枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

峰は

峰は、ゆづるはの峰、阿弥陀の峰、弥高の峰がいかしてる。

----------訳者の戯言---------

前段に続き、今回は「峰」です。
何がいいのかも書いてない。名前だけです。
またまた個人的に、ふ~ん、って感じですね。


「ゆづるはの峰」というのは諭鶴羽山(ゆづるはさん)のことのようです。諭鶴羽山兵庫県の淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの山で、淡路島の最高峰です。
山頂の南側約400mに位置する諭鶴羽神社は古代からあったとされています。平安時代になるとこの社への「諭鶴羽参り」は大変人気もあり、修験道の一大道場として隆盛を誇ったそうです。

熊野権現英彦山(福岡県と大分県の県境)から石鎚山愛媛県)、諭鶴羽山兵庫県南あわじ市)を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡られたとされるんですね。
熊野権現というのは熊野三山の祭神である神々なんですが、三山にはスサノオイザナギイザナミなどの大物の他いろいろな神様がいるらしいです。権現っていうのは神仏習合の考え方なんですよね、仏様が神様の姿になって現れるという。
ともかく、その熊野権現は当時の日本人にとってはとても重要な神様なんで、その中継地点の社もきっとかなりの重要ポイントで、信仰を集めたのでしょう。

阿弥陀の峰」は京都市東山区にある「阿弥陀ヶ峰」です。東山三十六峰の一つだそうですね。周辺は、古くから都の葬送の地だった「鳥辺野(とりべの)」として有名です。天平年間(729~749年)に行基阿弥陀如来を安置したことからこう呼ばれるようになったらしいです。


近江(現在の滋賀県)、備中(現在の岡山県)、播磨(現在の兵庫県西部)などにその名前を残すところがあるようですね。特定は難しいです。


少し前に「山は」という段がありました。山と峰にはどういう違いがあるのでしょう? 私の感覚から言うと、山はほぼ全体、峰は山頂部の尖った部分、という語感があります。高い山の頂、あるいは鋭角な印象もありますね。そういうことで山と峰を分けて書いたのでしょう。(2023/8/20追記)


【原文】

峰はゆづるはの峰。阿弥陀の峰。弥高の峰。

市は

 市といえば、たつの市、さとの市、つば市がいかしてる。大和エリア(奈良)にたくさんある市の中で、初瀬(の長谷寺)に参詣する人が必ずここに泊まるのは、観音様の縁があるからだって思うと格別なの。その他、をふさの市、飾磨の市、飛鳥の市ね。


----------訳者の戯言---------

たつの市(辰の市)っていうのは、今の奈良市で辰の日に立った市だそうです。
つば市は「海石榴市」と書くそうですね。すみません読めません。で、これは今の奈良県桜井市の金屋というところにあったらしく、現在は静かな住宅地ですが、ここは昔は国内有数の交易の中心地だったそうです。特に市の立つ日はかなり賑わっていたらしいですね。
初瀬は「はせ」と読みます。これも奈良県桜井市で、今も地名に残っています。長谷寺があるところです。初瀬と言えば長谷寺長谷寺と言えば初瀬というのが当時は当たり前の表現だったようです。

「心ことなり/心殊なり」と言うのは、「格別」「並々ではない」ということらしいです。

まあ、簡単に言うとこの段、「市場って言ったら、どこがいいか?」というのを並べて書いて、ちょっとだけコメント入れてるだけです。
全部書いても仕方ないので、詳解しませんが近畿圏で当時あった市ばかりのようですね。
個人的には、ふ~ん、って感じです。


【原文】

市は たつの市。さとの市。つば市。大和にあまたある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊まるは、観音の縁のあるにやと心ことなり。をふさの市。飾磨の市。飛鳥の市。

山は

 山は、小倉山、かせ山、三笠山、このくれ山、いりたちの山、忘れずの山、末の松山がいい感じ。特にかたさり山はどんななんだろうって、素敵な想像が膨らむわ。五幡山、かへる山、後瀬の山。朝倉山は「よそに見る」っていうフレーズを使った歌があって、いかしてるの。おほひれ山も名前が面白いわ。臨時の祭の舞人なんかを思い出しちゃうからでしょうね。
 三輪の山も素敵。手向山、待ちかね山、たまさか山、耳なし山もね。


----------訳者の戯言---------

ここに出てくる山は、全部「歌枕」らしいです。まあまあの知識自慢ですね。
「歌枕」というのは和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことだそうです。今回はそれをいろいろ並べてみました、と。

「かたさり山」の「かたさる」っていうのは「遠慮する」ことなんですね。なので、なんかちょっと興味あるんでしょう。たしかに気持ちはわかります。

「朝倉山」に関しては「昔見し人をぞ我はよそに見し 朝倉山の雲居はるかに」(昔の恋人を今は私、気にも留めなくなってる。まるで朝倉山の雲が遥か向こうに離れてるようにね)っていう歌がなかなかいい感じなので、良い、ということなんですね。

「おほひれ山」のところで出てくる臨時の祭っていうのは、例祭ではない祭、とのことです。まあ、そういうのがあったらしい。しかし臨時の祭ってどこの神社の?とかいう疑問もあるんですが、そこは一般には賀茂神社石清水八幡宮祇園社(今の八坂神社)に絞れるようですね。石清水だと断定している現代訳とか解説なんかも見られますが、私にはそこまでわかりません。専門の方はわかるんでしょう。
で、神社の祭でやる演目には「東遊び」という歌舞があったそうで、それの最後のほうで「大ひれや、をひれの山は」って歌うんだとか。なので、ビジュアル的には舞人=ダンサー的な人が思い浮かぶってことでしょうか。

たしかに三輪山は姿もきれいですし、そういうことなんでしょうね。聖なる山で御神体そのものでありますから。

この段、言わんとすることはわからんでもないんですが、今読んで、めちゃくちゃ興味深いとか、面白いという文章ではないですね。


【原文】

山は 小倉山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。忘れずの山。末の松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。五幡山。かへる山。後瀬の山。朝倉山、よそに見るぞをかしき。おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人などの思ひ出でらるるなるべし。

三輪の山、をかし。手向山。待ちかね山。たまさか山。耳なし山。

今内裏の東をば

 今内裏の東の門を「北の陣」って言うの。で、そこの楢(なら)の木がすごく高いので「何メートルぐらいあるんだろうね!」なんて言ってるのね。
 右近衛権中将の源成信が「根元から切り倒して、定澄(じょうちょう)僧都の枝扇にしたらいいよね」っておっしゃったんだけど、定澄僧都山階寺興福寺)の別当に任命されて朝廷にお礼に参上する日、近衛府の代表として成信が出席されてて。定澄僧都は高い屐子(けいし)を履いてたから、さらにめちゃくちゃ背が高かったのよね。で、セレモニー終了後、「どうして、あの『枝扇』をお持たせにならなかったんです?」って(私が成信サマに)言ったら、「忘れてないんですね」とお笑いになったの。

 「定澄僧都に袿(うちき)なし。すくせ君に袙(あこめ)なし」(定澄僧都に合う袿はない。すくせ君に合う袙はないよ)って言った人、うまいこと言うもんだよね。


----------訳者の戯言---------

定澄僧都という人、めちゃくちゃ背が高かったらしい。
現代、ちょっと前なら、馬場さんとか和田アキ子のやつです。ボブ・サップとか篠原とか。「デカさ」ネタですね。
で、この方、興福寺山階寺)の別当に選任されます。別当っていうのは長官として寺務をつかさどる僧職、つまりトップですね。

さて、最初に出てきた北の陣の楢の木ですが、一説には梨の木とも言われています。これ、おそらく原文がひらがなで書かれてるために、「ら」と「し」のどちらにも読めたからでしょう。
ま、私はどっちでもいいんですけどね。

原文に出てくる「いく尋(ひろ)」の「尋」っていうのは、慣習的な長さの単位ということです。両手を左右に伸ばした時の、指先から指先までの長さを基準にしたらしい。ということは、1尋=150cmくらいでしょうか。

で、ナラの木というのは小さいやつでも15mほどはあったらしいです。まあまあ高い。大きいのは35mにもなるんですって。梨の木も15mくらいにはなるらしいです。

権中将の源成信という人は、ルックスも性格もいいということで当時、一世を風靡したらしいです。当然、宮中の女子たちの間でも相当人気があったようですね。そういう人です。
近衛府というのは、宮中の警備や行幸時の警護を担当した役所ですね。当時は左右の近衛府があったらしく、右近衛府の権中将というと、だいたいナンバー4くらい。そこそこのポジションです。
ただ、このお話の頃、彼はまだ20歳過ぎくらいなんですね。大人ぶってますねー、すかしてますねー。エエトコのボンボン(親王の子、つまり天皇の孫、しかも藤原道長の猶子になっている)ですから、仕方ないんでしょうか。猶子というのは養子っぽいですけど、ちょっと違います。後見人に近いんですね。義理の親子関係なんですが、一般には家督や財産の相続、継承なんかを目的にするものではありません。子の姓も変わらず、ですがお互いにメリットがあるので親子になる、という関係のようです。

屐子(けいし)というのは木製の履物らしいですね。下駄みたいなものですか。
「枝扇」といって、葉のついた枝を扇みたいに使うことがあったらしいんです。なるほど。

袿(うちき)というのは「主に女性の衣だが、男性が中着として着用する場合もある」とウィキペディアに書いてありました。
まあ、そういうものなのでしょう。長いやつですね。
袙(あこめ)は、「男性が束帯装束に着用するもの」「宮中に仕える少女が成人用の袿の代用として用いた」と書かれています。たぶん短めの着物なんでしょう。

「すくせ君」は調べてみても、どこにも載ってないんです。詳細不明とか書いてるのもありますが。
そういう人ですから、素人の私には知りようもないんですけど、小さい人だったのは間違いないですね。
身体的な特徴を嗤う、というのは、現代のセンスからすると、あまりいい趣味ではないと思います。このエッセイ、私的にはアウト!ですね。


【原文】

今内裏(いまだいり)の東をば北の陣といふ。なら(なし)の木のはるかに高きを、「いく尋(ひろ)あらむ」などいふ。権中将、「もとよりうち切りて、定澄僧都の枝扇にせばや」とのたまひしを、山階寺別当になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君の出で給へるに、高き屐子をさへはきたれば、ゆゆしう高し。出でぬる後に、「などその枝扇をばもたせ給はぬ」といへば、「物忘れせぬ」と笑ひ給ふ。

「定澄僧都に袿(うちき)なし。すくせ君に袙(あこめ)なし」と言ひけむ人こそをかしけれ。


検:今内裏のひむがしをば

よろこび奏するこそ

 昇進のお礼を天皇に申し上げるのはイかしてるわ。下襲(したがさね)の裾を長めに引っぱり出して、天皇の方を向いて立っているのがね。拝礼して踊りをくるくると舞っているのも素敵。


----------訳者の戯言---------

「よろこび」を「奏す」る、って何ぞや?と、いきなりよくわかりません。
前にも出てきましたが、「奏す」っていうのは天皇に申し上げること、「啓す」っていうのは皇后とか皇太子に申し上げることなんですね。これは決まりだから、まあわかります。
ただ、申し上げることが「よろこび」ですからね、意味広すぎるしなーとは思います。が、そこは文脈から読み取れってことなんですね。というか、天皇に「奏す」る「よろこび」的な事は「昇進のお礼」ということだったらしいですね、当時は普通に考えたら。

たとえば現代でも、「お悔み」を「申し上げる」のは、「亡くなった方の親族に慰めの言葉をかける」意味であって、「悔やんでること」をただ「申し上げる」だけではないです。ま、それと似たようなことなんでしょう。慣用的にこう言う、ということのようです。

そう考えると「後ろをまかせて」も広いですね。「下襲の裾を長く引いて」ということらしいです。
「後ろ」というのは、着物の裾とか、また、下襲(したがさね)の、後ろに垂れてる部分のことを言うらしいですね。
下襲」というのは、コトバンクとかで見ていると、今で言うとシャツ的なものですね。上着の下に着るやつです。絵とか見ても後ろがすごく長いですね。
ただ、枕草子が書かれた頃はまだそんなに長くなかったらしいんです。位が上の人ほど長かったようでで、大臣クラスでも33cmとかだったのがさらに13世紀頃には3mくらいになったらしいです。
長すぎやろ!と思います。

ちなみに「まかせ」というのは「まかす」の連用形ですが、漢字で書くと「任す」ではなく、「引す」なんですね。これで「まかす」と読むこと自体、現代は普通にはないですね。ひす?ひきす?いんす?って思います。

「引す(まかす)」というのは、そもそもは池とか田んぼなんかに、水を引く、引き入れるということらしいです。

実は、前に読んだ徒然草(第五十一段)でも「まかす」という言葉は出てきまして、その時は水を引くという意味そのままだったので、まだわかりやすかっんです。

で、今回もっと詳しく調べていたら、「まかす」は「引す」だけでなく「漑す」とも書くらしい、ということもわかりました。実際、こんな漢字も初めて見ましたね。人によっては一生見ないでしょう。
私も徒然草枕草子を読んでなかったら、見ることもないまま死んでたでしょうね。

そして本題です。
「まかして」ですが、上にも書いた「引き入れ」転じて、長く引き伸ばして、とか、長めに引っぱりだして、くらいの感じでしょうか。
三月三日は」の段でも、裾出しルックが描かれてましたけど、昔も裾出すのは好きだったようです。
現代もまあ、カジュアルではシャツを出しますけど、フォーマルでは絶対に出しませんね。もちろんカジュアル系でインするスタイルも、着こなし方次第で楽しみたいものです。

原文を読むと、天皇の前で、こんな時(昇進のお礼を言っている時)に踊り騒ぐのはいかがなものか?と一瞬思いますよね。不謹慎でしょう、と。

けど、当時のはそういう作法なんですね。
Weblioを見てますと、「舞踏す」とは「朝廷などでの朝賀・即位・節会(せちえ)・叙位・任官などの際の拝礼の作法の一つ」と書かれていて、そのやり方として「二度礼拝して笏を置き、立って身を左右左とひねり、座って左右左とひねり、笏を取って礼拝し、立ってさらに二度礼拝する」ということです。
しかしやはり動きはヘンです。クネクネダンスですね。
騒ぐ、というのはいろいろ意味がありますけど、ここではくるくる、スムーズ&スピーディに舞うということでしょうね。
「笏」は「しゃく」と読みます。昔の人が手に持ってる札というか板のようなあれです。聖徳太子が持ってるやつです。

「拝し舞踏し騒ぐよ」から想像すると、場所は偉い人のところ、裾出しファッションで昇進のお礼、しかもそこでダンシング。
ダンスは、クネクネ系からストリート系に移り、ロボットダンスとか、ムーンウォークとかヘッドスピンとかしてほしいです。もちろん、そんなことしないですけど、やってくれたらめっちゃウケるんですけどね。


【原文】

よろこび奏するこそをかしけれ。後ろをまかせて、御前の方に向ひて立てるを。拝し舞踏し騒ぐよ。

正月一日、三月三日は

 1月1日、3月3日は、すごくうららかでした。
 5月5日は、1日中曇りだったの。
 7月7日は、曇ってたけど、夕方になって晴れてきた空に、月がとても明るくて星もたくさん見えたわ。
 9月9日は、明け方から雨が少し降って、菊の花に露がいっぱいで、花を覆った綿なんかもすごく濡れて、花の移り香も際立ってて。早朝には止んだんだけど、まだ曇ってて、ともすると雨粒が落ちてくるように見えるの、それもまたすごくいい感じなのよね。


----------訳者の戯言---------

「菊の着綿(きせわた)」といって、この時代には、9月9月(重陽節句)に菊の花に黄色の真綿を被せて朝露を含ませ、その綿で体を拭くと、無病でいられる、という習慣があったらしいです。

今回は、「節句」の日の天気がそれぞれどうだったか、とか書いてます。しかしそれほど大したことは書いてないですね。


【原文】

 正月一日、三月三日は、いとうららかなる。

 五月五日は、曇り暮らしたる。

 七月七日は、曇り暮らして、夕方は晴れたる空に、月いとあかく、星の数も見えたる。

 九月九日は、暁方より雨少し降りて、菊の露もこちたく、覆ひたる綿などもいたく濡れ、うつしの香ももてはやされて。つとめてはやみにたれど、なほ曇りて、ややもせば降り落ちぬべく見えたるもをかし。

うへに候ふ御猫は③ ~暗うなりて~

 あたりが暗くなって、ご飯をあげても食べないから、結局翁丸ではない犬だって結論に達してね、翌朝早く定子様が髪をセットして、お顔を洗うもんだから、私、参上して、鏡をお持たせになってご覧になるためお側に侍ってたら、犬が柱のところにいるのを見つけて。「かわいそう。昨日は翁丸をひどく叩いたものね。死んじゃったそうだけど…哀しいわね。今度は何に生まれ変わったのかなぁ。どんなにか辛かったでしょう…」ってつぶやいたら、そこにいたその犬が震えわなないて、涙をポロポロこぼすの、すごくびっくりしちゃった。
 やっぱり、翁丸だったんだね。昨夜は自分のことを隠して、耐えてたんだろうって、哀れなだけじゃなく、それに加えて、素敵に思えることこの上なくて。鏡を置いて、「あなたは翁丸なの?」って聞いたら、地面に突っ伏して、大きく鳴いたの。

 定子さまがすごくお喜びになって。右近内侍を呼び寄せて、「こうこうこういうわけなのよ」っておっしゃったら、女房たちもみんなにぎやかに笑って、その騒ぎを天皇もお聞きつけになって、定子さまの部屋に来られたのね。
 「驚きだね、犬にだってこんな心があるもんなんだね」って、お笑いになっられて。
 天皇のお付きの女房たちもこれを聞きつけて、集まってきて翁丸の名前を呼んだら、そのたび跳ね回るのよ。「でもまだ、顔なんか腫れてるものね。手当てをしてあげないと」って私が言うと、「とうとうこの犬が翁丸だってことを白状したわね」なんて笑うもんだから、源忠隆がこれを聞きつけて、台所の方から、「本当ですか。翁丸が見つかったって! 拝見させていただきます」って言ってきたから、「あら、ひどい。絶対そんな犬いないですわ」ってスタッフに言わせたら、「とは言っても、私が見つけてしまう時もございますでしょうし。そんなに隠しおおせることはできないでしょう」と言うのね。

 こうして翁丸は帝から許されて、元通りに戻ったの。でも、犬がカワイソがられて震えて泣き出すのなんて、今まで聞いたこともないくらい、素敵で感動しちゃったわ。人間なら人から言葉をかけられて泣いたりすることはあるんだけどね。


----------訳者の戯言---------

内侍というのは前にも出てきましたが、帝の側室(候補)もいる、女性だけの部署「内侍司」の女子職員です。ここでは「右近内侍」という人が登場していますね。これは固有名詞。一条天皇のスタッフだった女官の一人の名です。
内侍司」には側室がいるというだけではなく、もちろん色々な仕事もありました。今で言うなら、秘書課、総務課、庶務課あたりの役割だったのではないかと思います。
内侍司には尚侍という長官(カミ)が2名、典侍(スケ)という次官が4人、その下に掌侍(ジョウ)が6人いたそうです。
内侍司も最初のうちは、トップの尚侍(カミ)やナンバー2の典侍(スケ)も所謂女官だったらしいですが、このあたりの人はそのうち皇妃に準ずる立場、つまり側室、妾となったそうですね、実質的には。ってことは、実際に中心となってこの部署の仕事をしたのは掌侍(ジョウ)ということでしょうか。
で、さらにこまごまとした雑用をした女孺(にょじゅ/めのわらわ)というスタッフが100人いたらしいです。

さて本段。賢い犬の話です。
っていうか、正直、虐待がかわいそう過ぎて、後半、なかなか頭に入ってこない。
今の常識からすると、一条天皇も、源忠隆らもオカシイ人でしかないですね。
犬に感動するより先にそっちだろ!と思います。特に一条天皇ね。自分が「シバいて捕まえて流刑にせい!」って言っておいて、最後には「驚き! 犬にもこんな心があるものなの」と、しれっと言うメンタル。

しかし、いくらやりたい放題でも、さすがに清少納言天皇批判はできません。
巧みに「犬に感動した話」に持っていってます。
官僚が安倍首相に忖度するようなもんですね。


この記事を最初に書いたのが2018年ですから、まだ安倍政権時代で、森友問題、加計学園問題、それに伴う公文書改ざんの問題などが露呈していた頃です。この後さらに「桜を見る会」の問題なども出てきました。安倍さんは亡くなりましたが、ああいう権力者への忖度、というのはまじで非常に大きな問題がありましたね。もちろん統一教会との癒着もどうかと思いました。(2023/8/1追記)


【原文】

暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬる、つとめて、御けづり髪、御手水など参りて、御鏡を持たせさせ給ひて御覧ずれば、候ふに、犬の柱もとにゐたるを見やりて、「あはれ、きのふ翁丸をいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身にこのたびはなりぬらむ。いかにわびしきここちしけむ」とうち言ふに、このゐたる犬のふるひわななきて涙をただ落しに落すに、いとあさまし。さは、翁丸にこそはありけれ。昨夜は隠れ忍びてあるなりけりとあはれにそへて、をかしきこと限りなし。御鏡うち置きて、「さは、翁丸か」と言ふに、ひれ伏していみじう泣く。

御前にもいみじうおち笑はせ給ふ。右近の内侍召して、「かくなむ」と仰せらるれば、笑ひののしるを、上にも聞こしめして渡りおはしましたり。「あさましう、犬などもかかる心あるものなりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房なども聞きて、参り集まりて呼ぶにも、今ぞ立ち動く。「なほこの顔などの腫れたる。物のてをせさせばや」と言へば、「つひにこれを言ひあらはしつること」など笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「まことにや侍らむ。かれ見侍らむ」と言ひたれば、「あな、ゆゆし。さらにさるものなし」と言はすれば、「さりとも、見つくるをりも侍らむ。さのみもえ隠させ給はじ」と言ふ。

さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。なほあはれがられて、ふるひ泣き出でたりしこそ、よに知らずをかしくあはれなりしか。人などこそ人に言はれて泣きなどはすれ。

 

検:うへにさぶらう御猫は 上にさぶらふ御猫は