枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

大進生昌が家に③ ~つとめて、御前に参りて啓すれば~

 翌朝早くに、定子さまの御前に参上してご報告したら、「そんな軽薄な話は聞いたことない人なのにね。昨夜のことに感心して行ったんでしょう。不憫ですね、あんまりあの人のことを手厳しく言うのも、かわいそうですよ」って、お笑いになるの。

 姫宮(内親王)さまにお仕えする女の子の着物を作るようにと定子さまが生昌におっしゃった際にも、「この『袙(あこめ)のうわおそい(上襲=上に着る物)』は、何色にして仕立てましょうか」って言うから、また笑っちゃうんだけど、仕方ないわよね。
 「姫宮の御膳に使う食器は、大人に使うものでは具合悪いでしょう。小せえ折敷に、小せえ高坏なんかのほうがよろしゅうございますでしょう?」なんて言うもんだから、「そう、それだったら、『うわおそい』を着た子も、お仕えしやすいでしょうしねw」って私が言ったら、定子さまが「いやいや、普通の人みたいに、この人をそんな風に笑ってはいけません。とてもまじめな人なのですから」と、すごく気の毒がっていらっしゃるの、それがまたとっても素敵なの。

 合間の時間帯に、「大進が(清少納言に)どうしても申し上げたいことがあるんですって」と(誰かが)言ってるのを、定子さまがお聞きになって、「またどんなことを言って、笑われようとしてるのかしらね」っておっしゃる様子もまたかわいらしいの。「行って聞いてきたら!?」とおっしゃるものだから、わざわざ彼のところに出向いたら、「あの夜の門のことを、中納言(兄の平惟仲)に話しましたら、すごく感心いたしましてね、『何とかいい機会があったら、ゆっくりお会いしてお話ししたいもんだよね』って申してましたよ」って。でもそれ以上には何も言わないのよね。
 あの夜のことを言うのかな、ってドキドキしたんだけど、「今はまあ、置いといて、また、そちらに伺いますね」とだけ言って帰っちゃったから、定子さまの元にまた参上したら、「それで、何事でしたの?」とおっしゃるの。で、彼が言ったことを、こうこうこうでした、と申し上げたら、みんなが「わざわざお伺いを立てて、呼び出して言うことではないわよね。たまたまお屋敷の端っこの方とか部屋なんかにいる時にだって言えるでしょうに」って笑うんだけど、定子さまだけは、「自分の中で『賢い』って思う人が褒めたものだから、きっと喜ぶだろうナって思って、報告に来たんじゃないかしら?」って。そうおっしゃるその様子も、すごくステキなの。


----------訳者の戯言---------

袙(あこめ)っていうのは女の子の着物の一つなんだそうです。その上に「汗衫(かざみ)」という上着を着るらしいんですが、その名前を知らなかったようですね、生昌は。で「うわおそい(上襲)」、つまり「上に着るもの」って雑な感じに言っちゃった。
で、笑われてしまったと。

折敷(おしき)というのは食器を載せる四角い縁付きのお盆に脚がついた食台とのこと。高坏(たかつき)というのは高い台のついた坏形の食器。「坏」というのはお椀よりは浅くて皿よりは深い、というものらしい。だいたい木製で、形はソーサー型のシャンパングラスのような形です。飲み口が広くフラットになってる、シャンパンタワーに使うやつといえば、わかりやすいでしょうか。

ここで出てきた「中納言(兄の平惟仲)」は前々回、「大進生昌が家に①」でちょっと触れましたが、中宮定子の兄である藤原伊周の政敵・藤原道長に超ヨイショして昇進した人ですね。
平惟仲と平生昌は異母兄弟のようですが、きっと兄のことを尊敬してたんでしょうね。

読んでいると、なんとなく、生昌がことあるごとに笑いものにされてるように見えるんだけれども、そんな大悪人でもなく、ちょっとドジで、でもマジメ、という意外といい人そうにも感じられるようになってきます。イジられキャラですね。アンジャッシュ児島的な。夜這い?モドキのことされても、清少納言もまんざらでもなさそうですしね。

そして何かにつけて、中宮・定子を絶賛する清少納言。ほめ過ぎでしょう。


【原文】

つとめて、御前に参りて啓すれば、「さることも聞えざりつるものを。夜(よ)べのことにめでて行きたりけるなり。あはれ、かれをはしたなう言ひけむこそ、いとほしけれ」とて、笑はせ給ふ。

姫宮の御方の童べの装束、つかうまつるべきよし仰せらるるに、「この袙のうはおそひは、何の色にかつかうまつらすべき」と申すを、また笑ふもことわりなり。「姫宮の御前の物は、例のやうにては、憎げに候はむ。ちうせい折敷に、ちうせい高坏などこそよく侍らめ」と申すを、「さてこそは、うはおそひ着たらむ童も、参りよからめ」と言ふを、「なほ、例の人のやうに、これなかくな言ひ笑ひそ。いと謹厚なるものを」と、いとほしがらせ給ふもをかし。

中間なるをりに、「大進、まづ物聞えむとあり」と言ふを聞こしめして、「またなでふこと言ひて、笑はれむとならむ」と仰せらるるもまたをかし。「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のこと、中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、『いかでさるべからむをりに、心のどかに対面して、申し承らむ』となむ申されつる」とて、またことごともなし。一夜のことや言はむ、と心ときめきしつれど、「今しづかに、御局に候はむ」とて往(い)ぬれば、帰り参りたるに、「さて、何事ぞ」とのたまはすれば、申しつることを、さなむと啓すれば、「わざと消息し、呼びいづべきことにはあらぬや。おのづから端つ方、局などにゐたらむ時も言へかし」とて笑へば、「おのが心地にかしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふと、告げ聞かするならむ」とのたまはする御けしきも、いとめでたし。

 

 

大進生昌が家に② ~同じ局に住む若き人々などして~

 同じ部屋に滞在する若い子たちみんな、別に何も気にしないで、眠くなったから寝てしまったの。
 私の部屋は東棟の「西の廂」の部屋で、北に続いてるんだけど、北の障子戸にはカギも付いてなくって、そのことも確認してなくって。家の主人だってことで彼は家の勝手も知ってて開けたんだね。変にしゃがれてて上ずった声で、「入っていいですか? どうですか?」って、何回か言う声がするもんだから、びっくりして見たら、几帳の後ろに立ててた燭台の光で明々としててね、そこで障子を15cmほど開けて言ってたの、めっちゃウケるわww
 こんな色っぽいことなんか絶対しないはずのに、自分ちに中宮が来られたので、浮かれちゃって無闇にはしゃいじゃってるんだろうなーって思って、すごく可笑しいのよね。

 横に寝ている女房を揺り起こして、「あっちをご覧になって! こんな時にほんとなら見れない者がいるじゃない!」って言ったら、頭を持ち上げて見て、めちゃくちゃ笑うの。「あれは誰? 告りに来たの?」って言ったらね、「違いますよ。家の主として、相談したいことがことがございまして…」って言うの。で、「門のことは言いましたけど、障子を開けけてくださいなんて、言ったかしら?」って言ったら、「そのことも申し上げましょう。そちらに伺ってもいいですか? いかがですか?」と言うもんだから、「ほんとに見苦しゅうございますわ! ここから先は入っちゃダメです」って他のコが笑ったら、「若い人がいらっしゃったんですね」って、戸を閉めて帰って行った後、めちゃくちゃ笑っちゃって。開けるくらいなら、シンプルに入ってきたらいいんだし。いいかどうかと言われたら、OKとは誰も言わないでしょうよ、まじウケるわ。


----------訳者の戯言---------

廂というのは「ひさし」のことで、母屋の外側に付加されてる部屋らしいです。

「几帳」というのは、この当時の間仕切り。可動式のパーテーションですね。
細かなところまできっちりしている人を「几帳面な人」と言ったりしますが、この几帳から来てるそうです。元々、几帳の柱が細部まで丁寧に仕上げてある、ということからこう言うんですね。勉強になりました。

こういう気のつかない人、残念な人というのは、いつの世にもいるもので、ある意味、不器用な人であり、同情すべきでもあります。


【原文】

同じ局に住む若き人々などして、よろづの事も知らず、ねぶたければみな寝ぬ。東の対の西の廂、北かけてあるに、北の障子に懸金もなかりけるを、それも尋ねず、家あるじなれば、案内を知りて開けてけり。あやしくかればみさわぎたる声にて、「候はむはいかに、いかに」と、あまたたび言ふ声にぞおどろきて見れば、几帳(きちやう=間仕切り)の後ろに立てたる灯台の光はあらはなり。障子を五寸ばかり開けて言ふなりけり。いみじうをかし。さらにかやうのすきずきしきわざ、ゆめにせぬものを、わが家におはしましたりとて、むげに心にまかするなめり、と思ふも、いとをかし。

かたはらなる人を押し起こして、「かれ見給へ。かかる見えぬもののあめるは」と言へば、かしらもたげて見やりて、いみじう笑ふ。「あれはたそ、けそうに」と言へば、「あらず。家のあるじと、定め申すべきことの侍るなり」と言へば、「門のことをこそ聞えつれ、障子開け給へとやは聞こえつる」と言へば、「なほそのことも申さむ。そこに候はむはいかに、いかに」と言へば、「いと見苦しきこと。さらにえおはせじ」とて笑ふめれば、「若き人おはしけり」とて、引き立てて往ぬる、のちに、笑ふこといみじう、開けむとならば、ただ入りねかし、消息を言はむに、よかなりとは、たれか言はむ、と、げにぞをかしき。

 

 

大進生昌が家に①

 中宮大進の平生昌の家に、中宮(定子さま)がお出ましになるっていうんで、東側の門は四つ足の門に改築して、そこから御輿がお入りになるのね。
 北の門から、お付きの女房たちの車は、警護スタッフがいないからそのまま入れるだろうなと思ってて。だからヘアスタイルが決まってない人も、そんなにはセットしなくても、建物に車を付けて降りられるわ、ってあなどってたら、檳榔毛(びろうげ)の車みたいな大型車なんか、門が小さくって、つっかえてしまって入れなかったから、いつもの敷物(筵道)を敷いて降りなくちゃいけなくて、それ、すごく憎ったらしくて腹立ったんだけど、どうしましょ! 殿上人(幹部スタッフ)から一般のスタッフまで、詰所の側に立って見てるのも、すごく癪に障るのよね!

 で、定子様の御前に参上して、事の次第を申し上げたら、「いくら気を遣わなくていいっていうこの屋敷にしても、人は見るものでしょ? どうしてそんなに気が緩んでたの?」ってお笑いになるの。
 「でも、それは知り合いばかりですから、すごくオシャレにし過ぎてたら、かえって驚く人もいるでしょう。でも、これほどのお屋敷なのに車が入らない門があろうとは…。主人の生昌様がお見えになったら、笑いものにしてあげませんとねw」なんて言ってたら、生昌が「これを(中宮に)差し上げてください」って、硯なんかを御簾に差し入れられたのね。
 「ちょっと、みっともないでしょう!? どうしてあの門はあんな狭く作ってらっしゃるんですか?」って言ったら、笑って、「家のサイズは、身の程に合わせてございますので…」と返答。「でもね、門だけ立派に作る人もいるでしょう?」って言ったら、「わ、怖わっ」って驚いて、「それは于定国のことでしょう? かつて中国の歴史や漢文の学問を学ばれた方でもなかったら、わかりそうもないことでございますよ。私はたまたまこの分野をやらせてもらってたので、これくらいだったら理解はできてるんですけど」って言うのね。
 「そのお勉強も大したことないんじゃ? 門からは筵道を敷いて歩いて入ったんですけど、みんな、ヘコんだところにはまったりして、大騒ぎしたんですからね!」と言ったら、「雨が降ってましたので、そういうこともございますでしょう。はいはい、ほかにもおっしゃられてないこともおありでしょう…。ってことで、失礼いたします」って帰ってったの。
 定子さまは「何事ですか、生昌がすごく怖がってたわね」とお聞きになったものだから、「いえいえ、車が入らなかったことを言っておりましたのです」って申し上げて、戻ってまいったの。


----------訳者の戯言---------

まず、この段、訳し始めたんですけど、全然意味がわからなくて、頭に入ってこない。
なぜか。もちろんそもそもの私の理解力の無さという根本的理由はあるんですが、やはりこの話の背景がわかってないとどうも理解しがたいんですね。

で、まずはその背景を。

大進(だいじん/たいしん/たいじょう)というのは何?ということですが、これ、当時の役職の一つで、妃の世話を行うために設置された部署「中宮職」の官職の一つだそうです。で、この中宮大進をやってたのが平生昌(なりまさ)という人でした、と。そんな高い位ではないみたいですね。朝廷を会社に例えたら次長とか課長とかくらいのイメージでしょうか。

枕草子を読んでいらっしゃる方はご存じだとも思いますが、そもそも、一条天皇中宮・定子の父は、摂政関白内大臣藤原道隆という人でした。つまり、天皇に次ぐ権力者です。が、この父が病気で亡くなった後、後を継ぐかと思われていたのはその息子、つまり定子の兄の藤原伊周だったんです。しかし父・道隆の弟、つまり伊周の叔父・藤原道長と主導権争いをすることになってしまいます。
その結果、政争に敗れたのは藤原伊周のほうでした。失脚して大宰府への左遷が決まると。でも途中で病気の母がまだ残ってる京都に密かに戻るんですね。

で、このことを知って藤原道長に密告した人物の一人が、ここで登場する大進・平生昌という人なんだそうですね。

ということは、平生昌っていう男、元々は作者・清少納言が敬愛する定子の兄・藤原伊周の政敵・道長にヨイショするヤな奴だろうよっていうキャラなのかもしれないですね。
平惟仲という兄もいるんですが、この人も嫌なタイプで、道隆の死後、中関白家(藤原道隆の家)が衰退するだろうなーという兆しを嗅ぎ取って、巧みに道長に取り入って、長徳2年(996年)には道長派の朝廷幹部として権中納言に昇格しました。
改元して長保元年(999年)には一条天皇中宮・定子の中宮職の長官である中宮大夫を兼務したんですが、落ち目の中関白家と関わるのが嫌だってことで、半年で辞任しています。権力に媚びへつらう非常に嫌ーな兄弟なワケですね。

清少納言枕草子を書いたのは1000年頃と言われていて、この段の逸話があったのが999年だそうです。
そもそも清少納言が定子の元に出仕したのが、993年、27歳の時、一条天皇中宮であった定子はその時17歳。定子は13歳くらいで3歳年下の一条天皇に入内してますから、相当な早婚です。しかも天皇からしたら、ちょっとお姉さんなんですね。

聡明で活発な才女の清少納言。他方、定子は天皇のお気に入りのお妃様であり、心優しく聡明な美少女。清少納言は定子を敬愛し、定子も気鋭の私設秘書・清少納言に大きな信頼を寄せるという、相思相愛の関係にあったと見られているようですね。


そして、この段の話です。
これ、話としては宮(=中宮・定子)が出産のために平生昌の家に入るときのこと、なんですね。

今言うと大問題なのですが、当時は出産は「穢れ」ということで宮中では許されてなかったらしいです。で、本来は実家に戻るというのが習わしだったそうなんですが、定子の実家は火事で焼失してしまっていたそうです。政争で敗れた家ですからね。ま、このお話の時には兄たちは許されてはいたようなんですけど。実家は再建されてなかったんでしょう。

実は定子は、兄の藤原伊周が左遷させられるとなった時、一度出家してるんですね。

話が逸れるんですが、藤原伊周と弟の隆家は、ヤンチャというか、武闘派というか、自分の彼女を花山上皇一条天皇の先代)に寝取られたと誤解して襲撃したらしいです。
もちろん、本人たちは否定したらしいですけどね。で、これを政争の具にされたわけです。ですから、伊周も悪いっちゃあ悪いんです。上皇に弓引いちゃダメでしょう、そりゃあ。自業自得ですね。脇が甘いです。

定子はお兄様たちのあおりをかなり食ってます。このあたりから中関白家が没落したのも藤原伊周・隆家兄弟に原因大ありでしょう。

で、一条天皇が強く望んだとはいえ、いったん出家したのに再入内するというのは、異例中の異例。これは貴族たちからもかなり顰蹙を買ったらしくて、定子に対する風当たりも強かったようですね。

とまあ、そのような状況もあって、中宮職の長官でもなく「大進」っていう中途半端な役職の人の家での出産という事態になった、というのが、この段の前提です。

では、詳細。

檳榔毛(びろうげ)の車というのはビラビラで飾った、豪華仕様の大型車です。
筵道っていうのは筵(むしろ)、つまり敷物ですね。「上達部(かんだちめ)」はすでに何回か出てきましたけど、宮中の幹部たる貴族のことだそうです。
なお、「枇榔毛は」という段がありますので、よろしければ詳しくはそちらをお読みください。

「于定国」というのは、「う ていこく」という中国の人だそうです。国の名前ではありません。この人の父は裁判が公平だったので有名になって、生きているうちから祠が作られるほどだったとか。で、住んでいる里の門を再建するときに、「門は立派な車も通れるように大きくしてほしい。私は公平な裁判で陰徳をつんでいるから、子孫が立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言ったそうです。という逸話。
「蒙求」という中国のことを学ぶ教科書的な本に出てくる「于公高門」という故事だそうです。もちろん当時この本は日本でも読まれてたらしいですね。

進士っていうのは、中国の歴史や漢文の学問、学科。今回のネタもそこそこの勉強をしてないとわからないでしょうね。

清少納言自身が「門だけをデカく作った」故事を知ってて、さらっと皮肉を言った小自慢。
平生昌をちょい怖がらせちゃったわ、早々に退散させちゃったヨ~という、快感、面白話。
生昌が「于定国」の名前を出して中途半端な知識自慢をしてきたことに対する嘲り、イジり。(もうちょっとスマートな言い方できへんのかいな!的な)

しかし、定子様はさすが寛大というか心優しいというか、さすがだわ!と礼賛。

というお話でしょうか。この段まだまだ続きます。
んもう、長いよー。


【原文】

 大進(だいじん)生昌(なりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。北の門より、女房の車どももまた陣の居ねば入りなむと思ひて、頭つきわろき人も、いたうもつくろはず、寄せて降るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びらうげ)の車などは、門小さければ、さはりてえ入らねば、例の、筵道(えんだう)敷きて降るるに、いとにくく腹立たしけれども、いかがはせむ。殿上人、地下なるも、陣に立ち添ひて見るも、いとねたし。

 御前に参りて、ありつるやう啓すれば、「ここにても、人は見るまじうやは。などかはさしもうちとけつる」と笑はせ給ふ。「されど、それは目なれにて侍れば、よくしたてて侍らむにしもこそ、おどろく人も侍らめ。さてもかばかりの家に、車入らぬ門やはある。見えば笑はむ」など言ふほどにしも、「これ参らせ給へ」とて、御硯などさし入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。などその門、はたせばくは作りて住み給ひける」と言へば、笑ひて、「家のほど、身の程に合はせて侍るなり」といらふ。「されど、門の限りを高う作る人もありけるは」と言へば、「あな、おそろし」と驚きて、「それは于定国がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずは、承り知るべきにも侍らざりけり。たまたま此の道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られ侍る」と言ふ。「その御道もかしこからざめり。筵道敷きたれど、みな落ち入りさわぎつるは」と言へば、「雨の降り侍りつれば、さも侍りつらむ。よしよし、また仰せられかくる事もぞ侍る。まかり立ちなむ」とて往ぬ。「何事ぞ、生昌がいみじうおぢつる」と問はせ給ふ。「あらず。車の入り侍らざりつること言ひ侍りつる」と申して下りたり。

思はむ子を

(かわいいって)思うような子どもを僧侶にするなんてことは、まったく心苦しいものよ。ただ木っ端やなんかみたいに思われてるのは、すごく気の毒。精進料理のかなり粗末なものを食べ、居眠りするくらいのことでもね。

 若い僧侶は心惹かれるものも、めちゃくちゃあるだろうしね。女の子なんかがいるところだって、どうしてだか忌み嫌うみたいに、覗き見したりもしないのでしょ。そんなことだって、ごちゃごちゃ言われちゃうんだもの。
 ましてや、修行僧なんかはすごく苦しそう。疲れて眠り込んだりしたら、「居眠りばっかりして」なんてdisられちゃう。すごく窮屈だし、その辺どう思うんだろうね。

 でも、これは昔のことのみたい。今はもっと気楽な感じよね。


----------訳者の戯言---------

子どもを僧侶にするっていうのは、かわいそうだよ、って話ですね。
たしかにたいへんそうだ。今の仏教系大学の学生はまあまあ楽しそうですが。

ちなみに徒然草第一段には、この枕草子からの引用として次のように書かれています。

法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。(お坊さんほどうらやましくないものはないね。『人には木っ端みたい思われるんだよ』と清少納言も書いてるけど、そのとおりさ)

吉田兼好自身が僧侶ですから。自虐です。

それでも子どもをお坊さんにしたい親というのはいつの時代にもいるようで、同じく徒然草第百八十八段に、ちょっとお説教臭いエッセイが収められていました。よろしければご一読ください。


【原文】

思はむ子を法師になしたらむこそ心苦しけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進もののいとあしきをうち食ひ、寝ぬるをも。若きものもゆかしからむ。女などのあるところをも、などか忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ。それをもやすからずいふ。まいて、験者などはいと苦しげなめり。困じてうち眠れば、「ねぶりなどのみして」などもどかる、いとところせく、いかにおぼゆらむ。

これはむかしのことなめり。今やうはやすげなり。

同じことなれども

 同じことなんだけど、聞いた感じが違うもの。お坊さんの言葉。男の人の言葉。女子の言葉。身分の低い人の言葉には必ず余計なひと言がついてくるの。(言葉は足りないくらいが、感じいいのにね)


----------訳者の戯言---------

まあ、前半部分は当たり前って言えば当たり前なんですが。

しかし、昔の人の人権感覚というか、身分差別意識というのは現代とは程遠くて、これを今の感覚で捉えると違和感しかないんですが、当時は当たり前だったわけで。ポリコレなんていう視点なんか到底ないわけだし、今後もたぶんいっぱい出てくると思いますけど、とにかく身分の低い者には容赦ないです。

清少納言なんて、当時の教養人の代表の一人なんでしょうけど、それでもこれが常識だったんですよね。
政治家だって、官僚だってそうだったし、神官や僧侶でさえ、そういうヒエラルキー社会の中で、それを肯定しつつ生きてたわけです。
まあ、毎回いちいちひっかかってられないし、そういうこと前提で読まないといけない、と、最初のうちにこれは書いておきましょう。現代に生きる私は肯定しないし、違和感しかないですけどね、と。

例えば平安時代に、今みたいなポリコレ上等、アンチ差別主義者みたいな著述家がいたらかなり面白かったんだろうとは思います。けど、きっと迫害されるか、無視されるか、いずれにしろ淘汰されたでしょうね。


【原文】

同じことなれども聞き耳ことなるもの 法師のことば。男のことば。女のことば。下衆のことばには、必ず文字あまりたり。(足らぬこそをかしけれ)

四月 祭の頃

 4月、葵祭の頃って、すごく素敵な季節。宮中の幹部たちから、四位、五位、六位の昇殿を許された職員たちまで、上着は濃いか薄いかの違いはあるんだけど、白襲(しらがさね)はみんなおんなじ様子で、凉しげでいい感じ。

 木々の葉っぱは、まだすごく茂ってるってほどじゃなく、若々しく青さが広がってて、霞も霧も立ってない空の風景が、何となく、理由もないけど素敵に思えて、少し曇った夕方や夜なんかに、そっとホトトギスが遠くで、そら耳かなって思うくらいに、たどたどしく鳴いてるのが聴こえたのって、どんな気持ちがすると思う?(すごくいい気持ちに決まってるでしょ!)

 (賀茂)祭が近くなって、青朽葉(青味がかった朽葉色)、二藍(藍+紅で染めた紫色)の反物なんかを巻いて、紙とかにほんの少しだけ包んで、行ったり来たり歩いてるのもいいよね。裾濃(裾が濃くなっていくグラデーション柄)、むら濃(=斑濃。ところどころを濃淡にぼかして染め出した柄)、巻染(布を巻いて糸で括って染めて、括った部分が白く残ってる生地の柄)なんかも、普段よりもっと素敵に感じるわ。
 子どもの頭だけはきれいに洗って整えてるんだけど、身なりはっていうと、服が全部ほころんでしまって、ぐっしゃぐしゃになりかけてるんだけど、下駄や靴なんかに「鼻緒をつけさせて!裏打ちをさせて!」なんて言って、大騒ぎして、早くそのお祭りの日にならないかなって、はやって、どんどん歩き回ってるのも、とってもかわいいのよね。で、そうやってはしゃいで歩き回ってる子たちが、ちゃんとした衣装をきちんと着れば、まるで定者とかいう僧侶みたいに練り歩くの。なんだか心配なんでしょう、それぞれの身分に応じて、親や叔母、姉たちがついてって着物を整えたりして、連れて歩くのも良いものよね。

 蔵人を目指してるけど、すぐにはなれない人が、この祭の日に(蔵人と同じ)青色の衣装を着るんだけど、別にすぐに脱がさなくてもいいじゃない、って思うの。綾(綾織物)じゃないのはダメだけどね。


----------訳者の戯言---------

祭と言うと、当時は当然のこととして「葵祭」のことだったようですね。今は5月15日だそうです。けど昔は、旧暦の4月だったのは間違いありません。

原文には「袍」(うへのきぬ)っていう書き方になってるんですが、これは、ま、上着のことでしょう。位によって着るものの色なんかは違ってたようですね。当時は身分制度がっちがちの時代ですから、想像はできますが。

白襲(しらがさね)は、これも当時の衣装の一つなんでしょうけど、上着の下に着るもののようですね。白下襲とも言われるようです。

蔵人というのは、天皇の秘書官だそうです。だいたい10人くらい、いたらしい。憧れの職業の一つだったんでしょうか。
綾織物っていうのは、織り目が斜めになっている織物だそうで、文様を織り出してるようなのが多いみたいですね。
ここで「青色」って出てきますけど、実はこれ、ブルー系じゃないらしいです。「麹塵(きくじん/きじん)」と言われる色で、調べてみたところベージュでした、はっきり言って。あえて言えば黄味がかった緑(青?)です。

しかし葵祭。これ、徒然草で出てきた時も思ったんですけど、面白いの? 少なくとも今の時代は面白くないと思います。けど、当時は、今のTDLのパレードみたいに華やかな、イケてるイベントだったんだろうなとは思いますよ。

 

定者(じょうじゃ)というのは、法会(ほうえ)のとき、行列の先頭に立って香炉を持って進む役の僧侶だそうです。(2023/7/6追記)

 

【原文】

四月 祭の頃、いとをかし。上達部、殿上人も、袍の濃き薄きばかりのけぢめにて、白襲(しらがさね)ども同じさまに、凉しげにをかし。

木々の木の葉、まだいとしげうはあらで、わかやかに青みわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、何となくすずろにをかしきに、少し曇りたる夕つ方、夜など、忍びたる郭公(ほととぎす)の遠くそら音かとおぼゆばかり、たどたどしきを聞きつけたらむは、何心地かせむ。

祭近くなりて、青朽葉、二藍の物どもおしまきて、紙などにけしきばかりおしつつみて、行きちがひもてありくこそをかしけれ。裾濃、むら濃、巻染なども、常よりはをかしく見ゆ。童の、頭ばかりを洗ひつくろひて、なりはみなほころび絶え、乱れかかりたるもあるが、屐子、履などに、「緒すげさせ。裏をさせ」などもてさわぎて、いつしかその日にならなむと、急ぎおしありくも、いとをかしや。あやしうをどりありく者どももの、装束(さうぞ)きしたてつれば、いみじく定者などいふ法師のやうに練りさまよふ。いかに心もとなからむ。ほどほどにつけて、親、をばの女、姉などの、供し、つくろひて、率てありくもをかし。

蔵人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬが、この日青色着たるこそ、やがて脱がせでもあらばやとおぼゆれ。綾(あや)ならぬはわろき。


検:四月 祭の頃 四月、祭りのころ 四月、祭りの頃

三月三日は

 3月3日はうらうらとしてて、日差しものどか。桃の花がちょうど咲き始めて、柳が素敵!っていうのも今さらだけど、それもまだ繭に籠ってるのがいい感じ。広がっちゃったのはつまんない気がするわね。桜の花も散っちゃった後はあんまりよくないの。キレイに咲いた桜を長く折って、大きな瓶に挿してたりするのはほんと、すばらしい。桜襲ねの直衣からちょっと内着をのぞかせたスタイルで、お客さんだったり、(中宮の)ご兄弟の誰かれであっても、そこの近くでおしゃべりなんかしてるのって、すごくいい感じなのね。


----------訳者の戯言---------

3月3日と言えば、ひな祭り、桃の節句ですが、旧暦の3月3日は今なら3月下旬から4月中旬なんですね。旧暦というのは年によって日にちが違うので気候も異なるし、現代人にとってはややっこしいです。

桃の花というのは桜と時期的にはそれほどは変わらないらしいです。桃の方が若干遅いんでしょうかね。ちなみに現代、ひな祭りの頃に売られている桃の枝の生花は、温室栽培だそうです。そりゃそうでしょう。
柳の開花時期も同じ頃だそうです。

桜直衣=桜襲ねの直衣というのは、表地は白で、裏地が二藍(藍+紅、つまり紫系の色に染めた生地)の直衣だそうです。若い人は紅を濃い目にするとか。直衣(なほし/のうし)っていうのは、当時の男性のカジュアルウェア。ここで書かれてる着こなしを今に例えて言うと、裏地がチェリーピンクの白いジャケットの裾のとこから、さらに下に着てるシャツの裾をちょこっと出してる風、レイヤード、つまり重ね着のオシャレ感ですかね。
ジーンズからカルバンクラインのボクサーパンツのロゴをチラ見せする感じと同じですか。違いますか。


【原文】

三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲きはじむる、柳などをかしきこそさらなれ。それもまだまゆにこもりたるはをかし。ひろごりたるはにくし。花も散りたるのちはうたてぞ見ゆる。おもしろく咲きたる桜を、長く折りて、大きなる瓶(かめ)にさしたるこそをかしけれ。桜の直衣(なほし)に出袿(いだしうちき)して、まらうどにもあれ、御兄人の君達(きんだち)にても、そこ近くゐて物などうち言ひたる、いとをかし。