枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

十二月二十四日

 十二月二十四日、中宮さまの御仏名の半夜(はんや)の導師の読経を聞いてから退出する人は、もう真夜中の時間帯を過ぎてたでしょうね。
 何日も降ってた雪が今日は止んで、風とか激しく吹いたもんだから、氷柱(つらら)がいっぱい長く垂れさがってて、地面なんかはまだらに白い所が多くなりがちで、屋根の上はただ一面に白くって。変テコなみすぼらしい民家も雪で全部隠してて、有明の月が翳りもなく明るく照らして、すごくいかしてるの。屋根は白銀を葺いたみたいで、氷柱は「水晶の滝」とかって言いたいような、長かったり短かったり、わざわざかけ渡してる風に見えて、言葉では言い尽くせないくらい素晴らしくって、下簾(したすだれ)もかけない車が、簾をすごく高く巻き上げてるもんだから、奥まで差し込んだ月の光に、薄紫、白いの、紅梅とかを7、8枚ほど着てる上に濃い紫の衣のすごく鮮やかな光沢なんか月光に映えて、情緒深く見えるの、その傍らに葡萄染(えびぞめ)の固紋(かたもん)の指貫に、白い単衣なんかをたくさん重ね着して、山吹色や紅色の衣とかを外に出して着て、とても白い直衣の紐を解いてるもんだから、直衣がはだけて垂れて車からこぼれ出てるのね。指貫の片方の脚は、車の軾(とじきみ)の所に踏み出してるとか、行く道の途中で誰か人と出会ったら、いかしてるなって見ることでしょう。
 月が明るくてきまり悪いものだから、(女子は)奥の方にすべりこむのだけど、(男は)ずっとそばに引き寄せ続けて、露わにされて女子が嫌がってるのもおもしろいわ。「凛々として氷(こおり)鋪(し)けり」っていう詩を繰り返し繰り返し吟じていらっしゃるのは、すごくおもしろくって、一晩中でもこうして車に乗っていたいのに、目的地が近くなるのは残念ね。


----------訳者の戯言---------

御仏名(おぶつみょう/みぶつみょう)というのは、宮中の清涼殿で、陰暦十二月十九日から三日間行われた行事だそうです。高僧に「仏名経」という諸仏の名を称えた経典を読経させて罪の消滅を祈るというものです。

半夜(はんや)というのは真夜中のことです。およそ、子(ね) の刻から丑(うし) の刻までくらいを言う場合もあるそうですね。0時前後から2時、3時って感じでしょうか。

垂氷(たるひ)というのは、氷柱(つらら)のことだそうです。

葡萄染(えびぞめ)の固紋(かたもん)の指貫。
葡萄染は赤みがかった紫です。固紋は織物の紋様を、糸を浮かさないで、 固く締めて織り出したものを言うらしいです。カッチリと模様が織り込んであるイメージでしょうかね。指貫はこれまでに何度も何度も出てきましたが、男性が穿くカジュアル系のボトムスです。

軾(とじきみ)。牛車の前後の口に張り渡した低い仕切りの横木のこと、だそうです。

「凛々として氷鋪けり」は、「和漢朗詠集」(十五夜の句)から。です。この詩をイカした男が詠ったのでしょう。「秦甸(しんでん)ノ一千余里 凛々トシテ氷鋪ケリ」(中国の秦の王都の咸陽近辺の広大な地、寒気が身にしみ氷が敷きつめられたように美しい)みたいな。

秦甸というのは秦の都・咸陽近辺に広がる土地のことのようです。ちなみに咸陽は、漢の都・長安とは位置的に少しずれているんですね。秦が滅亡した後で郊外に新しい都をつくったというイメージかと思います。


というところで、はて? 宮中では陰暦十二月十九日から三日間行われる御仏名のはずなのに何故十二月二十四日なの?とシンプルな疑問が出てきました。
原文には「宮の御仏名」と書かれていますから、中宮主催の「御仏名」のようです。宮中のオフィシャルな「御仏名」は19日からだけど、中宮主催のものはズレるのか?

ということでLINEオプチャと知恵袋で聞いてみたところ、まず、「御仏名」については、「例文 仏教語大辞典」(小学館)に、室町時代末期成立の「塵添壒囊鈔(じんてんあいのうしょう)」を紹介して「御仏名の事。十二月十九日・廿日・廿一日の間に、吉日を択て行るゝ也」とあることがわかりました。つまり19日~21日の中から吉日を選んでそれから連続3日間の日程で行われた、というのが正しいようです。そのため21~23日など、多少ズレが出る場合がある可能性が出てきました。
しかし、それでも1日及ばず、24日には届きません…。

もう一つ、Yahoo!知恵袋で得た手がかりを元に「日本紀略」を調べました。「日本紀略」は「国立国会図書館デジタルコレクション」で見ることができます。
すると、「日本紀略」の八巻(一条天皇)、長徳二年の十二月二十二日に「御仏名」の文字があることが確認できました。だとすれば、正式な宮中行事として22~24日に御仏名が実施された可能性もわずかながらありそうです。ただし中宮主催のものが同時に行われたのかどうかは依然不明です。

もちろん推論に過ぎませんし、詳しい日程、その理由はわからずじまい。この12月24日の「宮の御仏名」は、やはり最初に私が考えたとおり、本来の宮中で行われた「御仏名」が終わった後に、ずらして24日に実施していたという可能性が高い気がします。
クリスマスイブですしね。いやいやそれはこれは絶対違う~。キリスト教の行事だし。第一、陰暦ですしね。グレゴリオ暦とは根本的に違います。

ちなみに「枕草子」(新編日本古典文学全集)の校訂者である松尾聰は、「通例十二月十九日から三夜連続で行われ、これは二十二日から行われた三夜目か」と注釈をつけています。が、やはり詳細な理由は不明なのです。


さてそれくらいにして。
内容は例によって、その深夜の情景を描きつつ、12月24日の御仏名イベントのアフターはいかした男女のドライブ。ってことで、清少納言はどこにいるのか?? 本人なのか?というのは不明ながら、これではまるでバブル時代のクリスマスイブじゃん。


と、そういうわけで、私が十二月二十四日の日程についてこだわりすぎたせいで、時間がかかりすぎてしまったこの段。
ま、そういうこともあります。気を取り直して次の段に進みます。


【原文】

 十二月二十四日、宮の御仏名の半夜の導師聞きて出づる人は、夜中ばかりも過ぎにけむかし。

 日頃降りつる雪の今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷(たるひ)いみじうしだり、地(つち)などこそむらむら白き所がちなれ、屋の上はただおしなべて白きに、あやしき賤(しづ)の屋も雪にみな面(おも)隠しして、有明の月のくまなきに、いみじうをかし。白銀(しろがね)などを葺きたるやうなるに、水晶の滝など言はましやうにて、長く、短く、ことさらにかけわたしたると見えて、言ふにもあまりてめでたきに、下簾もかけぬ車の、簾をいと高うあげたれば、奥までさし入りたる月に、薄色、白き、紅梅など、七つ八つばかり着たるうへに、濃き衣のいとあざやかなるつやなど月にはえて、をかしう見ゆる、かたはらに、葡萄染の固紋の指貫、白き衣どもあまた、山吹、紅など着こぼして、直衣のいと白き、紐を解きたれば、脱ぎ垂れられて、いみじうこぼれ出でたり。指貫の片つ方は軾(とじきみ)のもとに踏み出だしたるなど、道に人会ひたらば、をかしと見つべし。

 月の影のはしたなさに、後ろざまにすべり入るを、常に引きよせ、あらはになされてわぶるもをかし。「凛々(りんりん)として氷鋪(し)けり」といふことを、返す返す誦じておはするは、いみじうをかしうて、夜一夜もありかまほしきに、行く所の近うなるも口惜し。