枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

つねに文おこする人の

 いつも手紙を送ってくる人が、「どういうことかな? 何か言ってもどうにもならないよ、今は」って言って次の日も音沙汰が無いから、さすがに夜が明けると差し出される手紙が見当たらないっていうのは寂しいなって思ってね、「それにしても、はっきりした性格だなぁ」って言って、その日は暮れたの。
 そのまた翌日、雨がひどく降る昼まで音沙汰も無かったから、「完全に思う気持ちが無くなったんだわ」なんて言って、端っこのほうに座ってた夕暮れに傘をさした者が持ってきた手紙をいつもより急いで開けて見たら、ただ「水増す雨の」と書いてるのは、すごくたくさん詠まれたどの歌よりもいかしてるわ。


----------訳者の戯言---------

いつも手紙を送ってくるとありますが、これは「後朝(きぬぎぬ)の文」です。
後朝の文」というのは、枕草子でもこれまでに時々出てきたことがありますが、夜に女子の元を訪れた男性が朝方、女子のところから家に帰ってすぐ手紙とか歌を送るやつですね。当時はそういうのが礼儀っていうか、愛の証というか、男女の営みのレギュラーアクションだったわけです。

がしかし、いつもは送ってくるのにそれを送って来ない男。というのも、「何なん? 言ってもどーにもならんよ、今はよー」と怒って帰ったらしい。「手紙ないじゃんよー、ガッカリだわ。もうだめぽ」と諦めがちの翌日の夕方になって送ってきたのが「水増す雨の」という一言だったわけで。これがイケてると思った清少納言

「水増す雨の」は歌の一節のようなのですが、元ネタはよくわかりませんでした。一説には紀貫之のではないかとのことですが、いずれにしても誰かが詠んだ和歌だと思います。当時はポピュラーだったのかもしれませんね。前段で「忘れめや」「あらずとも」というのが出てきたのと同様です。

「水増す雨の」=「雨が降ると水が増すように、あなたへの思いも増すんだよお」という意味のようで、喧嘩をした時に「ごめんね」と言うよりも「愛してるよ」と言う。しかもこのように和歌の中にあるワンフレーズだけ抜き出して書いて寄越すというのが粋だし、好感度アップということなんですね。
めんどくせーっちゃあ、めんどくせー女。それが清少納言


【原文】

 常に文おこする人の「何かは。言ふにもかひなし。今は」と言ひて、またの日音(おと)もせねば、さすがに明けたてば、さし出づる文の見えぬこそさうざうしけれと思ひて、「さても、きはぎはしかりける心かな」と言ひて暮らしつ。

 またの日、雨のいたく降る、昼まで音もせねば、「むげに思ひ絶えにけり」など言ひて、端のかたにゐたる夕暮れに、笠さしたる者の持て来たる文を、常よりもとくあけて見れば、ただ「水増す雨の」とある、いと多くよみ出だしつる歌どもよりもをかし。