枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

関白殿、二月二十一日に⑱ ~みな乗りつづきて立てるに~

 采女がみんな続々と馬に乗って立ってたら、今やっとのことで定子さまの御輿が出ていかれるの。すばらしい!って拝見したご様子は、これはもう!どうにも比べようがないくらいのものだわ!

 朝日が華々しく昇ってきた頃、水葱(なぎ)の花飾りがすごく際立って輝いて、御輿の帷子(かたびら)の色つやの美しさまでがめちゃくちゃ素晴らしくって。御綱(みつな)を張って出ていかれるの。御輿の帷子がゆらゆら揺れた時、ほんと「髪の毛が逆立つ」なんて人が言うのも全然嘘じゃないわ。その後はヘアスタイルがイケてない女房もそのせいにするでしょうね。めちゃくちゃ美しくって、やはり、どうしてだか私なんかがこれほどの中宮さまにお仕えしてるのかしら?って、自分までが立派になった気がして。御輿が通り過ぎて行く時、牛車の轅(ながえ)を榻(しじ)から一斉に外して下ろしたのをまた牛に大急ぎで掛けて、御輿の後に続いて行く気持ちって、すばらしく楽しい感じで、言い表しようがないくらいなの。


----------訳者の戯言---------

水葱(なぎ)というのは、水葵(みずあおい)の古名となっています。菜葱(なぎ)とも書きます。
水葵は水田や沼などに自生する植物で、高さ約30cm、葉はハート形で柄が長く、9~10月頃青紫色で花びらが六つに分かれている花を咲かせます。昔は葉を食用にし、栽培もされたらしいですね。


「帷子(かたびら)」は今でいうところのカーテン的なもの。日よけであったり、目隠しであったり、です。
几帳(パーテーション)の帷子(カーテン)を言うような場合もあります。
衣類でも「「帷子」というものはあり、こちらを言う場合は、裏地の無い夏用の麻の衣を表します。一枚物の衣で汗とり用にも着たらしいから、今で言うとアンダーウェアですね。
帷子(かたびら)というのは元々は「片枚(かたびら)」と書いたそうですね。要はペラ物、ということが言いたいのでしょう。肌着であれカーテンであれ。

京都に「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」という地名があって、嵐電京福嵐山本線)の駅名にもあるんですが、元々は「帷子辻(かたびらがつじ)」で、これは着物のほうの帷子に由来するそうです。綺麗な地名だな、と思っていましたが、その起源には、尊いと言うか、ちょっと壮絶と言うか、そういう話があるそうなんですね。
橘嘉智子(たちばなのかちこ)という嵯峨天皇の皇后(別称:檀林皇后)だった人にまつわる逸話です。逸れますが、少し。

伝説によると、檀林皇后という人は絶世の美女だったらしいんです。恋慕する人が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちも心を動かされるほどであったと。本人的にはこうした状況をずっと憂いていたのだそうですね。
彼女自身は仏教に深く帰依していて、その教えに説かれるとおり「この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い」所謂「諸行無常」を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと考えました。
彼女が死ぬ時、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に棄ててほしいと遺言しました。そして皇后の遺体は辻に遺棄され、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって無残な姿になり、白骨となって朽ち果てたそうです。
人々はその様子を見て世の無常を思い、僧たちも邪念を捨てて修行に打ち込んだんだそうですね。
その辻が今の「帷子ノ辻」なのだそうです。「帷子」は皇后の経帷子(死装束)に因んだ名ということなのですね。一説ではありますが。


原文に「かこちつべし」とあるんですが、「かこつ」という語。漢字では「託つ」と書き、「かこつける(託ける)」の「かこつ」なんですよね。託けるというのは、直接には関係しない他の事と無理に結びつけて、都合のいい口実にする、ということですね。「口実にする」
「不平を言う。ぐちをこぼす。嘆く。」という意味もあるそうです。

轅(ながえ)、榻(しじ)については、この段の少し前「関白殿、二月二十一日に⑮」をご覧ください。


ということで、ようやく定子の一行が出発したということです。
⑲に続きます。


【原文】

 みな乗りつづきて立てるに、今ぞ御輿出でさせ給ふ。めでたしと見奉りつる御ありさまには、これ、はた、くらぶべからざりけり。

 朝日のはなばなとさしあがるほどに、水葱(なぎ)の花いときはやかにかがやきて、御輿の帷子(かたびら)の色つやなどの清らささへぞいみじき。御綱張りて出でさせ給ふ。御輿の帷子のうちゆるぎたるほど、まことに、「頭(かしら)の毛」など人のいふ、さらにそらごとならず。さて、のちは髪あしからむ人もかこちつべし。あさましう、いつくしう、なほいかで、かかる御前に馴れ仕るらむと、わが身もかしこうぞおぼゆる。御輿過ぎさせ給ふほど、車の榻ども一たびにかきおろしたりつる、また牛どもにただ掛けに掛けて、御輿の後(しり)につづけたる心地、めでたく興あるさま、いふかたもなし。