枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

原は

原は、みかの原、あしたの原、その原がいいわね。


----------訳者の戯言---------

今回は「原」ですね。
そろそろ飽きてきましたが、まだ続くんでしょうか。

 

「みかの原」は「瓶原」と書きます。現在は木津川市加茂町瓶原(みかのはら)という地区になりますが、住所としては残っていないようですね。木津川の北側の一部で、昭和26(1951)年の町制移行までは相楽郡瓶原村でした。
聖武天皇の時代にしばらく恭仁京(くにきょう)が置かれた場所でもありますが、今は田畑が広がる農村といった風情です。
美加ノ原カンツリークラブというゴルフ場があったり、みかのはら幼稚園があったりしますし、「みかのはら」という地名は現地では地域の通称として今もポピュラーに使われているようですね。

「あしたの原」は、「朝の原/蘆田の原」と書くようです。現在の奈良県北西部、北葛城郡王寺町から香芝町にかけての丘陵をこう呼んでいたそうですね。

実は枕草子(三巻本)には「原は」という段がもう一つあり、「あしたの原」はそちらにも書かれています。そちらの「原は」に「あしたの原」のことを詳しく書いていますので、そちらもお読みいただければと思います。

「その原=園原」です。古代、都から東国に行くためには、美濃と信濃の間にある難所「神坂峠」を越えて行ったらしいですね。園原というのはその峠の信濃側の麓の山里だそうです。つまり、畿内から行くと神坂峠を越えた東国最初の地ということになるんですね。
神坂峠は標高1500m以上ありますから、当時の旅人は命がけで越えたのでしょう。その向こうにある美しい里は、もしかするとパラダイス的な存在であり、なかなか手が届かない、憧憬の対象でもあったのかもしれません。そのためか、多くの歌人、詩人たちが、都よりはるか遠方の山里「園原」として歌い残したのだそうです。
(2023/8/27追記)


【原文】

原は みかの原。あしたの原。その原。