせてございますので…」と返答。「でもね、門だけ立派に作る人もいるでしょう?」って言ったら、「わ、怖わっ」って驚いて、「それは于定国のことでしょう? かつて中国の歴史や漢文の学問を学ばれた方でもなかったら、わかりそうもないことでございますよ。私はたまたまこの分野をやらせてもらってたので、これくらいだったら理解はできてるんですけど」って言うのね。
 「そのお勉強も大したことないんじゃ? 門からは筵道を敷いて歩いて入ったんですけど、みんな、ヘコんだところにはまったりして、大騒ぎしたんですからね!」と言ったら、「雨が降ってましたので、そういうこともございますでしょう。はいはい、ほかにもおっしゃられてないこともおありでしょう…。ってことで、失礼いたします」って帰ってったの。
 定子さまは「何事ですか、生昌がすごく怖がってたわね」とお聞きになったものだから、「いえいえ、車が入らなかったことを言っておりましたのです」って申し上げて、戻ってまいったの。


----------訳者の戯言---------

まず、この段、訳し始めたんですけど、全然意味がわからなくて、頭に入ってこない。
なぜか。もちろんそもそもの私の理解力の無さという根本的理由はあるんですが、やはりこの話の背景がわかってないとどうも理解しがたいんですね。

で、まずはその背景を。

大進(だいじん/たいしん/たいじょう)というのは何?ということですが、これ、当時の役職の一つで、妃の世話を行うために設置された部署「中宮職」の官職の一つだそうです。で、この中宮大進をやってたのが平生昌(なりまさ)という人でした、と。そんな高い位ではないみたいですね。朝廷を会社に例えたら次長とか課長とかくらいのイメージでしょうか。

枕草子を読んでいらっしゃる方はご存じだとも思いますが、そもそも、一条天皇中宮・定子の父は、摂政関白内大臣藤原道隆という人でした。つまり、天皇に次ぐ権力者です。が、この父が病気で亡くなった後、後を継ぐかと思われていたのはその息子、つまり定子の兄の藤原伊周だったんです。しかし父・道隆の弟、つまり伊周の叔父・藤原道長と主導権争いをすることになってしまいます。
その結果、政争に敗れたのは藤原伊周のほうでした。失脚して大宰府への左遷が決まると。でも途中で病気の母がまだ残ってる京都に密かに戻るんですね。

で、このことを知って藤原道長に密告した人物の一人が、ここで登場する大進・平生昌という人なんだそうですね。

ということは、平生昌っていう男、元々は作者・清少納言が敬愛する定子の兄・藤原伊周の政敵・道長にヨイショするヤな奴だろうよっていうキャラなのかもしれないですね。
平惟仲という兄もいるんですが、この人も嫌なタイプで、道隆の死後、中関白家(藤原道隆の家)が衰退するだろうなーという兆しを嗅ぎ取って、巧みに道長に取り入って、長徳2年(996年)には道長派の朝廷幹部として権中納言に昇格しました。
改元して長保元年(999年)には一条天皇中宮・定子の中宮職の長官である中宮大夫を兼務したんですが、落ち目の中関白家と関わるのが嫌だってことで、半年で辞任しています。権力に媚びへつらう非常に嫌ーな兄弟なワケですね。

清少納言枕草子を書いたのは1000年頃と言われていて、この段の逸話があったのが999年だそうです。
そもそも清少納言が定子の元に出仕したのが、993年、27歳の時、一条天皇中宮であった定子はその時17歳。定子は13歳くらいで3歳年下の一条天皇に入内してますから、相当な早婚です。しかも天皇からしたら、ちょっとお姉さんなんですね。

聡明で活発な才女の清少納言。他方、定子は天皇のお気に入りのお妃様であり、心優しく聡明な美少女。清少納言は定子を敬愛し、定子も気鋭の私設秘書・清少納言に大きな信頼を寄せるという、相思相愛の関係にあったと見られているようですね。


そして、この段の話です。
これ、話としては宮(=中宮・定子)が出産のために平生昌の家に入るときのこと、なんですね。

今言うと大問題なのですが、当時は出産は「穢れ」ということで宮中では許されてなかったらしいです。で、本来は実家に戻るというのが習わしだったそうなんですが、定子の実家は火事で焼失してしまっていたそうです。政争で敗れた家ですからね。ま、このお話の時には兄たちは許されてはいたようなんですけど。実家は再建されてなかったんでしょう。

実は定子は、兄の藤原伊周が左遷させられるとなった時、一度出家してるんですね。

話が逸れるんですが、藤原伊周と弟の隆家は、ヤンチャというか、武闘派というか、自分の彼女を花山上皇一条天皇の先代)に寝取られたと誤解して襲撃したらしいです。
もちろん、本人たちは否定したらしいですけどね。で、これを政争の具にされたわけです。ですから、伊周も悪いっちゃあ悪いんです。上皇に弓引いちゃダメでしょう、そりゃあ。自業自得ですね。脇が甘いです。

定子はお兄様たちのあおりをかなり食ってます。このあたりから中関白家が没落したのも藤原伊周・隆家兄弟に原因大ありでしょう。

で、一条天皇が強く望んだとはいえ、いったん出家したのに再入内するというのは、異例中の異例。これは貴族たちからもかなり顰蹙を買ったらしくて、定子に対する風当たりも強かったようですね。

とまあ、そのような状況もあって、中宮職の長官でもなく「大進」っていう中途半端な役職の人の家での出産という事態になった、というのが、この段の前提です。

では、詳細。

檳榔毛(びろうげ)の車というのはビラビラで飾った、豪華仕様の大型車です。
筵道っていうのは筵(むしろ)、つまり敷物ですね。「上達部(かんだちめ)」はすでに何回か出てきましたけど、宮中の幹部たる貴族のことだそうです。
なお、「枇榔毛は」という段がありますので、よろしければ詳しくはそちらをお読みください。

「于定国」というのは、「う ていこく」という中国の人だそうです。国の名前ではありません。この人の父は裁判が公平だったので有名になって、生きているうちから祠が作られるほどだったとか。で、住んでいる里の門を再建するときに、「門は立派な車も通れるように大きくしてほしい。私は公平な裁判で陰徳をつんでいるから、子孫が立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言ったそうです。という逸話。
「蒙求」という中国のことを学ぶ教科書的な本に出てくる「于公高門」という故事だそうです。もちろん当時この本は日本でも読まれてたらしいですね。

進士っていうのは、中国の歴史や漢文の学問、学科。今回のネタもそこそこの勉強をしてないとわからないでしょうね。

清少納言自身が「門だけをデカく作った」故事を知ってて、さらっと皮肉を言った小自慢。
平生昌をちょい怖がらせちゃったわ、早々に退散させちゃったヨ~という、快感、面白話。
生昌が「于定国」の名前を出して中途半端な知識自慢をしてきたことに対する嘲り、イジり。(もうちょっとスマートな言い方できへんのかいな!的な)

しかし、定子様はさすが寛大というか心優しいというか、さすがだわ!と礼賛。

というお話でしょうか。この段まだまだ続きます。
んもう、長いよー。


【原文】

 大進(だいじん)生昌(なりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。北の門より、女房の車どももまた陣の居ねば入りなむと思ひて、頭つきわろき人も、いたうもつくろはず、寄せて降るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びらうげ)の車などは、門小さければ、さはりてえ入らねば、例の、筵道(えんだう)敷きて降るるに、いとにくく腹立たしけれども、いかがはせむ。殿上人、地下なるも、陣に立ち添ひて見るも、いとねたし。

 御前に参りて、ありつるやう啓すれば、「ここにても、人は見るまじうやは。などかはさしもうちとけつる」と笑はせ給ふ。「されど、それは目なれにて侍れば、よくしたてて侍らむにしもこそ、おどろく人も侍らめ。さてもかばかりの家に、車入らぬ門やはある。見えば笑はむ」など言ふほどにしも、「これ参らせ給へ」とて、御硯などさし入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。などその門、はたせばくは作りて住み給ひける」と言へば、笑ひて、「家のほど、身の程に合はせて侍るなり」といらふ。「されど、門の限りを高う作る人もありけるは」と言へば、「あな、おそろし」と驚きて、「それは于定国がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずは、承り知るべきにも侍らざりけり。たまたま此の道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られ侍る」と言ふ。「その御道もかしこからざめり。筵道敷きたれど、みな落ち入りさわぎつるは」と言へば、「雨の降り侍りつれば、さも侍りつらむ。よしよし、また仰せられかくる事もぞ侍る。まかり立ちなむ」とて往ぬ。「何事ぞ、生昌がいみじうおぢつる」と問はせ給ふ。「あらず。車の入り侍らざりつること言ひ侍りつる」と申して下りたり。