枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

成信の中将は①

 (源)成信の中将は入道兵部卿宮のご子息で、ルックスがすごく良くってお気持ちもすばらしくていらっしゃるの。伊予の守(かみ)の(源)兼資の娘のことを忘れられなくって、親が伊予国へ連れて下った時には、どんなにしみじみと哀しい思いをしたことだろうって思われたのね。まだ夜が明ける前に行くっていうことで、前の晩にいらっしゃって有明の月が見える頃にお帰りになった直衣姿とか。偲ばれるわ。
 その君(成信)は日ごろからこちらに座ってお話をして、人のことなんかも悪いものは悪いとかっておっしゃってたんだけど。物忌とかにちゃんと則って鶴亀の細工物に立てて食べ物をまず掻き取ったりとかするもの(=箸=土師)の名を姓に持ってた人がいて、別の人の養子になって平(たいら)とかって言うんだけど、ただその旧姓を若い女房たちが話の種にして笑うのよ。ルックスも特別なこともないし、おもしろみのあることからもほど遠いんだけど、それでも人付き合いもするし本人もわきまえているんだけど、中宮様の御前をうろうろするのも見苦しい、なんておっしゃるの。でもみんな意地が悪いのかしら? それを当人に教えてあげる人もいないのよね。


----------訳者の戯言---------

成信の中将(源成信)というのは、ルックスも性格もいいということで当時一世を風靡した人。これまでにも何回か出てきました。宮中の女子たちの間でもかなり人気があったようですね。当時23歳ぐらいです。
当時、宮中の警備や行幸時の警護を担当した左右の近衛府という役所がありました。源成信は、その右近衛府の権中将という、だいたいナンバー4くらいのポジションにいたようですね。
元々親王の子、つまり天皇の孫で、後に藤原道長の猶子(ゆうし)になっています。元皇族で後の権力者・道長の猶子ですから、セレブ中のセレブと言っていいでしょう。

ちなみに猶子というのは養子っぽいですけど、ちょっと違います。後見人に近いんですね。義理の親子関係なんですが、一般には家督や財産とかの相続、継承を目的にはしないらしいです。子の姓は変わらず、お互いにメリットがあるので親子になる、という関係のようです。

この人、「成信の中将こそ」という主役??の段もあり、そこでは人の声を聞き分ける才能があったことでも評価を得ています。なんじゃそりゃ。

入道というのは出家した人のことを言います。兵部卿兵部省の長官なんですが、親王等の皇族がこの官職に就任することも多く、その場合その皇族は兵部卿宮と呼ばれたそうですね。だから、この段では出家した兵部卿宮の…ご子息って話です。入道兵部卿村上天皇の皇子致平親王という人でした。


「鶴亀などに立てて食ふ物まづかい掻きなどする物の名」とはえらくまどろっこしい書き方をしたものです。
物忌で鶴や亀の細工物に立てたり、食べ物を扱うもの、つまり箸。箸の名を姓に持ってた人、って、何故それほど持って回った言い方をしなければならないのか?
要するに土師(はし/はじ/はせ)氏に対する差別意識があるのでしょうね。女房たちや源成信の中に差別意識があるのはもちろん、清少納言自身にもその氏を書き表すことさえ忌み嫌う意識がある、ということなのでしょう。私、個人的にはたいへん失礼な態度だと思います。

歴史的に見て土師氏は古墳時代、古墳に入れる埴輪を作っていた氏族だと言われています。死という凶事に携わる一族だったのですが、当然天皇家と結びつきが深い。しかし当時もこれを忌み嫌う風潮はあったわけで、土師氏から→菅原氏、大江氏、秋篠氏に改姓があったそうです、桓武天皇の頃と言いますから平安遷都の頃でしょうか。菅原道真とか、大江音人大江千里和泉式部も大江氏の出とされています。
ということではありますが、土師という姓がわずかに残っていたのでしょうね。それにしても、道真や音人などはおそらくそれなりに認めていただろうに、酷い差別です。

ちなみに「格好悪いふられ方」でおなじみ、現在はジャズピアニストとして活動している大江千里は本名だそうですね。


とうわけで、源成信のわけのわからない言動から始まったこの段、そこそこ長くなりますがどう展開していくのでしょうか?
②に続きます。


【原文】

 成信の中将は、入道兵部卿の宮の御子にて、形いとをかしげに、心ばへもをかしうおはす。伊予の守兼資が女忘れで、親の伊予へ率てくだりしほど、いかにあはれなりけむとこそおぼえしか。あかつきに行くとて、今宵おはして、有明の月に帰り給ひけむ直衣姿などよ。

 その君、常にゐて物言ひ、人の上など、わるきはわるしなどのたまひしに。

 物忌くすしう、鶴亀などに立てて食ふ物まづかい掻きなどする物の名を、姓(さう)にて持たる人のあるが、こと人の子になりて、平(たひら)などいへど、ただそのもとの姓を、若き人々ことぐさにて笑ふ。ありさまもことなる事もなし、をかしき方なども遠きが、さすがに人にさしまじり、心などのあるを、御前わたりも、見苦しなど仰せらるれど、腹ぎたなきにや、告ぐる人もなし。

 

 

日のうらうらとある昼つ方

 日がうららかに照っているお昼頃、またすごく夜が更けて子の刻(午前0時前後)とかっていう頃になったかな?って時に、もう帝はお休みになっていらっしゃるのかしら??なんてお思い申し上げてたら、「蔵人たち…」ってお呼び出しになるの、すごく素敵だわ。
 夜中頃に御笛の音が聴こえてるのも、またすごくすばらしいの。


----------訳者の戯言---------

「をのこ」というのは、成人の男子。帝が「をのこ」と使った場合は、宮中(殿上)や貴人に仕える男性、主に蔵人を指すのに用いられたようです。
「をとこ」が一般的な成人男性、「をのこ」は世代的身分的に下の存在の男性という表現だったという説もあるようですね。

夜中に帝が笛を吹くっていうのもなんか迷惑です。帝だから誰も何も言えませんが、うっせぇわ!!ですね。Adoですか。
清少納言はヨイショしすぎだと思います。同調圧力


【原文】

 日のうらうらとある昼つ方、また、いといたう更けて、子の刻(とき)などいふほどにもなりぬらむかし、大殿ごもりおはしましてにやなど、思ひ参らするほどに、「をのこども」と召したるこそ、いとめでたけれ。

 夜中ばかりに、御笛の声の聞えたる、またいとめでたし。

 

 

時奏する、いみじうをかし

 時を奏するのはすごくおもしろいわ。すごく寒い夜中なんかに、ゴホゴホって音を立てて靴を引きずって来て弓の弦を鳴らして、「何の誰々、時刻、丑三つ、子四つ」とかって遠くの方で言って、時の杭を差す音なんか、めちゃくちゃいい感じなの。
 「子九つ、丑八つ」とかって田舎っぽい人は言うわ。で、全部どの時もいつも「四つ」の時だけ杭に挿すものなのよね。


----------訳者の戯言---------

時奏=時の奏、時奏する=時を奏する、などと言いました。宮中で時刻を奏上したということですね。もちろん時計はなかった時代。今は腕時計があるし、スマホもありますから要らないですが。昔は、夜間はこの段のように報せていたようです。亥の刻のはじまりから寅の刻の終わりまでということですから、21時から5時の間くらいにこういうのをやってたんですね。
ごぞんじのとおり、かつて時刻は十二支で表しました(十二時辰)。子丑寅…っていうやつですね。で、たとえば深夜0時を中心に前1時間後1時間を合わせて子の刻としました。計2時間なんですが、それをさらに四つに分け、30分ごとに一つ(一刻)、二つ(二刻)、三つ(三刻)、四つ(四刻)としたわけです。23:00~23:30は子一つ、0:00~0:30は子三つ、0:30~1:00が子四つという具合です。この際10分とか25分とか38分とかはありません。ざっくりとしていますが、昔ですからね。それでいいのでしょう。そして、その時刻の元になったのは陰陽寮にあった水時計(漏刻)なのだそうです。
具体的には宿直の内豎(ないじゅ)あるいは蔵人などの官人が、亥の一刻から寅の四刻まで一刻ごとに時刻を唱え、清涼殿の殿上の間の小庭に「時の杙(杭/くい)」を差し「時の簡(ふだ)」を掲出しました。
これらが時計の役割をしたというわけです。
内豎(ないじゅ)というのは宮中の行事や日常の雑事を行うために召し使われたスタッフで、少年が多いそうですね。


さとぶる人。とありますが、「さとぶ」という動詞の連体形です。「里ぶ」「俚ぶ」で「田舎じみる、田舎っぽくある」という意味になるでしょうか。洗練されてない状態になる、という感じでもあるようです。つまり、ダサくなる。つまり「さとぶる人」というのは「宮中のことを知らない」「ダッセー奴」っていうことでしょうか。酷い言い方だな。


ではダサい民間人が言う「子九つ」とか「丑八つ」とは何か?
先ほど書いたように各々の刻、つまり子の刻や丑の刻はそれぞれ4つに細分されています。ですから八つや九つがあるわけがありません。
実は、ここで出てきた八つや九つはお寺で正刻に打つ鐘の数なのです。正刻の鐘と言うそうですね。子の正刻には九つ、丑の正刻には八つ、という具合に鐘が撞かれました。そのため、宮中以外ではこういう言い方をしたのでしょうね。

「四つのみぞ杭にはさしける」の「四つ」というのは、現代なら偶数時30分。十二支で表す十二時辰で各刻の最後の30分です。
民間のダサい時計?では省略して「四つ」の時だけ杭を差して時刻表示するみたいね??(ダサくね?)
と、下々の者を馬鹿にするテイで清少納言は書いてます。相変わらずです。


【原文】

 時奏(ときさう)する、いみじうをかし。いみじう寒き夜中ばかりなど、ごほごほとごほめき、沓すり来て、弦(つる)うち鳴らしてなむ、「何(な)の某(なにがし)、刻(とき)丑三つ、子四つ」など、はるかなる声に言ひて、時の杭(くひ)さす音など、いみじうをかし。「子九つ、丑八つ」などぞ、さとびたる人はいふ。すべて、何も何も、ただ四つのみぞ杭にはさしける。

 

 

屋は

 屋は、まろ屋。あづま屋。


----------訳者の戯言---------

屋は「や」です。「おく」ではありません。意味としては家のこと。家屋のことなんですが、読みは「や」なのだそうです。ここでは「小屋」のことを言っているようですね。

まろ屋というのは、葦(あし)や茅(かや)などで簡単に屋根を葺いた粗末な家、仮小屋のことです。「丸屋」と書きます。なぜ丸なのかはよくわかりません。

あづま屋は東屋。柱と屋根だけの家で、東国の人が住むような粗末な建物の意味でした。地方差別です。今も公園とかの休憩所がこの「あづま屋/あずま屋」ということが多いのですが、そもそもが差別語ってどうなのかなーと思ったりします。もちろん現代では誰も差別的に使ってないですけどね。四阿(しあ)と書いて「あずまや」と読むこともあります。同じ意味です。


どちらも粗末な、外壁のない小屋です。何がどういいのか根拠がよくわかりませんが、風情はあるということなのでしょう。


【原文】

 屋は まろ屋。あづま屋。

 

 

崎は

 崎は 唐崎。三保が崎。


----------訳者の戯言---------

崎というのは海に向かって突き出ている陸の先端を言います。岬も同意と言えるでしょうか。

唐崎(からさき)というのは今の滋賀県大津市にある唐崎というところのようです。琵琶湖の南端西側岸になります。しかしGoogleマップでも見ましたが、所謂「崎」という感じの地形ではありません。少し出てるかなあぐらいです。なぜ「崎は」の最初の一つがここなのかは今一つわからないですね。景勝地ではあったのでしょうけど。

さざなみの志賀の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ
(志賀の辛崎は幸っていう名前のとおり平穏なんだけど、大宮人の舟が来るのを待ってても来ないのだよね)

柿本人麻呂の詠んだ歌で万葉集に出ているそうです。
「楽浪(ささなみ)の」は、志賀とか大津などを導く枕詞なんですね。志賀は現在の滋賀県大津市の北部一帯のことを言ったそうです。
「崎」と「幸(さき)く」がかかっているわけなんですね。
とまあ、唐崎は歌枕として有名なところのようで、それが清少納言的には推しだったのではないでしょうか。例によって歌はよく知ってるんですが、実際に行って「崎」を実感したかどうかは疑問です。

三保が崎も今の大津市にあるところです。大津港の一部という感じです。琵琶湖疎水の取水口がこのあたりにあるようですね。ただ、ここも崎という感じではありませんね。


たった2個なんですね。え?それだけ?って感じです。
しかも琵琶湖だし。湖だし。海の岬とかじゃないし。っていうか疲れてたんだと思う。飽きたのか? 適当にやっときたい時は私もよくあるのでわからなくもないですが。
というわけで、たしかに都人は最も近い海が琵琶湖、つまり近江だったというのがなんとなくわかります。


【原文】

 崎は 唐崎。三保が崎。

 

 

神は

 神は、松尾(まつのお)大社、(石清水)八幡宮(やはたのみや/やはたのみや)はこの国の帝でいらっしゃったというのが素晴らしいわ。ご参詣の行幸なんかに水葱(なぎ)の花の御輿(みこし)にお乗りになるとかって、すごく素晴らしい。大原野神社春日大社はとてもりっぱでいらっしゃるの。平野神社は、使わないままになっている空家があったから「何をする所なの?」って尋ねたら、「御輿がお泊まりになるお宿」って答えたのも、すごく素晴らしく思うわ。斎垣(いがき)に蔦なんかがすごくたくさんかかってて、紅葉したのがいろいろあったのも、「秋にはあへず」って貫之の歌が思い出されてしみじみとして長時間車を停めてたの。みこもりの神も、また面白いわ。賀茂神社は言うまでもないわね。伏見稲荷神社も。


----------訳者の戯言---------

松の尾とはもちろん現在の松尾大社です。読みは「まつのお」と「の」が入ります、今も。しかし阪急嵐山線の駅名「松尾大社」は「まつおたいしゃ」なんですね。私も不覚でしたが、「まつおたいしゃ」だと思っていました。今日からは「まつのおたいしゃ」と読みます、神社のほうは。ややっこしいですね。
というわけで、住所を調べてみました。暇人? 京都市西京区松尾谷松尾山町という住所があります。読みは「まつおだにまつおやまちょう」でしたよ。やっぱりか!


「八幡」というのは「石清水八幡宮」のことのようです。そもそも八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)というのは、「日本書紀」に登場する誉田別命(ほんだわけのみこと)という神?で、応神天皇と同一とされています。ということで、この国の帝でいらっしゃったと言ってるわけですね。

水葱(なぎ)というのは、水葵(みずあおい)の古名で、菜葱(なぎ)とも書きます。
この水葵というのは水田や沼などに自生する植物で、高さが約30cm、葉はハート形で秋に青紫色の花を咲かせるようです。ネットで画像を見ましたがなかなか可憐な花でした。


大原野というのは現在の京都市西京区大原野というところにある大原野神社です。京都・大原ではなく、洛西と呼ばれている、桂や向日から山のほうに行ったところですね。ご存じのとおり、平安京の前に、平城京から長岡京に遷都する計画があったんですが、その際に、藤原氏氏神であった春日大社の神をこちらの土地に祀ったのが始まりなんだそうで、「京春日」と呼ばれたりしています。藤原氏にとってはまさに王城鎮護、国家鎮護の社ということなんですね。
紫式部大原野神社氏神と崇めてたらしく、自身、大原野という土地が好きだったらしいです。


平野というのは京都市北区にある平野神社です。この時期は桜の名所としても有名ですが、最近はキンプリ平野紫耀のファンの方々がたくさん参詣することでも話題になっているようですね。いつのまにかキンプリの聖地になっとる。というか、絵馬のほとんどがライブ当選祈願らしいです。たしかに近年のライブは転売防止のために抽選になっていますから、昔のようにお金を積んだところで行くことはできません。自ずと神頼みとなります。
というわけで、先祖返りしているかのような祈願重視の世の中です。そう言えば晴明神社も平昌の時はかなり金メダル祈願が多かったらしいです。本人もフリーに「SEIMEI」を使った時に参詣したらしいですしね。北京はどうだったのでしょうか。

斎垣(いがき)。神社など神聖な場所に巡らした垣。みだりに俗な人の入ることを許さないというゾーンを作ったものと言えそうです。

ちはやぶる神のいがきにふはふ葛も 秋にはあへず移ろひにけり
(神社の神聖な垣根に生える葛も、秋には耐えきれず色が変わってしまったなぁ)

神聖な神社に生えてる葛は神の力で常緑でありそうなのに、季節(秋)の移ろいには抵抗することができず他の葉っぱと同じように葉の色が変わってしまったと。紀貫之が詠みました。清少納言的には、今やキンプリの聖地と化した平野神社の斎垣(いがき)の傍で車を停めて、秋の風情に感じ入った私。という感じでしょうか。


みこもりの神。元々は水の分配を司る神「みくまりの神」だそうです。「くまり」は「配り(くばり)」の意味で、水源地や水路の分水点などに祀られることが多いそうですね。本来は水の神、農耕の神なんですが平安時代頃から「みこもり(御子守)」と訛って御子守明神などとも呼ばれ、子供の守護神、子授け・子育て・安産の神としての信仰も生まれたようです。 
各地にあるようですが、中でも奈良県吉野郡吉野町吉野山に現在も鎮座する吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)が有名で、水の配分を司る天之水分大神を主神として7柱を祀っているそうです。


すでに何度か書きましたが、賀茂神社は今の上賀茂神社下鴨神社です。元々は一つの神社で、それぞれ上社、下社というものでした。現在、正式には上賀茂神社は「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」下鴨神社は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と言います。上賀茂神社には「賀茂別雷神賀茂別雷命)」が祀られ、その母と母の父(つまり祖父)にあたる神様が下鴨神社賀茂御祖神社)に祀られています。


神様を選別するというのも、清少納言、なかなか度胸があります。が、私たちもどこに初詣に行くかとか、どこを寺社を観光しようかとか、そこそこ選んでます。あそこの神社はイイとかイマイチとか。バチ当たりですね。清少納言のことは言えません。いや、神様はそんなことで罰を当てたりはしないですか。神様ですから穏やかで器も大きいのだと思います。はい。


【原文】

 神は 松の尾。八幡、この国の帝にておはしましけむこそめでたけれ。行幸などに、水葱(なぎ)の花の御輿にたてまつるなど、いとめでたし。大原野。春日、いとめでたくおはします。平野は、いたづら屋のありしを、「何する所ぞ」と問ひしに、「御輿宿(みこしやどり)」と言ひしも、いとめでたし。斎垣(いがき)に蔦などのいと多くかかりて、もみぢの色々ありしも、「秋にはあへず」と貫之が歌思ひ出でられて、つくづくと久しうこそ立てられしか。みこもりの神、またをかし。賀茂、さらなり。稲荷。

 

 

檜扇は

檜扇(ひおうぎ)は無地の。唐絵のもの。


----------訳者の戯言---------

「檜扇(ひおおぎ)」とは字のとおり薄い檜の板を重ねたものです。宮中で用いられていました。
男性が使う場合は、宮中行事の時複雑な式での作法とかをメモする目的で使われたっていうんですね。で、女性の場合は、直接顔を見られた場合、見られそうな場合、咄嗟に顔を隠すために使ったらしいです。

無地のものがいいっていうのはどういう理由かはわかりませんが、唐絵(からえ)がいいというのは何となくわかります。唐絵、つまり中国風の絵がきっとハイカラだったのでしょうね。いや、ハイカラと言うと西洋風ってことになるから、違うのか。ま、いずれにしても国産の感じじゃなくて、高級な気分を醸したのでしょう。

ちなみにハイカラというのは、語源がhigh collarなのだそうですが、意味は文字通り「高い襟」です。西洋風の身なり、ということで、それが「ハイカラ」になったということなんですね。
当時は西洋なんていう存在はありませんから、中国風が最先端なんでしょう。ということで調べたところ、中国には漢服というのがありまして、円領袍とか盤領袍と申しまして、日本の平安時代の頃には中国の官人は丸襟で長いワンピーススタイルの着物だったようです。そういうのがオッシャレーだったのかもしれません。ということで「円領」ならyuan lingなので「ユァンリン」。ハイカラならぬユァンリンです。それがどーした?って話ですが。

ところで、扇ですが、ルビを振る場合は「おおぎ」なのでしょうか「おうぎ」なのでしょうか。というのも、このPCでは「おおぎ」でも「おうぎ」でも「扇」と変換されます。なぜか。
歴史的仮名遣いで書くと、原文にもあるように「あふぎ」です。読み方は「おーぎ」。これを現代仮名遣いのルールどおり表記すると「おうぎ」となります。ただ、人名では扇で「おおぎ」という人もいるようです。だからなのかもしれません。


さて、前の段で出てきた「骨」のある扇は、この段の「檜扇」を簡素化したものというか、ディフュージョン版みたいなものなんですね。檜扇はさすが本格派です。オーセンティック。ほんまか??

 
【原文】

 檜扇(ひあふぎ)は 無紋。唐絵。