枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

成信の中将は③ ~つとめて例の廂に~

 翌朝早く例の廂の間で女房たちが話しているのを聞いたら、「雨が土砂降りの時にやってきた男性には感動しちゃうわね。何日も待ち遠しくって、つらいことがあっても、そんなふうに濡れてまで来てくれたら、つらいこともみんな忘れちゃう!」っていうんだけど、何ゆえそんな風に言うのかしら? そういうこともあるのかしらね?昨晩も、一昨日の夜も、その前の夜も、とにかくこの頃ずっとしきりに訪れて来る男が今夜もひどい雨をものともせず来たのなら、やっぱり一夜も離れてたくない、って思ってんだろうかな?ってしみじみとした気持ちになるわよね。
 でもそうじゃなくって、普段は来ないで音沙汰もなく過ごしてるような男がそんな雨降りに限って来たからっていっても、絶対に想いがある!ってことじゃないと思うわ。人それぞれ考え方の違いによるものなのかしら?
 それなりの経験があって心の機微も理解できてて風流もわかってると思う女子と関係ができちゃって、他にもいっぱい通う女子がいて、元々妻なんかもいるもんだからしょっちゅうは来ないんだけど、やっぱりでもあんなすごい雨の時に来た!なんて、人にも語り継がせて褒められようと思う男の仕業なのかしらね?? それでも全然愛情なんかなかったら、実際なんでそんな作り事までして会おうなんて思うかしら? 思わないよね。

 でも、雨の降る時には、私はただただ鬱陶しくて、今朝まで晴れ晴れとしてた空だとも思えなくって、腹立たしくて。ハンパないくらい素敵な細殿なのに立派な所とも思えない。ましてや、全然そんなふうじゃない(フツ―の、立派じゃない)家なんかだと、早く止んでくれればいいのに!!って思ってしまうだけだわね。おもしろいことも、しみじみとしたこともないのだから。


----------訳者の戯言---------

変人・成信と兵部の長話しのオチもないまま、一転して、昨晩入って来た兵部なのか、他の女房かはわかりませんが、何やらひどい雨降りの夜にやって来る男の話に。清少納言、話が飛びまくってます。展開が下手すぎる…。文章家としてはどうなの??

たしかに、当時は車といっても牛車だし、もちろん徒歩でも土砂降りの雨では女子のところに行くなど、かなりの想いがなければ遠慮したいところでしょう。次の日行けばいいだけだし。今なら車かタクシーで行けばいいですし、事情はかなり違います。雨の日のメンタリティも違ってたわけですね。
そして。雨降りは嫌いな私、を演出する清少納言

成信も平姓に変わった女房(兵部)も清少納言にスルーされ、いったいどういう話になるのか、先行き不透明なまま④に続きます。


【原文】

 つとめて、例の廂に、人の物言ふを聞けば、「雨いみじう降る折に来たる人なむ、あはれなる。日頃おぼつかなく、つらき事もありとも、さて濡れて来たらむは、憂き事もみな忘れぬべし」とは、などて言ふにかあらむ。さあらむを、昨夜(よべ)も、昨日の夜も、そがあなたの夜も、すべて、このごろ、うちしきり見ゆる人の、今宵いみじからむ雨にさはらで来たらむは、なほ一夜(ひとよ)もへだてじと思ふなめりと、あはれになりなむ。さらで、日頃も見ず、おぼつかなくて過ぐさむ人の、かかる折にしも来むは、さらに心ざしのあるにはせじとこそおぼゆれ。人の心々なるものなればにや。物見知り、思ひ知りたる女の、心ありと見ゆるなどを語らひて、あまた行く所もあり、もとよりのよすがなどもあれば、しげくも見えぬを、なほさるいみじかりし折に来たりし、など、人にも語りつがせ、ほめられむと思ふ人のしわざにや。それも、むげに心ざしなからむには、げに何しにかは、作り事にても見えむとも思はむ。されど、雨のふる時に、ただむつかしう、今朝まで晴れ晴れしかりつる空ともおぼえず、にくくて、いみじき細殿、めでたき所ともおぼえず。まいて、いとさらぬ家などは、とく降りやみねかしとこそおぼゆれ。
 をかしき事、あはれなる事もなきものを。