枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

大路近なる所にて聞けば

 大通りの近くにある家で聞いてると、牛車に乗ってる人が、有明の月が素敵に出てるから簾(すだれ)を上げて、「遊子なほ残りの月に行く」っていう詩を、いい声で朗詠したのもおもしろいわ。
 馬に乗ってても、そういうイカしてる人が通って行くのはいい感じ。そんな家で聞いてたら、泥障(あおり)の音が聞こえるから、どんな人なんだろう?って、やってた仕事の手を止めて見たら、身分が低い者を見つけたの、すごく不愉快だわ。


----------訳者の戯言---------

有明というのは、「まだ月があるうちに夜が明けること」あるいは「夜が明けても月が残ってる朝」のことです。つまり「有明の月」というのは、そんな朝に出ている月のことなのですね。

有明の月は、おおまかに言うと十六日以降~新月までの月とされています。二十六日の月を限定的に言う場合もあるらしいですが、そのセレクトの基準はよくわかりませんでした。
おおむね、二十日過ぎの下弦の月である場合が多く、つまり見た感じは半月。おおよそ深夜0時頃に東の空から上り、太陽が昇る夜明けの時間帯には月が南の空にあるという状態になります。少し明るくなってきても、南から西の空に出ている下弦の白い月、これが「有明の月」です。風情のあるものとされていることは、ごぞんじのとおりです。

「遊子なほ残りの月に行く」と出てきましたが、調べてみたところ、下のような漢詩の一部でした。

佳人尽飾於晨粧
魏宮鐘動
遊子猶行於残月
函谷鶏鳴

書き下すと、

佳人尽(ことごと)く晨粧(しんしょう)を飾る。
魏宮に鐘(しょう)動く。
遊子なほ残月に行く。※この段では「遊子なほ残りの月に行く」
函谷に鶏鳴く。

で、意味としては、

離宮に暁の鐘がなると、美しい人はみんな朝の化粧をする。
函谷関に夜明けを告げる鶏は鳴くが、旅人は残る月の下やはり歩き続ける。

ということのようです。
こういうシーン、つまり有明の月が出ている夜明けに、まさにこの漢詩を吟誦する、というのが、粋というか、いかしたことだったのでしょう。

泥障(あおり/あふり)。鞍の四方手(しおで)というところ、ハーネスみたいな部分ですか?に結び付けて、鞍の下に挟んで馬腹の両脇を覆って、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐものだそうです。毛皮や皮革製だとか。「障泥」と字を逆転して書くこともあるようですね。

馬に乗って行くステキな人はどんな人?と思って見てみたら、全然いかしてない身分の低い者だったから、不愉快↓というのですね、この人は。この期に及んでまだ言うか、という感じです。それでも知識階級っすか? 平気で身分差別するようなアンタのほうが、100倍不愉快やねん、って言ってやりたいですね。


【原文】

 大路近(ちか)なる所にて聞けば、車に乗りたる人の有明のをかしきに簾(すだれ)あげて、「遊子(いうし)なほ残りの月に行く」といふ詩を、声よくて誦じたるもをかし。

 馬にても、さやうの人の行くはをかし。さやうの所にて聞くに、泥障(あふり)の音の聞こゆるを、いかなる者ならむと、するわざもうち置きて見るに、あやしの者を見つけたる、いとねたし。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)