よろづの事よりも情けあるこそ
どんなことよりも、思いやりの気持ちを持ってることが、男はもちろん女だって、すばらしいことだって思えるのよね。
何てことない言葉だから、ものすごく心に深く入ってくるわけじゃないけど、辛い気持ちでいることを知って「かわいそうに」とか、哀しみの中にいるとき「ほんと、どういう気持ちでいるのかしら…」なんて、言ってくれたのを伝え聞くのは、直接向き合って言われるのよりうれしいのよね。だから何とかしてその人に、思いが身にしみてわかったわよってこと、知ってほしいって、いつもずっと思ってるの。
自分のことを絶対に想ってくれてるってわかってる人、安否を尋ねてくれる人は、思いやってくれるのが当然だから、格別なことではないの。そうでもないだろうなって人が、こちらが安心できるように受け答えしてくれるのはうれしいことだわね。それって、すごく簡単なことなんだけど、なかなかできないことよ。
だいたい性格がいい人で、本当に才能がなくはない人は、男でも女でもめったにいないようだわ。いやそういう人もまたたくさんいるのかしらね。
----------訳者の戯言---------
原文の「情け」は、現代なら思いやり、もしくは恋情、愛情を表す言葉のようです。おっしゃるとおり相手を思いやる気持ちは大事ですね。
たしかに、弱ってる時にいたわりの言葉をいただくと、ぐっとくるんですよね。それは否定できません。
私は伝聞よりもダイレクトのほうがいいと思うのですが、清少納言は直接言われるより人づてに聞くほうがもっとうれしいらしいです。で、その気遣いがどれほど身に染みているか、感謝の気持ちを知ってほしい、っていつも思ってるらしいんですね。奥ゆかしい感じなのでしょうか。
私は、あからさまでなくてもそれとなく相手に伝えるといいような気がしますね。平安時代はLINEもメールもインスタも電話もありませんが、平安時代は平安時代なりに和歌や文という伝達方法がありましたしね。そういうので気持ちを送ればよくないですか? 清少納言ほど歌や文の才があれば上手く表現できそうですけれど。
あと、個人的に私、親密でない人でも、ちょっとした気遣いは必要だと思います。お互いに。
清少納言は簡単だけどなかなかできないことだとかって、ワケのわからないこと言ってますが、実際簡単なことですし、単なるお知り合いに対しても、無理することなく、傷つけないように、そしてちょっと気分よくいてもらえるように、そういう心持ちでいつもいればすぐできることだと思んですね。
情けある人=心よき人、ということなのでしょうか、思いやりの話だったのが、最後のところでは性格の善し悪しの話になってます。そう言われればそうなのでしょうけれど。性格も良くて才能がある人はめったにいない、と書いておきながら、いやたくさんいるかな?って。関西人が最後に言う「知らんけど」ですか?? 清少納言も関西人といえば関西人ですが。
今回はなんか、ふわふわっとした結論で、腑に落ちるような落ちないような、モヤモヤ感の残る段でした。今の田中アナウンサーのモヤさまぐらいモヤモヤしますね。大江麻理子の頃は相性よすぎたんですかね。さまぁ~ずっていろいろ難しそうだから。たいへんなんでしょうね。
【原文】
よろづの事よりも情けあるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。なげの言葉なれど、せちに心に深く入らねど、いとほしき事をば「いとほし」とも、あはれなるをば「げにいかに思ふらむ」など言ひけるを、伝へて聞きたるは、さし向ひていふよりもうれし。いかでこの人に「思ひ知りけり」とも見えにしがな、と常にこそおぼゆれ。
必ず思ふべき人、とふべき人はさるべきことなれば、取り分かれしもせず。さもあるまじき人の、さしいらへをも後ろやすくしたるは、うれしきわざなり。いとやすきことなれど、さらにえあらぬことぞかし。
おほかた心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女もありがたきことなめり。また、さる人も多かるべし。