枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

寺は

 寺は…。壺坂寺笠置寺法輪寺霊山寺は釈迦仏のお住いなんだから、しみじみいい感じなの。石山寺粉河寺。志賀寺。


----------訳者の戯言---------

壺坂寺。今は壷阪寺と書くようです。奈良県高市郡高取町壷阪というところにあります。ご本尊は、十一面千手観世大菩薩。
当時はどうかわかりませんが、眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音さまとして信仰されているとのことです。


笠置(かさぎ)寺は、日本最古最大の本尊である弥勒大磨崖仏や虚空蔵磨崖仏など、巨岩巨石が数多く点在するお寺だそうです。京都府相楽郡笠置町といいますから、最寄りの笠置駅はJR関西本線の木津から東へ2駅。都から見ると、奈良との県境にも近い山間部という感じですね。

先にも書いたとおり、磨崖仏(まがいぶつ)があるお寺です。磨崖仏(または崖仏)というのは、自然の岩壁や岩石とかに造立された仏像を指します。ですから基本、動かせません。

そもそも、磐座(いわくら)という、古神道における岩に対する信仰があって、これは自然崇拝(精霊崇拝/アニミズム)に起源をもつ信仰対象と言えると思います。元々は神のいる場所、神が鎮座されていたということでしょうか、もちろん祭祀における祭場にもなったし、その岩や石自体に神が宿ったもの、つまりご神体としてお祀りしたのでしょう。

こうして古来からあった磐座信仰に仏教思想がプラスされて、一体となったものが磨崖仏です。折しも末法思想に伴う弥勒信仰の機運も高まったらしく、天皇、貴族たちをはじめとして「笠置詣で」が盛んに行われたらしいですね。

で、末法思想ですが、日本では1052年が末法入りと考えられていました。恵心僧都源信)という偉いお坊さんが「往生要集」を発表したのが985年ですから、まさに清少納言は同時代です。もうすぐ末法、つまり簡単に言うと、仏陀の教えが実行されなくなる時代、その兆しが現れる頃です。世の中が乱れはじめてるぞ、何とかしないと…という気運が高まっていたのだと思います。

いわくら、といえば、京都では「岩倉」ですね。今は京都市左京区の岩倉と呼ばれるエリア。住宅街であり、文教地区でもあります。
かつては貴族の別荘地でもありました。「徒然草」で女房たちが若い男子に「もうホトトギスの鳴き声はお聴きになりました?」って聞いて、どんな答えが返ってくるか? その答え方で男の器量を試す、品定めするというお話がありました。その時、堀河内大臣(堀川具守)が「岩倉にて聞きて候ひしやらん」と答えたのは「悪くないよね」と高評価でした。なんのこっちゃ。ま、内大臣ですから、そもそもがええとこの子ですわね。別荘で聴いたんですかね、それをさらっと言うのが良かったのでしょうか。というのを思い出しました。
岩倉というのはそういう場所なのですね。

で、話はそれまくりですが、この京都の岩倉も、やはり磐座信仰から来ているようです。現在の山住神社にある巨石がご神体となり「石座(いわくら)神社」(もしくは石座大明神)と言われたのが地名の由来だそうですね。
今は、岩倉というと、実相院という寺院が有名なようで。お金持ちが住んでる高級住宅街でもあるそうですよ。笠置寺のことを書いていたのに何故にこうなった?


法輪寺は、京都の嵐山にあります。正式名称は虚空蔵法輪寺元明天皇行基に命じて堂塔を建てられたとかいうお寺です。
実はよく知らなかったのですが、十三詣りというので有名なお寺らしいですね。数え13歳の男女がお参りするらしいです。七五三みたいなものでしょうか。平安時代はどうだったか知りませんが。ご本尊の虚空蔵菩薩というのが、智恵の菩薩ということですから、そうなったんでしょうかね。菩薩の中で13番目に生まれたとされているので13に因んでいるとかだそうです。京都では非常にポピュラーな行事だそうですね。


霊山寺というのは、奈良にもありますが、それとは違うようです。京都の東山のこのあたりが霊山と呼ばれてるのも、このお寺があったからのようですね。元々は最澄伝教大師)が開いた天台宗の別院で、場所柄、霊山寺と呼ばれていたらしく、別名「霊山鷲の尾寺」とも言われていたそうです。本尊は、ここにも書かれているとおり釈迦如来です。ちなみに奈良の霊山寺の本尊は薬師如来です。

現在の霊山寺は、正法寺というお寺に名前を変えています。場所は元々あった京都市東山区清閑寺霊山町というところ。今は草むした人(ひと)気のない境内に寂れた本堂が残っているだけだそうです。二寧坂から細い階段をずんずんずんずん上って行ったところにあるようですね。ちょっとした運動になるくらいの感じです。結構高いところにあって眺望もとてもよく、京都市内を一望できるのだとか。
京都霊山護国神社」や「霊山歴史館」があって、歴史好きな方、特に歴女、幕女とかいう人たちがよく訪れるエリアでもありますから、霊山カフェみたいなの作ったら、意外と流行るかもしれません。


石山寺は、滋賀県大津市にあります。昔から真言宗大本山として知られていました。今も京阪石山寺駅があります。当時は「石山詣で」が、皇族、貴族の間にたいへん流行っていました。

源氏物語にも出てきますね。
光源氏が石山詣での途中、かつて10代の頃、強引に一度だけ契った年上の人妻・空蝉に逢坂の関で再会するという場面が出てきます。その後文を交わす仲にはなるんですね。書き始めるととんでもなく長くなるのでここまでにしますが。

光源氏が辿った旅程もそうなんですが、都から逢坂の関を越えてしばらく行くと「浜は」の段に出てきた「打出の浜」に出ます。ここから船旅で湖岸沿いに南下し、「野は」で出てきた「粟津野」の沖を過ぎて、さらに瀬田川を南に下って石山寺に至る、というのがポピュラーだったようですね。


粉河寺は、和歌山県紀の川市にあります。紀ノ川の北岸にありまして、約3万坪の広い境内があります。東京ドームで2個分。これ、広いんですか? 明治神宮は22万坪(東京ドーム15個分)ですからね。比較対象が悪かったようです。知恩院が7万坪超、清水寺は約4万坪です。そんなに広くないですね粉河寺。やや広。
病気平癒などに霊験がある観音霊場として当時から有名だったらしい。そういうの、平安貴族とかは好きだったのでしょう。本尊の千手観音像は絶対の秘仏だそうです。


志賀寺は、近江の志賀にあったからそう呼ばれていたのでしょうね。「志賀山寺」または「志賀寺」と呼ばれていた、正式名称・崇福寺というお寺です。比叡山の南麓にあります。天智天皇の命により大津宮の北西の山中に建立された、というのが起源だそうですが、今は跡しかありません。
創建時から続いていた天皇による崇敬は、平安時代になってもやはりあったようですね。帝や貴族たちはここを参詣したようです。ただ、平安時代の終わりに、山門(延暦寺)派、寺門(三井寺)派の対立に巻き込まれ衰微してしまいました。

何それー?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、焼き討ちとかもあって酷かったみたいですよ。元々は仏教思想の違いだったのですが、武力闘争にまでなってきます。政治とかそういうのも絡んでややこしいんですね。で、「徒然草」の「第86段 惟継中納言は」という段にも、その一端が出てきました。焼き討ちにあった三井寺のお坊さんのお話しです。


毎度、話がそれますが、清少納言の頃に流行ってた「今、詣でたいお寺はココ!」的な段です。と言っても、「るるぶ」や「じゃらん」だとちゃんとテキストと写真とマップが載ってるはずなんですが、枕草子は名前だけです。もうちょっと何とかなりませんか? 手抜きじゃないですか?


【原文】

 寺は 壺坂。笠置(かさぎ)。法輪(ほふりん)。霊山(りやうぜん)は釈迦仏の御住処(すみか)なるがあはれなるなり。石山。粉河(こかは)。志賀。

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

  • 発売日: 2015/03/17
  • メディア: 単行本