枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

男こそ、なほいとありがたく

 男っていうのは、やっぱりすごく奇妙で不思議な考え方をするものだわ。
 とても美人の彼女を捨てて、不美人な女性と付き合ってるのも不思議だわね。宮中に出入りしてる男、名家の子どもなんかは、たくさんいる中で、いいんじゃない?っていう人を選んで恋愛なさったらいいのに。手が届きそうにない女子だったとしても、素晴らしい!!って思える人に命がけで恋したらいいのよ。良家のお嬢様や未婚の女性なんかでも、イケてるって聞いたらなんとかしてでも!と思うのでしょ? でもその一方で、女の目から見ても、ダメだわって思う女性に恋するのはどういうことなんでしょ?

 見た目すごく美人で、性格も素敵で、字も上手で、歌もしんみり詠んで恨みの手紙を寄越したりするのに、小賢しく返事はするんだけど寄りつきはせず、可愛く嘆いてる女を見捨てて他の女の元に行ったりするのには、呆れちゃって。他人事だけど腹立つし、第三者的見地からすると不愉快に思えるものだけど。いざ自分のことになると、全然その辛さがわからないのよね。


----------訳者の戯言---------

清少納言的「男っつーのは」ですね。どぶろっくではないですよ。

しかし本段、かなりセクシャルハラスメント的要素を含んでいます。自身が女性なのにそんなこと言います?というようなね、容姿のこととか、いろいろ書いてますし、そもそも男が一方的に女を「選ぶ」みたいなこと認めてる時点でアウトでしょう。田島陽子には確実に怒られると思うし。上野千鶴子とかも何て言うでしょうね。

そんな中でちょっと注目したいのは、彼女が言う当時の「いい女」の条件。①容姿、②心、と来て、③字が上手い、④歌が上手く詠める、といった要素がいい女の条件に入ってくるようなんですね。
現代であれば、精神的に自立しているとか、言動にブレがないとか、ファッションセンスがいいとか、そういうのがいい女の条件になるわけですが、さすが平安時代だなぁと思います。
そしてつい近年まで、昭和時代くらいまでは、平安時代と同様、容姿や性格、そして料理が上手いとか、きれい好きとか、子どもが好きとか、意外と表面的な価値観で女性の魅力が語られることは多かったように思うのですが、それほど日本人の意識に進歩はなかったということなんですね。


さて本題です。
綺麗ないい女に惚れられてるのに、その人を棄ててまで、別の女に行くというのがわかりませんわー。という主張ですね。当時の男性が総じてこうだったのかどうかはわかりませんが、人の好みなんて千差万別ですから、わかった風にこういうこと言うのもどうかと思います。
清少納言の認める「いい女」がすべての男性にとって「いい女」であるはずもなく、そのいい女を捨てて別の女を選ぶような男は頭おかしいのですわー、という、これまた狭量的な立論はいかがなものでしょうか。


解釈についてですが、最後の「身の上にては、つゆ心苦しさを思ひ知らぬよ(いざ自分のことになると、全然その辛さがわからないのよね)」の部分については、以下の二種類の解釈ができるのではないかと思っています。

「男っていうのは自分のことになると全然女性の気持ちなんてわかっちゃいないのよ」と男たちをdisるのが一つ。
「自分が乗り換えられたほうの立場になってみると、前カノの気持ちはわかんなくなるのよね~」という自省、自己分析の可能性もあります。さてどちらでしょうか?


男性のメンタリティについて、私の見解ではありますが、清少納言とは少し違う意見を持っています。男だって世間で言われるようなルックスや性格やその他才能やセンスで女性を見ている人ばかりではないであろう、ということ。言い換えると、女性と付き合う、あるいは結婚する理由など人それぞれ、否、理由さえも存在しないかもしれないのです。男などというもの、女などというもの、なかなか結論付けて論じることは難しい。どぶろっくを見習うべきかもしれません。


【原文】

 男こそ、なほいと在り難く怪しき心地したるものはあれ。いと清げなる人を棄てて、憎げなる人を持たるもあやしかし。おほやけ所に入り立ちする男、家の子などは、あるがなかによからむをこそは、選りて思ひ給はめ。およぶまじからむ際をだに、めでたしと思はむを、死ぬばかりも思ひかかれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にもわろしと思ふを思ふは、いかなることにかあらむ。

 形いとよく、心もをかしき人の、手もよう書き、歌もあはれに詠みて、うらみおこせなどするを、返事(かへりごと)はさかしらにうちするものから、寄りつかず、らうたげにうち嘆きてゐたるを、見捨てて行きなどするは、あさましう、おほやけ腹立ちて、見証(けんそ)の心地も心憂く見ゆべけれど、身の上にては、つゆ心苦しさを思ひ知らぬよ。