枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

一条の院をば今内裏とぞいふ② ~すけただは木工の允にてぞ~

 藤原輔尹(すけただ)は木工寮の允(じょう=三等官)だった人で、蔵人になったの。すごく荒々しくって異様な感じだから、殿上人や女房が「あらはこそ」ってあだ名を付けてたの、それを歌にして、「比類なきお方だこと~、尾張の人の子孫なんだから~」って歌うのは、尾張兼時の娘の子どもだからなのね。この歌を帝が笛で演奏なさるのを、お側で控えてて、「もっと大きな音でお吹きになってください。彼には聴こえないでしょうから!」って申し上げたら、「どうかな? でも聞いて知られちゃうだろうしね」って、普段はこっそりとお吹きになるんだけど、あちらの御殿からこっちにやって来られて、「彼はいないね、今こそ吹こう!!」っておっしゃって、お吹きになるのはすごく素敵なの。


----------訳者の戯言---------

藤原輔尹(ふじわらのすけただ)という人がいたようです。

木工の允(もくのじょう)は、木工寮(もくりょう)の第三等官です。大、少の別があるらしい。
木工寮は宮廷の建築・土木・修理を一手にひきうけた役所で、具体的には宮殿の建築・修理、都の公共施設の修理、木器などの木製品の製作などを司りました。

「あらはこそ」。丸見え、とか、遠慮なし、みたいなイメージだと思います。一種のあだ名ですよね。disってます。「マルミエくん」とか、「遠慮ねーヤツ」とかですか。ところで「マルミエくん」はゆるキャラでいるようですね。

尾張氏(おわりうじ)は、「尾張」を氏の名とする氏族です。ま、姓ですね。元々は尾張の国を支配した一族の流れを汲んでいます。ご存じのとおり、尾張というのは今の愛知県の西部。戦国時代で言うと織田信長の出身地です。

ま、本人にも問題はあったようですが、それを尾張の人の子孫だからとdisられるのもどうかと思いますがね。地方差別です。

みそかに」は、「こっそり振る舞っている。ひそかだ。」という意味の「みそかなり(密かなり)」の連用形です。


というわけで、藤原輔尹という、なんかちょっとヤな感じの人を、みんな嫌ってて、あだ名を付けて、歌にまでして…みんなでdisってるという、そういう後半です。しかも帝まで。
いくら気に入らない人でも、それはないでしょ。

しかもそのdisりソングを笛で奏でる帝。それを絶賛する清少納言。ハァ?って感じです。ハラスメント? イジメ?
前半でちょっとしんみりした感じもありましたが、あれで終わってればね。後半で台無し。


【原文】

 すけただは木工(もく)の允(じよう)にてぞ蔵人にはなりたる。いみじくあらあらしくうたてあれば、殿上人、女房、「あらはこそ」とつけたるを、歌に作りて、「双(さう)なしの主(ぬし)、尾張人(をはりうど)の種にぞありける」と歌ふは、尾張の兼時がむすめの腹なりけり。これを御笛に吹かせ給ふを、添ひに候ひて、「なほ高く吹かせおはしませ。え聞き候はじ」と申せば、「いかが。さりとも、聞き知りなむ」とて、みそかにのみ吹かせ給ふに、あなたより渡りおはしまして、「かの者なかりけり。ただ今こそ吹かめ」と仰せられて吹かせ給ふは、いみじうめでたし。

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

  • 発売日: 2015/03/17
  • メディア: 単行本
 

 

一条の院をば今内裏とぞいふ①

 一条院を今内裏(いまだいり)って言うの。帝がいらっしゃる御殿は清涼殿で、その北にある御殿に定子さまはいらっしゃるのね。西と東には渡り廊下があって、帝はこの廊下をお渡りになって、定子さまから参上なさる通り道にもなり、前には中庭があるから植え込みを作り、籬垣(ませがき)を結って、すごくいい感じなのよ。
 二月二十日頃、うららかでのどかに日が照ってる時、西の渡り廊下の廂(ひさし)の間で、帝が笛をお吹きになるの。(藤原)高遠の兵部卿が帝の笛の師でいらっしゃるんだけど、笛二つで高砂を繰り返しお吹きになるのは、やっぱりめちゃくちゃすばらしいわ!なーんていうのもありきたりよね。笛のこととかをお話しされてる様子もすごくすばらしいの。御簾の下にみんな集まって、見上げているひとときは、「芹(せり)摘みし」なんて思うこともなかったわ。


----------訳者の戯言---------

今内裏(いまだいり)というのは里内裏と言ったりもしたそうです。平安宮の大内裏の外の街に設けられた皇居という意味だそうですね。

一条院というのは、大宮院とも言われていたらしいです。大内裏の北端は一条通(一条大路)で、東の端は大宮通(大宮大路)です。その二つの道路の交わるあたりにあったんですね。だから一条院とか大宮院と言われたのでしょう。一条天皇の邸宅だから一条院、というのではなさそうです。で、この一条院という邸宅を「今内裏」として使った、ということですね。
先に書いた通り、大内裏の北東カドの外側斜め向かいのちょっと上ったあたりに位置しています。一条院跡は今のユニクロ西陣店の北東にある名和児童公園あたりである、とのことです。

「清涼殿」と出てきますが、普通は平安京内裏の清涼殿を指します。天皇が日常住んだ所、プライベートスペースです。なので、私は読み違えて、一条院までかなり距離があるよな~と思っていたのですが、違うんですね。一条院の中で一条天皇が普段住んでいたのが「清涼殿」で、つまり一条院の中にも「清涼殿」があったというわけなんですね。
そしてその北側にさらに中宮の住む御殿があったということです。

渡殿とは、二つの建物をつなぐ屋根のある板敷きの廊下。渡り廊下です。つまり、一条院の中に、帝の住む清涼殿と中宮の住む北側のサブ御殿があり、この二つを繋ぐ南北の渡り廊下が東側西側に各々1本ずつあったということなんですね。

原文にある「まうのぼらせ給ふ」。「まゐのぼる」や「まうのぼる」は「参上する」の謙譲語です。帝のところに中宮が参上なさるということですね。

壺=坪というのは、中庭。建物や垣などに囲まれた、比較的狭い一区画の土地のことを言うそうです。

笆(ませ)は籬とも書くようです。「ませ」と言うだけで、だいたい籬垣(ませがき)のことを指すことが多いようですね。
籬垣は竹や柴 (しば) などを粗く編んでつくった低い垣のことだそうです。


さて旧暦二月二十日頃というと、一瞬真冬かと思いますが、今の暦では春先です。ちなみに今年の場合、旧暦2月20日は4月の1日となります。桜の咲く頃ですよ。結構暖かい季節です。

高遠の兵部卿と出てきます。兵部卿というのは兵部省の長官です。当時兵部卿を務めていた藤原高遠(たかとお)という人は管弦にも秀でていて、帝に笛を指南していたといいます。
この帝と高遠の二人で「高砂」という曲をデュエットしたんですね。それがやたら素晴らしいと。

ところで「デュエット」というのもわかりにくい言葉です。もともとは、二重唱もしくは二重奏のことなんですが、だいたいはカラオケとかの歌を二人で歌うのを言いますね。昔の歌なら銀座の恋の物語とか、チャゲアスとか、ロンリ―チャップリンとかですか。
で、演者、奏者のことはデュエットと言ってもいいんですが、「デュオ」という場合も多いですね。ゆずとかコブクロとか、キロロとかあみんとか、Kinki Kidsとかですか。元々同性のデュエットのユニットを「デュオ」ということが多かったらしいです。けど男女でもデュオという場合もあります。フォークデュオという言葉もありますし。これなどはほぼ性別関係なく使います。結局雰囲気というか、慣用なんですね。おおむね、演奏、歌唱は「デュエット」、演者は「デュオ」と言うのが一般的にしっくりきます。それでいいんです、たぶん。

高砂というのは、催馬楽の「高砂」という曲のようです。催馬楽は元々は庶民の歌謡だったものですが、次第に貴族のものとしてアレンジされ、宮廷音楽にまでなりました。なので帝が演奏してもおかしくはありません。

さて、「芹摘みし」です。

芹摘みし昔の人もわがごとや 心に物は叶はざりけむ
(芹を摘んだっていう昔の人も私のように嘆いていたのかな? ほんと世の中というのは思いどおりにならないものだよね)

望みが叶わないあきらめの歌で、伝説的な古歌というか、「芹摘みし」というフレーズは、不遇やあきらめの代名詞みたいになっていたようですね。

どんな話か簡単に書いておきましょう。
昔、宮廷に庭の清掃を役目とする身分の低い男がいたそうなんですね。で、ある日、宮廷の奥御殿の庭で仕事をしていた時、突然つむじ風が吹いて、御殿に掛けられていた御簾(みす)を吹き上げました。
御殿の中では皇后様がお食事をなさっていて、芹(せり)などの野菜を食べていらっしゃったそうです。
御簾の吹き上げられていた時間はほんのわずかでしたが、男は皇后様のお顔お姿をはじめて見て、その美しさ、神々しさに魅了されてしまったと。

その後、男はなんとかもう一度皇后様のお顔を見たいと思って奥御殿の庭仕事をしていましたが、御簾が吹き上げられることもなく、お顔を拝見することもできなかったそうです。
そこで皇后様が芹を食べていらっしゃったのを思い出して、毎日芹を摘んできては御殿の御簾の近くに置きました。が、それでも何年たっても望みの叶う日は来ませんでした。

皇后様への思慕の情が募って男はとうとう病気になり、死期が迫ります。男は、苦しい息の下から、
「私の病気は皇后様への想いが募ってのもの、その想いが高じて死ぬのです。私を不憫と思うなら芹を摘んで弔ってほしい」
と言い残して亡くなったそうです。


というわけで、背景としては長保二(1000)年の2月、ちょうど定子が中宮から皇后になる前後の頃の話です。定子が皇后になり、藤原道長の娘・彰子が一条天皇中宮に入内した頃ですね。中関白家が衰退し、定子の不遇な時代が訪れている。そんなある日、沈んだ気持ちを忘れさせてくれる束の間の出来事、という段です。


【原文】

 一条の院をば新内裏(いまだいり)とぞいふ。おはします殿(でん)は清涼殿にて、その北なる殿におはします。西、東は渡殿にて、わたらせ給ひ、まうのぼらせ給ふ道にて、前は壺なれば、前栽植ゑ、笆(ませ)結ひて、いとをかし。

 二月二十日ばかりのうらうらとのどかに照りたるに、渡殿の西の廂にて、上の御笛吹かせ給ふ。高遠(たかとほ)の兵部卿御笛の師にてものし給ふを、御笛二つして高砂を折り返へして吹かせ給へば、なほいみじうめでたしといふも世の常なり。御笛のことどもなど奏し給ふ、いとめでたし。御簾のもとに集まり出でて、見奉る折は、「芹(せり)摘みし」などおぼゆることこそなけれ。

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

蟻通の明神⑤ ~この中将をいみじき人におぼしめして~

 この中将をすごく重要な人だってお思いになって、「何を褒美として取らせ、どんな官位を授けたらいいのだろうね?」って帝はおっしゃったんだけど、「これ以上の官も位もいただかなくていいです。ただ、年老いた父母が身を隠していなくなってるのを捜しあてて、都に住まわせることをお許しください」ってだけ申し上げたら、「めちゃくちゃ簡単なことだよ」ってお許しになったから、全ての人の親がこのことを聞いてものすごく喜んだのね。で、中将は上達部に、そして大臣におなりになったの。

 そんなことがあって、その人と親は神様になったのかしらね、その神様の元に参詣した人のところに、夜現れておっしゃったのには、

ななわだにまがれる玉の緒をぬきて ありとほしとは知らずやあるらむ
(七曲がりに曲がった穴の玉に緒を貫いて蟻を通した、その蟻通し明神っていう神を世間のみんなは知らないでいるのかな?)

って、ある人が話してたのよ。


----------訳者の戯言---------

自宅に内緒で匿ってた親のおかげで、めでたく当の両親を堂々と元のとおり暮らせるようにした中将。他のお年寄り、高齢の親をもつ人たちも喜んだのですね。みんな感謝です。
しかしここまでにならないと、目が覚めない帝もどうかと思いますけどねー。
ただ、このことでこの中将は上達部、ひいては大臣にまでなったと言いますから、かなりの出世です。まー国難を救ったわけですから、あり得ますわね。

で、この人や年老いた親が神様になっちゃった?っていうんですか。まじか。

たしかに日本の神道多神教でもあり、神様がたくさんおはします。八百万(やおよろず)の神などという言い方もしますしね。神様は身近な存在でもあります。
コミックやアニメでも、神様になった日、神様はじめました、カンナギ等々いっぱいあるんですよね。で、だいたいは、かわいい女子が神様なんですよ。ターゲットがターゲットだけに。それとこの前、鬼滅の刃に抜かれましたが、千と千尋の神隠しにも神様がいっぱい出てきます。YouTubeではねこがみ様が人気ですしね。あれは人ではなくて猫ですが。っていうか本物の神様じゃねーし。猫がダンボールに入ってるだけだし。
あと、忘れていけないのはネ申セブンです、AKBの。神7ですね、前田、大島の頃のね。あの方々も当時は一種の神でした。

ということで、横道に逸れまくりましたが、人神(ひとがみ)と言って人が神様になることも昔から多々あったようです。功徳のあった人が神様になるということは、そこそこあったんですね。もちろん祟りを恐れて、というのもありました。有名なのは菅原道真の天神さんとか、平将門とかですか。で、いかにもなんですが、豊臣秀吉とか徳川家康も神様になってます。調べていると、最近ではあの金鳥蚊取り線香の会社の創業者、蚊取り線香を発明した人ですけど、その人が祀られている神社があるらしいというのもウィキペディアに出ていました。

というわけで、蟻通神社の名前の由来が、この逸話なのかな?という話です。はっきり言うと違いますけど。上達部やら中将やら、大臣がいたのは律令制が採用された後ですが、この神社ができたのはそれよりもずっとずっと大昔、農耕の民が五穀豊穣の神をシンプルに祀ったというのが起源のようですからね。

という段でした。なんか昔の道徳の教科書とか、日本昔話とかにありそうな感じの逸話です。そんな深くはないです。


【原文】

 この中将をいみじき人におぼしめして、「何わざをし、いかなる官・位をか賜ふべき」と仰せられければ、「さらに官もかうぶりもたまはらじ。ただ老いたる父母(ちちはは)の隠れ失せて侍る、尋ねて、都に住まする事を許させ給へ」と申しければ、「いみじうやすき事」とてゆるされければ、よろづの人の親これを聞きてよろこぶこといみじかりけり。中将は上達部、大臣になさせ給ひてなむありける。

 さて、その人の神になりたるにやあらむ、その神の御もとに詣でたりける人に、夜現れてのたまへりける、

七曲にまがれる玉の緒をぬきてありとほしとは知らずやあるらむ

とのたまへりける、と人の語りし。

蟻通の明神④ ~ほど久しくて~

 そのあと、しばらく経ってから、小さい玉に七曲りに曲がりくねった穴が中を通って左右に貫通してるのを献上されて、「これに糸を通していただけますか、私たちの国ではみんなやってることです」って奏上したんだけど、「どんな熟達の者だってお手上げですよ」って、そこらへんの上達部や殿上人、世の中のありとあらゆる人が言ってたから、また親のところに行って、「こうなんですよ」って言ったら、「大きい蟻を捕まえて二匹ほどの腰に細い糸をつけて、またそれにもうちょっと太い糸をつけて、あっち側の口に蜜を塗って見てみ」って言ったから、彼はまたそのとおり申し上げて蟻を入れたら、蜜の香りを嗅いで実際すごく速く反対側の口から出てきたの。そして、その糸が通ってる玉を送り返した後に「やはり日本の国は賢かった」って、中国の皇帝もその後はそんなことはしなくなったのね。


----------訳者の戯言---------

七曲(ななわた/ななわだ)と原文に出てきます。元々の意味は、道や坂などが何重にも折れて曲がっていることをこう表したそうです。七曲(ななまがり)とも読みます。以前「つづら折り」という言葉が出てきましたが、それと同義ですね。
七曲りに曲がりくねってる玉? というよりも中にくねくねの穴が通ってるんでしょう。その玉の穴に糸を通せと。

しかしむしろ、そんな玉つくるほうが難しくないですか?
曲がりくねった穴を玉の中に空けて通すってどんなハイテクやねん!って思います。よくわかりませんが、最新3Dレーザー加工機とかでないと無理じゃないんですか、そんなこと。しかし、なんか中国の工芸技術も凄いですからね。ゴイゴイスー。翡翠の彫刻とか見たことありますけど、なんか、めちゃくちゃ複雑なの彫ってますから、あり得ますか。

さて久しぶりに上達部と殿上人について書いておきます。

上達部(かんだちめ)は三位以上の上級貴族。参議の場合は四位でもこの中に入ります。朝廷の幹部貴族で、清少納言の頃は20数人いたようです。詳しくは「上達部は」をお読みください。
殿上人(てんじょうびと)は五位以上の人および六位の蔵人でしたね。
上達部+殿上人合わせても50人にはなりません。

というわけで、蟻が出てきて糸を通しましたから、わかりました。これがこの明神=神社の名前の由来なんですね。
で、⑤完結編に続きます。


【原文】

 ほど久しくて、七曲(ななわた)にわだかまりたる玉の、中通りて左右に口あきたるが小さきを奉りて、「これに緒通してたまはらむ。この国にみなし侍る事なり」とて奉りたるに、「いみじからむものの上手不用なり」と、そこらの上達部・殿上人、世にありとある人いふに、また行きて、「かくなむ」といへば、「大きなる蟻をとらへて、二つばかりが腰に細き糸をつけて、またそれに、今少し太きをつけて、あなたの口に蜜(みち)を塗りて見よ」といひければ、さ申して、蟻を入れたるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととくあなたの口より出でにけり。さて、その糸の貫ぬかれたるを遣はしてける後になむ、「なほ日の本の国はかしこかりけり」とて、後にさる事もせざりける。

 

 

蟻通の明神③ ~また二尺ばかりなる蛇の~

 また、二尺(約60cm)くらいの長さの蛇で全く同じ長さのを「これはどっちが男でどっちが女なん?」って献上してきたの。またもやみんな見分けがつかないのね。そこで例の中将がまた親のところに来て尋ねたら、「二つを並べて、尻尾の方に細い小枝を近づけた時、尻尾を動かしたほうが女(メス)だって知っておきなさい」って言ったの、すぐに内裏の中でそのとおりにしたら、本当に一匹のは動かず、もう一匹は動かしたもんだから、またそのとおり印を付けて返答を送ったの。


----------訳者の戯言---------

今度はヘビの雌雄を見分けろという問題です。ヘビの雌雄による身体的な相違は不明瞭であることが多く、なかなか見分けがつきません。

で、調べたところ現在、簡単にできるヘビの雌雄判別法には、プロービングとポッピングという二つ方法があるということがわかりました。
プロービングというのは、セックスプローブという細い棒を尻尾の付け根付近にある総排泄孔に差し込む方法です。オスには比較的深く入り、メスにはあまり入らないそうです。
ポッピングは総排泄孔の付近を押して、内部にある生殖器官を露出する方法です。オスには総排出腔の内部に「半陰茎(ヘミペニス)」と呼ばれる生殖器官がありますが、メスにはありません。

というわけで、この段にあるような雌雄判別の方法は見つけられなかったですね。つまり、科学的根拠はありません。たまたま、ですよ、それ。ということです。お母さんお父さん。

それにしても中国の皇帝も何を根拠にオスメスを決めてたのかってことですよ。まさかプロービングやポッピングを知っていたわけでもないでしょうし、レントゲン、MRIやCTがあるわけでもありません。結局誰が正解決めてるの? 主観?って話ですよ。
というわけで、中国の皇帝なんぼのもんじゃいと思いつつ、④に続きます。


【原文】

 また、二尺ばかりなる蛇(くちなは)の、ただ同じ長さなるを、「これはいづれか男女(をとこをんな)」とて奉れり。また、さらに人え見知らず。例の中将来て問へば、「二つを並べて、尾のかたに細きすばえをしてさし寄せむに、尾はたらかざらむを女(め)と知れ」といひける、やがて、それは内裏(だいり)のうちにてさ、しけるに、まことに一つは動かず、一つは動かしければ、またさるしるしをつけて、遣はしけり。

 

枕草子 いとめでたし!

枕草子 いとめでたし!

 

 

 

蟻通の明神② ~唐土の帝~

 中国の皇帝がこの国の帝を何とかして騙して日本を征服しようって、いつも試し事をして、争い事をしかけてきてはプレッシャーをかけてこられるんだけど、ツヤツヤしてて丸くってキレイに削った木の二尺(約60cm)ほどあるのを、「これの上っ側と最後尾『末』ってどっちかわかる?」って問いかけて献上してきて。でも全然知るすべがなくって、帝が思い悩んでいらっしゃるもんだから、気の毒になって、親のところに行って、「これこれこういうことがあるんだよ」って言うと、「ただ流れが速い川に立ったままで横向きに投げ入れたら、向きを変えて流れて行く方を『末』って書いて送りなさい」って教えたの。帝のところに参上して、自分がわかってるかのような顔で「さあ、やってみましょう」って人と一緒に行って投げ入れたんだけど、先に進んだほうに『末』印をつけて、それを返事として遣わせたの、ホントにその通りだったのよね。


----------訳者の戯言---------

一尺≒30.30303030303…cmです。
約60cmですからまあまあのデカさの木の棒みたいなものです。何なんでしょね。ボウリングのピンみたいな感じかな? 何に使うモノ?

しかし、中国の皇帝も意地悪ってうか、変なクイズみたいなの出してきますね。こういうワケのわからない問題出して答えられなかったら征服、みたいなのってフェアじゃないと思うんですが、どうなんでしょう? その頃の力関係を物語っているというか、やっぱり東の端っこのちっちゃい島国ってことで小馬鹿にしてたんでしょうね。

さて、その中将とやらの両親は本当にその木の棒的なモノのことを知ってたんでしょうか。
何となく年寄りの知恵や知識をないがしろにするなよっていうエエ話になりそうな予感もしつつ、③に続きます。


【原文】

 唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ち取らむとて、常に試みごとをし、あらがひごとをしておそり(=恐れさせ)給ひけるに、つやつやとまろにうつくしげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかた」と問ひに奉りたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうの事なむある」といへば、「ただ、速からむ川に、立ちながら横さまに投げ入れて、返りて流れむかたを末と記(しる)して遣はせ」と教ふ。参りて、我が知り顔に、「さて試み侍らむ」とて、人と具して、投げ入れたるに、先にして行くかたにしるしをつけて遣はしたれば、まことにさなりけり。

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

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  • 発売日: 2015/03/17
  • メディア: 単行本
 

 

蟻通の明神①

 蟻通(ありとおし)の明神は、紀貫之の馬が倒れた時、この明神が病気になさったのだって歌を詠んで奉納したっていうの、すごくいかしてるわよね。

 じゃあこの蟻通っていう名前をつけたお話は、本当だったのかしら?? 昔いらっしゃった帝が、ただ若い人だけを重用して40歳になった人は殺してしまわれたもんだから、それぐらいの年齢の人は遠い国に行って隠れたりなんかして、都にはそんな年寄りはいなくなったのね。中将ですごく評価も高くって聡明だった人に70歳近い両親がいて、昨今40歳でさえ処罰されるっていうのに、ましてやこの歳なんだからもっとおそろしい!!って両親は怖がって騒ぐんだけど、その人はすごく親孝行な人なもんだから、その親を遠い所には住ませないでおこう、一日に一回必ず見ないではいられないって、秘かに家の中の土を掘って、その中に小屋を建てて隠して住まわせて、いつも行って会ってたの。
 まわりの人にも、朝廷に対しても、姿を隠してしまったってこと、知らせてはあったのね。どうしてかしらね?(帝だって)家に引き籠っている人なんて知らないままになさっておけばいいのに。ヤな時代だったのよ! この親は上達部なんかではなかったのかな、その歳で子供が中将というのではね。でも両親もすごく賢明で、いろんなことを知ってたから、で、この中将も若いんだけどすごく評判がよくって、思慮深くてね、帝も目をかけていらっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

蟻通(ありとおし)の明神というのは、大阪府泉佐野市長滝にある蟻通神社(ありとおしじんじゃ)のことだそうです。


紀貫之がこの神社を通過する途中、馬が倒れた時に、和歌を詠んで難を逃れたという逸話があるらしいですね。

かきくもりあやめも知らぬ大ぞらに 在りと星(ありとほし=蟻通)をば思ふべしやは
(かき曇ってものの区別もつかない大空に、星があるなんて思うはずあるでしょうか? いや思いもしなかったんですよー)

意訳としては、「空が雲ってて星がどこにあるかわからなくって、ここが蟻通の神様の神域とも知らないで、馬を乗り入れてしまいました…その罪をお許しください」ということらしい。和歌が神の御心を鎮めたというお話です。


それとは別に。ということでしょうか。清少納言、もう一つ自分の知ってる「蟻通」という名前になった由来のお話、本当なのかな?と語り始めました。

帝は若い人は重用するけど40歳になったら殺しちゃうという超若手主義。今の政界の老害には目もあてられませんが、完全にその逆で、しかも老人は殺してしまうというトンデモなトップです。もうちょっとこう、老若男女適材適所のバランスのとれた人事はできないものでしょうか。これまでに社会に貢献された高齢者は、殺すとかでなくリタイアでいいと思いますよ。まじで。

それに対して自分の70歳近い両親を、小屋を作ってそこに隠れて住まわせる孝行息子の中将。

さてどういう話に進展するのでしょうか。②に続きます。


【原文】

 蟻通(ありどほし)の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌よみ奉りけむ、いとをかし。この蟻通しとつけけるは、まことにやありけむ、昔おはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十(よそぢ)になりぬるをば、失なはせ給ひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者のなかりけるに、中将なりける人の、いみじう時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十(ななそぢ)近き親二人を持たるに、かう四十をだに制することにまいておそろしと怖(お)ぢ騒ぐに、いみじく孝(けう)なる人にて、遠き所に住ませじ、一日(ひとひ)に一たび見ではえあるまじとて、みそかに家のうちの地(つち)を掘りて、そのうちに屋をたてて、籠め据ゑて、行きつつ見る。人にも、おほやけにも、失せ隠れにたる由を知らせてあり。などか、家に入り居たらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。この親は上達部などにはあらぬにやありけむ、中将などを子にて持たりけるは。心いとかしこう、よろづの事知りたりければ、この中将も若けれど、いと聞こえあり、いたりかしこくして、時の人におぼすなりけり。