枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

思はむ子を

(かわいいって)思うような子どもを僧侶にするなんてことは、まったく心苦しいものよ。ただ木っ端やなんかみたいに思われてるのは、すごく気の毒。精進料理のかなり粗末なものを食べ、居眠りするくらいのことでもね。

 若い僧侶は心惹かれるものも、めちゃくちゃあるだろうしね。女の子なんかがいるところだって、どうしてだか忌み嫌うみたいに、覗き見したりもしないのでしょ。そんなことだって、ごちゃごちゃ言われちゃうんだもの。
 ましてや、修行僧なんかはすごく苦しそう。疲れて眠り込んだりしたら、「居眠りばっかりして」なんてdisられちゃう。すごく窮屈だし、その辺どう思うんだろうね。

 でも、これは昔のことのみたい。今はもっと気楽な感じよね。


----------訳者の戯言---------

子どもを僧侶にするっていうのは、かわいそうだよ、って話ですね。
たしかにたいへんそうだ。今の仏教系大学の学生はまあまあ楽しそうですが。

ちなみに徒然草第一段には、この枕草子からの引用として次のように書かれています。

法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。(お坊さんほどうらやましくないものはないね。『人には木っ端みたい思われるんだよ』と清少納言も書いてるけど、そのとおりさ)

吉田兼好自身が僧侶ですから。自虐です。

それでも子どもをお坊さんにしたい親というのはいつの時代にもいるようで、同じく徒然草第百八十八段に、ちょっとお説教臭いエッセイが収められていました。よろしければご一読ください。


【原文】

思はむ子を法師になしたらむこそ心苦しけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進もののいとあしきをうち食ひ、寝ぬるをも。若きものもゆかしからむ。女などのあるところをも、などか忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ。それをもやすからずいふ。まいて、験者などはいと苦しげなめり。困じてうち眠れば、「ねぶりなどのみして」などもどかる、いとところせく、いかにおぼゆらむ。

これはむかしのことなめり。今やうはやすげなり。

同じことなれども

 同じことなんだけど、聞いた感じが違うもの。お坊さんの言葉。男の人の言葉。女子の言葉。身分の低い人の言葉には必ず余計なひと言がついてくるの。(言葉は足りないくらいが、感じいいのにね)


----------訳者の戯言---------

まあ、前半部分は当たり前って言えば当たり前なんですが。

しかし、昔の人の人権感覚というか、身分差別意識というのは現代とは程遠くて、これを今の感覚で捉えると違和感しかないんですが、当時は当たり前だったわけで。ポリコレなんていう視点なんか到底ないわけだし、今後もたぶんいっぱい出てくると思いますけど、とにかく身分の低い者には容赦ないです。

清少納言なんて、当時の教養人の代表の一人なんでしょうけど、それでもこれが常識だったんですよね。
政治家だって、官僚だってそうだったし、神官や僧侶でさえ、そういうヒエラルキー社会の中で、それを肯定しつつ生きてたわけです。
まあ、毎回いちいちひっかかってられないし、そういうこと前提で読まないといけない、と、最初のうちにこれは書いておきましょう。現代に生きる私は肯定しないし、違和感しかないですけどね、と。

例えば平安時代に、今みたいなポリコレ上等、アンチ差別主義者みたいな著述家がいたらかなり面白かったんだろうとは思います。けど、きっと迫害されるか、無視されるか、いずれにしろ淘汰されたでしょうね。


【原文】

同じことなれども聞き耳ことなるもの 法師のことば。男のことば。女のことば。下衆のことばには、必ず文字あまりたり。(足らぬこそをかしけれ)

四月 祭の頃

 4月、葵祭の頃って、すごく素敵な季節。宮中の幹部たちから、四位、五位、六位の昇殿を許された職員たちまで、上着は濃いか薄いかの違いはあるんだけど、白襲(しらがさね)はみんなおんなじ様子で、凉しげでいい感じ。

 木々の葉っぱは、まだすごく茂ってるってほどじゃなく、若々しく青さが広がってて、霞も霧も立ってない空の風景が、何となく、理由もないけど素敵に思えて、少し曇った夕方や夜なんかに、そっとホトトギスが遠くで、そら耳かなって思うくらいに、たどたどしく鳴いてるのが聴こえたのって、どんな気持ちがすると思う?(すごくいい気持ちに決まってるでしょ!)

 (賀茂)祭が近くなって、青朽葉(青味がかった朽葉色)、二藍(藍+紅で染めた紫色)の反物なんかを巻いて、紙とかにほんの少しだけ包んで、行ったり来たり歩いてるのもいいよね。裾濃(裾が濃くなっていくグラデーション柄)、むら濃(=斑濃。ところどころを濃淡にぼかして染め出した柄)、巻染(布を巻いて糸で括って染めて、括った部分が白く残ってる生地の柄)なんかも、普段よりもっと素敵に感じるわ。
 子どもの頭だけはきれいに洗って整えてるんだけど、身なりはっていうと、服が全部ほころんでしまって、ぐっしゃぐしゃになりかけてるんだけど、下駄や靴なんかに「鼻緒をつけさせて!裏打ちをさせて!」なんて言って、大騒ぎして、早くそのお祭りの日にならないかなって、はやって、どんどん歩き回ってるのも、とってもかわいいのよね。で、そうやってはしゃいで歩き回ってる子たちが、ちゃんとした衣装をきちんと着れば、まるで定者とかいう僧侶みたいに練り歩くの。なんだか心配なんでしょう、それぞれの身分に応じて、親や叔母、姉たちがついてって着物を整えたりして、連れて歩くのも良いものよね。

 蔵人を目指してるけど、すぐにはなれない人が、この祭の日に(蔵人と同じ)青色の衣装を着るんだけど、別にすぐに脱がさなくてもいいじゃない、って思うの。綾(綾織物)じゃないのはダメだけどね。


----------訳者の戯言---------

祭と言うと、当時は当然のこととして「葵祭」のことだったようですね。今は5月15日だそうです。けど昔は、旧暦の4月だったのは間違いありません。

原文には「袍」(うへのきぬ)っていう書き方になってるんですが、これは、ま、上着のことでしょう。位によって着るものの色なんかは違ってたようですね。当時は身分制度がっちがちの時代ですから、想像はできますが。

白襲(しらがさね)は、これも当時の衣装の一つなんでしょうけど、上着の下に着るもののようですね。白下襲とも言われるようです。

蔵人というのは、天皇の秘書官だそうです。だいたい10人くらい、いたらしい。憧れの職業の一つだったんでしょうか。
綾織物っていうのは、織り目が斜めになっている織物だそうで、文様を織り出してるようなのが多いみたいですね。
ここで「青色」って出てきますけど、実はこれ、ブルー系じゃないらしいです。「麹塵(きくじん/きじん)」と言われる色で、調べてみたところベージュでした、はっきり言って。あえて言えば黄味がかった緑(青?)です。

しかし葵祭。これ、徒然草で出てきた時も思ったんですけど、面白いの? 少なくとも今の時代は面白くないと思います。けど、当時は、今のTDLのパレードみたいに華やかな、イケてるイベントだったんだろうなとは思いますよ。

 

定者(じょうじゃ)というのは、法会(ほうえ)のとき、行列の先頭に立って香炉を持って進む役の僧侶だそうです。(2023/7/6追記)

 

【原文】

四月 祭の頃、いとをかし。上達部、殿上人も、袍の濃き薄きばかりのけぢめにて、白襲(しらがさね)ども同じさまに、凉しげにをかし。

木々の木の葉、まだいとしげうはあらで、わかやかに青みわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、何となくすずろにをかしきに、少し曇りたる夕つ方、夜など、忍びたる郭公(ほととぎす)の遠くそら音かとおぼゆばかり、たどたどしきを聞きつけたらむは、何心地かせむ。

祭近くなりて、青朽葉、二藍の物どもおしまきて、紙などにけしきばかりおしつつみて、行きちがひもてありくこそをかしけれ。裾濃、むら濃、巻染なども、常よりはをかしく見ゆ。童の、頭ばかりを洗ひつくろひて、なりはみなほころび絶え、乱れかかりたるもあるが、屐子、履などに、「緒すげさせ。裏をさせ」などもてさわぎて、いつしかその日にならなむと、急ぎおしありくも、いとをかしや。あやしうをどりありく者どももの、装束(さうぞ)きしたてつれば、いみじく定者などいふ法師のやうに練りさまよふ。いかに心もとなからむ。ほどほどにつけて、親、をばの女、姉などの、供し、つくろひて、率てありくもをかし。

蔵人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬが、この日青色着たるこそ、やがて脱がせでもあらばやとおぼゆれ。綾(あや)ならぬはわろき。


検:四月 祭の頃 四月、祭りのころ 四月、祭りの頃

三月三日は

 3月3日はうらうらとしてて、日差しものどか。桃の花がちょうど咲き始めて、柳が素敵!っていうのも今さらだけど、それもまだ繭に籠ってるのがいい感じ。広がっちゃったのはつまんない気がするわね。桜の花も散っちゃった後はあんまりよくないの。キレイに咲いた桜を長く折って、大きな瓶に挿してたりするのはほんと、すばらしい。桜襲ねの直衣からちょっと内着をのぞかせたスタイルで、お客さんだったり、(中宮の)ご兄弟の誰かれであっても、そこの近くでおしゃべりなんかしてるのって、すごくいい感じなのね。


----------訳者の戯言---------

3月3日と言えば、ひな祭り、桃の節句ですが、旧暦の3月3日は今なら3月下旬から4月中旬なんですね。旧暦というのは年によって日にちが違うので気候も異なるし、現代人にとってはややっこしいです。

桃の花というのは桜と時期的にはそれほどは変わらないらしいです。桃の方が若干遅いんでしょうかね。ちなみに現代、ひな祭りの頃に売られている桃の枝の生花は、温室栽培だそうです。そりゃそうでしょう。
柳の開花時期も同じ頃だそうです。

桜直衣=桜襲ねの直衣というのは、表地は白で、裏地が二藍(藍+紅、つまり紫系の色に染めた生地)の直衣だそうです。若い人は紅を濃い目にするとか。直衣(なほし/のうし)っていうのは、当時の男性のカジュアルウェア。ここで書かれてる着こなしを今に例えて言うと、裏地がチェリーピンクの白いジャケットの裾のとこから、さらに下に着てるシャツの裾をちょこっと出してる風、レイヤード、つまり重ね着のオシャレ感ですかね。
ジーンズからカルバンクラインのボクサーパンツのロゴをチラ見せする感じと同じですか。違いますか。


【原文】

三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲きはじむる、柳などをかしきこそさらなれ。それもまだまゆにこもりたるはをかし。ひろごりたるはにくし。花も散りたるのちはうたてぞ見ゆる。おもしろく咲きたる桜を、長く折りて、大きなる瓶(かめ)にさしたるこそをかしけれ。桜の直衣(なほし)に出袿(いだしうちき)して、まらうどにもあれ、御兄人の君達(きんだち)にても、そこ近くゐて物などうち言ひたる、いとをかし。

正月一日は

 1月1日は、いっそう空の様子がうららかで、フレッシュな感じに霞がかかってて。世の中の人びとみんなが、着るものも、ヘアメイクも全部ばっちりキメて、帝も自分も、って、お祝いしてるのはすごくいかしてるの。

 1月7日は雪の間に芽吹いた若菜摘み。青々してて、いつもはさほどそんなものなんて見慣れてない宮中で、もてはやしてるの。面白いよね。白馬節会(あおうまのせちえ)を見物しに、里の人は牛車をきれいに飾って見に行くの。で、待賢門の敷居を車が踏み越えるときに、頭をぶっつけ合って、櫛が落ちて、油断してたら折れたりもして笑っちゃうの、めっちゃウケるのよ。
 左衛門の陣(建春門)のたもとで、殿上人のみなさんがいっぱい立ってて、舎人(スタッフ)の弓を借りて馬をおどかして笑うのをちょこっとのぞいて見てたら、立蔀っていう衝立なんかが見えて、主殿司(とのもりづかさ)や女官たちが行き交ってるのも、すごくいい感じ。いったいどんな人が宮中を仕切ってるのか、気にはなったんだけど、車の中で見る限りはすごく狭い範囲だし、舎人の顔のメイクが落ちて、実際、地肌が黒いのにパウダーが乗ってないとこは、雪が溶けてむらむらに残ってる感じで、すごく見苦しくてね、馬が跳ねて騒いでたすりるのもめちゃくちゃ怖く思えて、引いちゃってよく見えないのよね。

 8日は、(昇進した?)人が喜んで挨拶回りに走らせてる車の音がいつもと違う、特別な感じに聞こえていかしてるの。

 1月15日には、餅粥を献上して、粥を炊いた薪木の残りを隠し持って女子スタッフたちがお尻を叩こうと隙を窺ってるんだけれど、打たれないわよ!って、用心して常に後ろに気を付けてる様子も、めっちゃおかしいのね。でも、どうやったのか隙をついてうまく当たったりすると、めちゃくちゃウケて爆笑しちゃうの、すっごくすっごく盛り上がるのよ。やられた人が悔しいって思うのも、納得しちゃう。
 新しく通ってくるようになったお婿さんが内裏へ出勤する支度をしてる時なんかにも、姫君を叩きたくてうずうずしちゃって「ここは我こそが!」って思ってる女房が、隙を覗き見しながら、やる気満々で奥の方でスタンバイしてるのを、前のほうにいる人はわかってて笑うもんだから(静かに!)ってジェスチャーで制止するんだけど、姫は全然わかってない顔で、おっとりとしてらっしゃるのね。で、「ここにある物をお取りしましょう」なんて言って、走り寄って来て、叩いて逃げたら、全員がめっちゃ笑うの。お婿さんもまんざらじゃない様子で微笑んで、打たれた本人もそれほどは驚かないんだけど、顔は少し赤くなってるのが、すごくかわいかったのよ。
 また、女子同士お互いに打ち合ったり、男だって叩いたりもするようなのね。どういうワケか、本気で泣いたり怒ったり、呪ったり、いまいましく言ったりする人もいて、でもそれだって、それはそれで面白いの。宮中なんかの高貴なところでも、今日だけはそんな風にみんな、はしゃぎまくって、いつものような慎みがなくなるのよね。

 除目(じもく)の頃には、宮中はとってもいい感じになるの。雪が降ってすごく凍ってるのに「申文」を持って歩く四位、五位の若々しくて元気な子たちは、とっても頼もしげなのよ。それに対して、年老いて白髪頭になった人なんかが、取り次いでもらうようにって、女房たちのスタッフルームとかに寄って、自分自身がデキるってことなんかを、必死でアピールするのを、若い女子たちがマネをして笑うんだけど、本人はつゆ知らず。「帝によろしくお伝えくださいね、皇后様にもよろしくね」なんて言って。出世できたらすごくいいんだけど、できなかったらかなり気の毒な話なのよね。


----------訳者の戯言---------

白馬節会というのは、「あおうまのせちえ」と読むらしい。天皇が白馬を見て一年の邪気を祓う儀式なんだそうです。

里人っていうのは、宮仕えしてない、里に住んでる人。田舎の人、って感じでしょうか。

中の御門っていうのは、ネットで調べると大内裏の外郭中央にある「待賢門(たいけんもん)」のこと、と書かれているんですが、元々が東面の中央にあるから、中御門と呼ばれたそうなんですね。つまり通称。それなりの由来があるのかと思ったら、案外、安易です。ちなみに閾(とじきみ)っていうのは、所謂敷居のことなのだそうです。

左衛門の陣というのは、左衛門府という役所の役人の詰め所のこと、のようなんですが、これが建春門という門のところにあったので、建春門のことを「左衛門の陣」と呼ぶようになったらしいですね。で、外側に外記庁っていう役所もあったので、「外記門」とも呼ばれたのだとか。で、このほかにも別名があったらしい。正式名称のほかに通称が3つも4つもある。すごくわかりづらいです。

そもそも、平安宮っていうのは、結構広い宮城なんですが、先に書いた「待賢門」は宮城全体(大内裏っていうエリア)のいちばん外側の囲いの門の一つなんですね。で、その中に役所やらいろいろな施設があるわけですが、さらにその内側に天皇のおはします「内裏」があったわけで、この内裏に出入りする門の一つが「建春門」でした。
で、その内側にもまた囲いがあって、いろいろな門があると。もちろん、その囲いの中にまた建物(宮殿)があるわけですが。
そういうわけで、平安宮には、めっちゃいっぱい門がありました。そりゃまあ、そうですよね。天皇が住んでるところなんですからね。セキュリティ的にも必要ですわね。

舎人(とねり)というのは、皇族や貴族に仕えて警備や馬、牛車などの担当、雑用をするスタッフ。
主殿司(とのもりづかさ)も、天皇の車、輿輦、帷帳に関すること、清掃、湯浴み、灯火、薪炭なんかをつかさどる役所の職員です。いずれもスタッフの方々ですね。

九重(ここのえ)というのは宮中のこと、らしいです。別名ですね。

さて、平安時代は宮中なんかにいる人は男性でも化粧していたらしい。これはもう当然のこととして。庶民以外は男性も化粧する文化というのは、昔からあったようで。むしろ、明治以降の、男は化粧しない、という歴史のほうが短いとも言われます。ですから、メンズコスメとかメンズエステが新しい、という言い方はもしかすると語弊があるのかもしれませんね。

だいたい、宮仕えの公務員の叙位、つまり昇進の発表っていうのは、お正月に行われたらしいです。7日とか8日とか。で、出世した人たちは、お礼とかご挨拶とかに回ったんでしょうね、うれしそうに。

さて、清少納言とか紫式部ですが、実は彼女たちは純粋な公務員ではなかったんですね。皇妃に雇われた私設秘書みたいなものだったらしいです。もちろん、後宮で勤務はしてるんですけどね。
だから、公務員の出世みたいなものにはあまり関係なかった。清少納言で例えると、一条天皇中宮の定子に誠心誠意お仕えすることに意義があるという、そういうポジションのようですね。

15日っていうのは今も小正月とか言って、どんど焼きとかやったりする地方などもありますが、平安時代なんかは宮中の行事で「餅粥節供」と言って、帝が小豆とか7種類の穀物を入れたおかゆを召し上がる儀式があったみたいです。旧暦では15日は「十五夜」なんて言うようにほぼ満月の日。今の暦とは違っておおよそ毎年満月なんですね(妙に違う時もある)。ご存じのとおり、昔は満月のことを望月(もちづき)と言いまして、「望月の日に食べる粥」「望粥」→転じて→「餅粥」という説が有力です。
で、この餅粥を炊くのに使った焚き木の燃えさしで作った杖で女性のお尻を叩いたら、男の子を出産する、という俗信があったそうで、貴族の間でも流行ってたようですね。今なら、セクハラ、マタハラで一発アウトです。

除目(じもく)っていうのは、官人を任命する儀式だそうです。特に「春の除目」というのが1月のこの頃に行われたみたいです。ウィキペディアには「春の除目」として「諸国の国司など地方官である外官を任命した。毎年、正月11日からの三夜、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行った」と書かれていました。

ここで出てくる「申文」(もうしぶみ)というのは、叙位や任官についての上申書だそうです。自分がいかに優れているか、正当であるかっていうのを自らしたためて出したらしい。自画自賛、文書でダイレクトにアピールするっていうのがこの時代のすごいところですね。もちろんそれを査定はしたみたいですけどね。

原文に、「老いて頭白き」人が女房たちに「よきに奏し給へ、啓し給へ」と言った、という記述があります。当時は、天皇や皇后に直接接することのある女子職員に、任官の口添えを頼む、ということもあったらしいですね。で、こういうことが書かれたのでしょう。
「奏す」っていうのは天皇に申し上げること、「啓す」っていうのは皇后とか皇太子に申し上げることだそうです。これはもう、絶対敬語としてこう決まってるんですね。


【原文】

正月一日は、まいて空のけしきもうらうらと、めづらしう霞みこめたるに、世にありとある人は、みな姿形心ことにつくろひ、君をも我をも祝ひなどしたるさま、ことにをかし。

七日、雪間の若菜摘み。青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ。白馬見にとて、里人は車清げにしたて見に行く。中の御門の閾引き過ぐるほど、頭一所にゆるぎあひ、刺櫛も落ち、用意せねば、折れなどして笑ふも、またをかし。左衛門の陣のもとに、殿上人などあまた立ちて、舎人の弓ども取りて馬どもおどろかし笑ふを、はつかに見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、主殿司、女官などの行きちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人九重を馴らすらむなど思ひやらるるに、内にて見るは、いとせばきほどにて、舎人の顔の衣もあらはれ、まことに黒きに白き物行きつかぬ所は雪のむらむら消え残りたる心地して、いと見苦しく、馬のあがり騒ぐなどもいと恐ろしう見ゆれば、引き入られてよくも見えず。

八日 人の、よろこびして走らする車の音、ことに聞こえてをかし。

十五日 節供参りすゑ、粥の木ひき隠して家の御達、女房などのうかがふを、打たれじと用意して常に後ろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打ちあてたるは、いみじう興ありて、うち笑ひたるは、いとはえばえし。ねたしと思ひたるも、ことわりなり。

新らしうかよふ婿の君などの、内裏へまゐるほどをも心もとなう、所につけて我れはと思ひたる女房の、のぞき、けしきばみ、奥の方にたたずまふを、前にゐたる人は心得て笑ふを、「あなかま」とまねき制すれども、女はた知らず顔にて、おほどかにてゐ給へり。「ここなる物取り侍らむ」など言ひよりて、走り打ちて逃ぐれば、ある限り笑ふ。男君も、にくからずうち笑みたるに、ことにおどろかず、顔少し赤みてゐたるこそをかしけれ。

また、かたみに打ちて、男をさへぞ打つめる。いかなる心にかありけむ。泣き腹だちつつ、人をのろひ、まがまがしく言ふもあるこそをかしけれ。内裏わたりなどのやむごとなきも、今日はみな乱れてかしこまりなし。

除目の頃など、内裏わたり、いとをかし。雪降り、いみじう氷りたるに、申文もてありく四位、五位、若やかに心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭白きなどが、人に案内言ひ、女房の局などによりて、おのが身のかしこきよしなど、心一つをやりて説き聞かするを、若き人々はまねをし笑へど、いかでか知らむ。「よきに奏し給へ、啓し給へ」など言ひても、得たるは、いとよし、得ずなりぬるこそいとあはれなれ。


検:正月一日は

頃は正月

時候は1月、3月、4月、5月、7、8、9月、11~12月、すべてその時々に応じて、1年中、いい雰囲気なのよね。


----------訳者の戯言---------

季節の折々、その時々にいい感じなんですよ、と言いたいのはわかるんですが、そんなの当たり前じゃん。と思うのは私だけでしょうか?

だとすると、2月、6月、10月はどうなった?という疑問も出てきます。
もうちょっと描きようがあるだろうと思います。

 

【原文】

頃は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月、すべてをりにつけつつ、一年(ひととせ)ながらをかし。

 

春はあけぼの

 春はあけぼの、夜明けが良いのです。だんだん白くなってく山際がちょっと明るくなって、紫っぽくなった雲が細くたなびくのね。

 夏は夜。月の頃はまた格別で、暗闇の中で蛍がいっぱい飛び交ってるの。で、また、1匹か2匹くらいが、ほんのちょっと光って飛んでくのもいい感じ。雨なんかが降るのもいいわね。

 秋は夕暮れ。夕日がさして、山に沈みかかって近づく頃、カラスが寝床に帰ろうって、3羽4羽、2羽3羽くらいずつ急いで飛びたって行くから、しみじみしちゃうの。それにもまして、雁なんかが並んで飛んでくのがかなり小っちゃく見えるのは、すごくいかしてるわよね。

 冬は早朝。雪が降るのは言うまでもないんだけど、霜がすごく白いのも、またそうじゃなくったって、すごく寒くてね、火なんかを急いでおこして炭を持ってくのも、とっても、らしくていい感じなの。でもお昼になって、寒さが落ち着いてゆるんでくると、火桶の火も白い灰がちになってダメなのよね。


----------訳者の戯言---------

枕草子と言えば、源氏物語と並ぶ平安時代を代表する文学であり、人気エッセイです。
作者は清少納言ですね。あ、みなさんご存じですか、そうですか。すみません。
ま、そのへんの枕草子情報については追々書いていくつもりですが、原典と言うべきものも実はいっぱいあって、今回、私はその中でもいちばんポピュラーではないか?と言われている「三巻本」を元に読んでいこうと思います。

さて。いちばん有名な、冒頭の「春はあけぼの」です。
学校の授業でもやるので、まずはこんな感じかなと書きました。と、悠長なこと言ってられるのも、今のうちでしょうね。


春はあけぼの、と言いますが、「あけぼの(曙)」っていったいいつ?と思いますよね。実は日の出の前後だということです。夜が明けて行く頃。暁(あかつき)はまだ暗いうちですから、それよりは後のようですね。
冬はつとめて、の「つとめて(夙めて)」のほうは、日が明けた後。「あけぼの」のさらに後くらいとなります。ちなみに「夙めて」の「夙(つと)」は、「早くから」「若い頃から」という意味の「夙に(つとに)」の「つと」と同じだそうです。
深夜から朝にかけて使われる語は他にもたくさんあります。「木の花は」という段にまとめていますので、よろしければご覧ください。(2023/6/30追記)

 

【原文】

春は あけぼの。やうやう白くなり行く山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は 夜。月の頃はさらなり、闇もなほ蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は 夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連らねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。

冬は つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。

 

検:春は、あけぼの