枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

世の中になほいと心うきものは

 世の中でやっぱりすごくイヤなものは、人に憎まれることでしょうね。どんな変人だって、自分が人から憎まれたいって思う? 思わないでしょ!? だけど自然と、お勤めしてるところでも、親兄弟の中でも、愛されるor愛されない、があるのはとても辛いことだわね。
 身分の高い人のことはもちろん、身分が低い人なんかの場合だって、親が可愛がる子は目立つし関心も持たれて、大切にしなくっちゃ!って思えるものだわ。見る価値のあるルックスの子は当然どうして愛されないことがあるでしょ?って思う。愛されるに決まってるよね! 特別な魅力が無い子はそれはそれで、これを可愛いって思うのは親だからこそだよね~って、しみじみ思えちゃうわ。
 親にでも、主君からでも、仲良くしてる人たち誰からだって、人に愛されるほど素晴らしいことはないわね。


----------訳者の戯言---------

原文にある「かなしうする」というのは「かなしうす(愛しうす)」というサ変動詞の連体形のようです。漢字で「愛(かな)しうす」と書きます。ざっくりと言うと「かわいがる」という意味だそうです。ややっこしいですね。

ではなぜ、そういうことになるのか? 調べてみました。
ごぞんじのとおり、哀しい、悲しいの「かなし」も「かなし」です。こちらのほうが私たち現代人には当たり前ですね。
まったく違う意味のようにも思える「悲し」も「愛し」もどちらも「かなし」だったというわけです。

たしかに「悲しい」「哀しい」と「愛しい」「かわいい」という感情が同源であることは、理屈ではなく、実感としてはあり得ます。「愛しさとせつなさと~」という篠原涼子の歌がありましたが、ま、ああいうこともあるでしょう。「心強さ」はちょっと違いますが。TK全盛時代ですかね、懐かしいです。
「愛しい」感情と「悲しい」感情は隣り合わせなのですね。愛しすぎて悲しくなること、悲しいぐらい愛おしいことは、メンタリティとしてあります。

言語学的に言うと、「かなし」というのは接尾語「かぬ」と同語源とされています。「かぬ」は動詞に付いて「~に耐えられない」という意味を成す言葉なんですね。
例えば、
思いかぬ→思いに耐えられない
待ちかぬ→待つのに耐えられない
別れかぬ→別れることに耐えられない

この「耐えられない」=「かぬ」の部分が特化され形容詞化して「かなし」という言葉になった、ということなんです。

そして自分でコントロールできない悲しみ、大切な者をなくす恐怖、切ないほどの気持ち、耐え難くこみあげる愛情、たまらなく愛しい、かわいい、という想い。こういった「耐え難い」「抑えきれない」感情の多くが「かなし」に含まれていた、と言うとわかりやすいかと思います。

こうして「かなし」は「耐えかねるほど痛切な思い」や「自分にはどうすることもできない無力感」を表すに至ります。
日本人の発する「愛する」という言葉に憂いを含むことが多いのは、このような感情表現に起因しているのかもしれません。


さて、グダグダ書いてますが、清少納言が言いたいのは要するにこういうことです。

誰だって嫌われたくないよね? でもみんなが平等に愛されるわけじゃあないの。辛いね。
親に可愛がられてる子は、ルックスが良くも悪くも大事にされて幸せだし、傍から見てもしみじみいいなって思うの。
親からも、仕えてる人からも、知人友人含め誰からも、愛されるって素晴らしいことだよね。

というわけで、清少納言は「嫌われるのやーね、愛されるっていいよね」という単純なことしか言ってません。
前段のありきたりで浅い論もいただけませんが、今回も当たり前のことを言っているだけです。新しい視点はないですし、問題提起の端緒さえありません。これまた浅いです。こういうのをありがたがってはいけないとつくづく思います。
嫌われること、愛されること、愛することはもっと複雑で、深いものなのですよ。


【原文】

 世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれむことこそあるべけれ。たれてふ物狂ひか、われ人にさ思はれむとは思はむ。されど、自然に宮仕へ所にも、親・同胞(はらから)の中にても、思はるる思はれぬがあるぞいとわびしきや。

 よき人の御ことはさらなり。下衆などのほども、親などのかなしうする子は、目たて耳たてられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるはことわり、いかが思はざらむとおぼゆ。ことなることなきはまた、これをかなしと思ふらむは、親なればぞかしとあはれなり。

 親にも、君にも、すべてうち語らふ人にも、人に思はれむばかりめでたきことはあらじ。