枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

便なき所にて

 都合の悪いところで男子と逢ってたんだけど、胸の鼓動がすごく速くなったのを、「何でそんなにドキドキしてるの??」って言ったその男に

逢坂(あふさか)は胸のみつねに走り井の 見つくる人やあらむと思へば
(逢坂、、逢う時は走り井が湧き出すみたいにいっつも胸が騒いでるの、誰か、私たちを見つける人がいるんじゃないか?って思うとね)

ってね。


----------訳者の戯言---------

「便なき」というのは、「便なし」の連体形で、都合の悪い〇〇、具合の悪い〇〇、ということになります。

逢坂の関は、歌枕でもあり、この枕草子でも何度も出てきます。
関の清水、関水、という語も和歌には幾度も出てきており、やはりこの近くに湧き水があったのはたしかなようですね。
井戸というと一般には穴を掘って地下水を汲み上げる場所ですが、掘削した井戸ではなく泉や流水から飲み水を汲みとるところも井(走り井)と言います。


具合の悪い所ということですから、人目を避けて逢う、誰かに見られてはまずい、いわゆる、忍び逢いと言われるようなものなのでしょう。
「逢う」というキーワードを「逢坂」という歌枕で表して、気持ち、感情の迸り、湧き上がる思いを、その逢坂の名物でもある「走り井」の湧き出す様子に喩えるという高等テクニックです。


ま、あたしもこういう恋をするのよ、フフフ、とでも言いたかったのか!?


【原文】

 便なき所にて、人に物を言ひけるに、胸のいみじう走りけるを、「など、かくある」と言ひける人に、

逢坂(あふさか)は胸のみつねに走り井の見つくる人やあらむと思へば

 

 

ある女房の、遠江の守の子なる人を

 ある女房が遠江(とおとうみ)の守(かみ)の子である人と親しい関係になってたんだけど、その男が同じ宮に仕えてる女房と密かに親しくなってるって聞いて恨んだものだから、「『親の名にかけて誓わせてください。とんでもない嘘です。夢の中でだって逢ったことはありません!』って言うんだけど、どう返したら良いんでしょう??」って言うから…

誓へ君遠江の神かけて むげに浜名の橋見ざりきや
(誓いなさい、遠江の守り神の名にかけて、絶対に浜名の橋(女)を見なかったのだと)


----------訳者の戯言---------

原文に「語らひてある」とありますが、「語らふ」には、「親しく話し合う。じっくりと話す。」のほかに「親しく交際する。懇意にする。」ひいては「男女が契る」意味もあったようです。文意から意味を察しなければならないという高度なスキルが必要というわけですね。
昨今はリテラシー、特にネットにおけるリテラシーがよく云々されます。リテラシーが欠けていると、所謂「空気が読めない奴」と揶揄されたりするんですよね。
昔も今も読解力、察する力というのは重要なようです。

というわけで、さらにさらに。清少納言リテラシー自慢です。
こんなこと同僚が言ってたんだけど、うまいこと詠んだわ私。という段でした。なんだそれ。

しかもネタにして拡散されてるし~。私がその同僚なら、コイツに言うんじゃなかった!!と思うかも。むしろ、「お前こそ空気読め」と思いました。


【原文】

 ある女房の、遠江の子なる人を語らひてあるが、同じ宮人をなむ忍びて語らふと聞きて、うらみければ、「『親などもかけて誓はせ給へ。いみじきそらごとなり。ゆめにだに見ず』となむいふは、いかがいふべき」と言ひしに、

  誓へ君遠江の神かけてむげに浜名の橋見ざりきや

 

 

男は、女親亡くなりて

 男は、女親が亡くなって父親一人になって、父親はその男(息子)のことをすごく思いやってるんだけど、気難しい後妻を迎えたその後からは、部屋の中にも入れさせず、着物なんかは、乳母とか、亡くなった先妻の付き人たちとかに言ってお世話をさせてるの。
 (男は)西や東の対のあたりに風情ある感じに作ってる客間なんかで、屏風や障子の絵も見事な部屋に住んでるのね。殿上に勤めてるんだけど、そつなくやってるって人々も思ってて、帝もお気に入りでいつもお召しになって、管弦のお遊びの相手だと思っていらっしゃるんだけど、やっぱりいつも何となく憂鬱で、世の中が自分に合わない気がして、色恋を好む気持ちへと並外れて向かってるようなの。
 上達部で比類無いくらい大切にされてる妹が一人いるんだけど、男はその人にだけは思っていることを話して心の慰めにしてるのよ。


----------訳者の戯言---------

対(たい)。寝殿造において主人の起居する寝殿に対して東、西、北などに造った別棟の建物のことを「対の屋(たいのや)」と言うそうです。ここにはたいてい妻や子女が住むそうですね。


さて、ここに登場した女親が亡くなった「男」というのは、皇后定子様亡き後の敦康(あつやす)親王ではないかと言われているようです。
しかし定子亡き後、藤原道長が権力を振るう世になって、敦康親王や定子のことをあからさまに書くわけにはいかない状況。ましてや彰子をdisるようなことは書けないでしょう。そのため主人公を「男」とし、一条天皇のことを「男親」とした。つまりフィクションのように書いています。

敦康親王には1歳違いの媄子(びし)内親王という妹がいましたが、9歳の時に亡くなりました。したがってここで出てきた「妹」というのはその妹の内親王ではないようです。また、2歳年上の姉・脩子(しゅうし)内親王という人もいましたが、この人は終生未婚だったようですね。位も皇后に準じるほどの位階だったようですから、この姉も違うと考えられます。もちろんいずれもノンフィクションなら、という話ですが。ちなみに、当時は年上の女きょうだいも「いもうと」と言いました。

敦康親王は、15歳の時に中務宮(なかつかさのみや)具平(ともひら)親王の娘を妻としています。その妻の実姉は隆姫女王と言い、権大納言藤原頼通の妻となった人でした。従って上達部(藤原頼通)の義理の妹を娶ったのは事実で、妻(妹)にだけは本音を語り心の慰めにしていた、ということなら辻褄が合わないでもありません。しかし、そうだとしてもこれまた無理やりこじつけたかのようには思えます。

実際には、一条帝は敦康親王を疎んだわけでもなく、むしろ愛しんだそうです。また、道長の娘、中宮・彰子も、自身の子どもがまだいなかったため幼い親王を愛情こめて育てたということです。


すべてはすでに清少納言が宮中より退いた後のことです。
ここはシンプルに、父から疎外され傷ついた若き男性が、その欲求不満を、恋愛・性愛によって紛らわしたのだ。そしてその男はただ一人の妹にだけ本心を打ち明け慰められているのだ。と、伝聞と想像に基づき、フィクションにして描いたもの、と考えたほうが良いように思いました。
しかしやはり清少納言の心のどこかに彰子や一条帝を恨むような気持ちがあったのは否めないと思います。


【原文】

 男は 女親(めおや)亡くなりて、男親(をおや)の一人ある、いみじう思へど、心わづらはしき北の方出で来て後は、内にも入れ立てず、装束などは、乳母、また故上の御人どもなどしてせさせす。

 西東の対のほどに、まらうど居など、をかし。屏風・障子の絵も見所ありて住まひたる。

 殿上のまじらひのほど、口惜しからず人々も思ひ、上も御けしきよくて、常に召して、御遊びなどのかたきにおぼしめしたるに、なほ常にもの嘆かしく、世の中心に合はぬ心地して、好き好きしき心ぞ、かたはなるまであべき。

 上達部のまたなきさまにてもかしづかれたる妹(いもうと)一人あるばかりにぞ、思ふことうち語らひ、なぐさめ所なりける。

 

 

僧都の御乳母のままなど

 僧都の君の乳母なんかが御匣殿(みくしげどの)の御局に座ってたら、ある男性スタッフが縁側の板敷の近くに寄って来て、「ひどい目にあいまして、どなたにこの辛さを申し上げたらよいでしょうか?」って言って泣きそうな様子だから、「どうしたの?」って尋ねたら、「ほんのちょっと出かけてた間に、私の住んでる所が火事で焼けてしまいまったもので、やどかりのように人の家に尻を差し入れて暮らすしかございません。馬寮(うまづかさ)の秣(まぐさ)を積んでた家から火が出て延焼したのでございます。ただ私の家は垣根を隔ててるだけでしたから、寝室に寝ておりました妻も、危うく焼け死ぬところでして。少しも家財を運び出せなかったんです…」なんて言ってるのを御匣殿もお聞きになってすごくお笑いになるの。

みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど残らざるらむ
(御秣を燃やす程度の火でなぜ夜殿が残らずすっかりやけたのだろうか=草を萌え出させる程度の春の陽なのにどうして淀野が残らず焼けたのでしょう??)

って私が書いて、「これを渡してやってください」って言って投げたら、みんな笑い騒いで、「ここにいらっしゃるお方が、あなたの家が焼けたから、気の毒がってくださったのよ」って取らせたら、手紙を広げて見て、「これは何の短冊なのでしょう? 物はどのくらいいただけますか?」って言うから、「とにかく読みなさい」って言ったの。「どうして読めるのでしょう? 片目も開かない(書いてある字が読めない)のですから…」って言うもんだから、女房たちは、「人にでも見せなさい。とにかくすぐに!って定子さまがお呼びだから急いで御前に参上するのね。そんなに素晴らしいものを手に入れたのに、どうして悩んでるのかしら??」って言ってみんなで笑い騒いで参上したら、「あの歌を人に見せたのかしら? 家に返ってからどんなに怒るでしょうね」とかって、御前に参上して(僧都の君の)乳母が申し上げると、またみんな笑って騒ぐのね。定子さまも「どうしてそんなに大騒ぎしてるのよ!?」ってお笑いになるの。


----------訳者の戯言---------

僧都の君」というのは藤原道隆の四男、つまり、伊周や定子、隆家らの弟にあたる人です。出家していて法名を隆円と言いました。


御匣殿(みくしげどの)。ここでは定子の幼い妹(道隆の四女)を指しています。

藤原道隆の長女が定子。二番目の娘が原子で後に三条天皇東宮時代(居貞親王)の后になった人=淑景舎(しげいしゃ)とも呼ばれました。三女の頼子は後に敦道親王の后になった人。四女がこの御匣殿(本名不詳)です。

この時代は中務省の内蔵寮(くらりょう)という役所で朝廷の金銀、財宝や衣服なんかを倉庫に収納したり管理したそうですが、そこが調進する以外に、天皇の衣服などの裁縫をする所があって、これを「御匣殿」と言い、この御匣殿の女官の長(別当)のことも御匣殿と呼ばれていました。この時四女はまだ子どもで、生年不詳ではありますが、大きくても11歳or12歳、もう少し幼かった可能性もあります。
しかしそれで御匣殿の別当なんですから、権力者の子弟がいかに出世が早かったかということは言えると思います。

この御匣殿別当が後に女御(にょうご)や東宮妃などになることもあったのだそうです。
定子の妹の御匣殿は定子が若くして亡くなった後、3人の遺児(甥や姪たち)の母代りとなったそうです。皇子女たちの世話をしているうちに、皇后定子を失った一条天皇の心を捉え、やがて寵を受け懐妊したといいますが、身重の時に亡くなったのだそうです。


「がうな(ごうな)」というのは蟹であって「擁劔」(かざめ)を表したものであるか、「寄居虫」「寄居子」と書くケースもあったようです。「ガザミ=ワタリガニ」という蟹がいますから、「擁劔(かざめ)」はそれだったのでしょう。一方、「寄居虫」はヤドカリであって、「かみな」「かむな」「かうな」とも読んだようです。
即ち、「がうな」だろうが「かみな」だろうが「寄居虫」だろうが「寄居子」だろうが、ここに出てくるものは「ヤドカリ」なのであって、堅いこと言ってはダメということだと思います。ホンマか?


馬寮(うまづかさ/うまのつかさ/めりょう/まりょう)というのは官馬の調教とか飼育、馬具の調整などを司った役所です。
秣(まぐさ)とは馬や牛の飼料とする草。干し草でしょうか。


童べ(わらべ)というのは、一般には子どものことなんですが、「まだまだ子供の妻」という意味で「妻をへりくだって言う」場合にも使われたようです。今で言うと愚妻というイメージですね。今の時代にそんな言葉使うセンスはどうかとは思いますが。


原文に最後の定子の言葉に「もの狂ほしからむ」とありましたが、「狂おしい気持ちだ。気持ちが高ぶる。ばかげている。」といった意味になります。
心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
と「徒然草」の冒頭に書いたのは、兼好法師ですね。


まじか。
家が火事になった男を笑いまくる女房たち。僧都の君(隆円)の乳母も御匣殿もです。この男性が文盲なのも笑い話にしてるし。
御匣殿はお子ちゃまだからしかたないとしても、大人たちが人の不幸をこれだけ笑うとは感心しませんな。それどころか、清少納言はこれをネタに一首詠んで、タイムリーにええ感じで詠めましたわと自慢する始末。

人、特に身分の低い人の不幸を面白がりすぎ。
平安時代、人に対する思いやりとか敬意ってどうなってるの?という段です。


【原文】

 僧都の御乳母のままなど、御匣殿の御局にゐたれば、男(をのこ)のある、板敷のもと近う寄り来て、「からい目を見候ひて、誰にかは憂(うれ)へ申し侍らむ」とて、泣きぬばかりのけしきにて、「何事ぞ」と問へば、「あからさまにものにまかりたりしほどに、侍る所の焼け侍りにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみ候ふ。馬づかさの御秣積みて侍りける家より出でまうで来て侍るなり。ただ垣を隔てて侍れば、夜殿に寝て侍りける童べも、ほとほと焼けぬべくてなむ。いささかものもとで侍らず」など言ひをるを、御匣殿も聞き給ひて、いみじう笑ひ給ふ。

  みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど残らざるらむ

と書きて、「これを取らせ給へ」とて投げやりたれば、笑ひののしりて、「このおはする人の、家焼けたなりとて、いとほしがりて賜ふなり」とて、取らせたれば、ひろげてうち見て、「これは、なにの御短冊にか侍らむ。物いくらばかりにか」といへば、「ただ読めかし」といふ。「いかでか、片目もあきつかうまつらでは」といへば、「人にも見せよ。ただ今召せば、とみにて上へ参るぞ。さばかりめでたき物を得ては、何をか思ふ」とて、みな笑ひまどひ、のぼりぬれば、「人にや見せつらむ。里に行きていかに腹立たむ」など、御前に参りてままの啓すれば、また笑ひ騒ぐ。御前にも、「など、かくもの狂ほしからむ」と笑はせ給ふ。

 

 

大納言殿参り給ひて② ~上もうちおどろかせ給ひて~

 帝もお目覚めになって、「どうしてこんなところに鶏が!」なんてお尋ねになると、大納言殿の「声、明王の眠りを驚かす」っていう詩を高らかにお詠いになるのが、素晴らしくいかしてるものだから、凡人の(私の)眠たかった目もすごく大きく見開いちゃったの。「すごく今ぴったりの詩だよ!」って帝も定子さまもおもしろがられるのね。やっぱりこういうことって、素晴らしいものよ。
 その翌日の夜は、定子さまは夜の御殿に参上なさったの。夜中になって、私、廊下に出て人を呼んだら、「部屋に帰るのか? では、送って行こうかな」っておっしゃるから、裳や唐衣は屏風に掛けて出て行くと、月がすごく明るくて大納言殿の直衣がとても白く見えるのに、指貫を長く踏みつけて、私の袖を引っぱって「転ぶな」って言って連れてかれる途中、「遊子なほ残りの月に行く」と吟誦なさってるの、またすごく素晴らしいわ。
 「これくらいのことでお褒めになる」ってお笑いになるんだけど、いやいやどうして、やっぱいかしてるワケだから!そうせずにはいられないの!


----------訳者の戯言---------

伊周が詠ったのは「声、明王の眠りを驚かす」という一節のある漢詩です。都良香(みやこのよしか)の作で和漢朗詠集にあるようですね。

鶏人頑唱 声驚明王
鳧鐘夜臨 響徹暗天聴

書き下すとこう↓なります。

鶏人(けいじん)暁に唱ふ 声明王(めいおう)の眠りを驚かす
鳧鐘(ふしょう)夜鳴る 響暗天(あんてん)の聴きに徹る

意味は、
夜明け方に、鶏冠(とさか)をかぶった官人が暁の時刻を奏し、その声が聡明な王の眠りを覚ますのだ。
時刻を知らせる鐘が夜には鳴り、その響きが暗い夜空を伝い人々の耳に達して聴こえる。
という感じになります。


そしてもう一つ。「遊子なほ残りの月に行く」です。

佳人尽飾於晨粧 魏宮鐘動
遊子猶行於残月 函谷鶏鳴

佳人(かじん)尽(ことごと)く晨粧(しんしょう)を飾りて
魏宮(ぎきゅう)に鐘動(うご)く
遊子(ゆうし)なほ残りの月に行きて
函谷(かんこく)に鶏鳴く

意味としては、
離宮に暁の鐘がなると、美しい人はみんな朝の化粧をする。
函谷関に夜明けを告げる鶏は鳴くが、旅人は残る月の下やはり歩き続ける。
となります。

有名な漢詩のようで、以前「大路近なる所にて聞けば」の段でも出てきました。


シチュエーションに合わせた漢詩をいきなり詠うというのが、伊周の得意技だったようですね。しかし、やたら歌い出すのもなんだかなーとは思います。ミュージカルやないねんから。
とはいえ、相当の知識、造詣があるからできることなのでしょうし、だからこそ帝に教授できるほどなのでしょうしね。

定子さまのお兄さまったら素敵!と臆面なく褒める清少納言。しかし、花山上皇襲撃事件、長徳の変をやらかした人ですからね。そんなに頭が良いわけではありません。


長徳の変というのは、藤原伊周と弟の隆家がやらかしたところから始まる政変です。まじで。花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)とも言われます。
藤原伊周と隆家。ヤンチャです。武闘派というか、自分の彼女を花山法皇一条天皇の先代)に寝取られたと誤解して襲撃したらしい。もちろん本人たちは否定したらしいし、花山院も出家していた身で彼女がいたことを世間に露見させるわけにいかないから言い出せなかった。しかし事実ですから、噂にもなります。で、これを政争の具にされたわけです。道長が利用したんですね。

そもそも、伊周も悪いんです。上皇に弓引いてはダメでしょう。自業自得。脇が甘いのです。

定子の父というのは摂政関白内大臣藤原道隆という人で、つまり天皇に次ぐ権力者ですね。この父が病気で亡くなった後、後を継ぐかと思われていたのが息子、つまり定子の兄の藤原伊周だったんです。が、父・道隆の弟、つまり伊周の叔父・藤原道長と主導権争いをすることになってしまい、そこでまんまと自らハマったのが「長徳の変」ということになるでしょうか。

清少納言、大納言殿(伊周)のいかした「返し」を絶賛の段です。
ラヴィットにおける川島のツッコミみたいなものでしょう。


【原文】

 上も、うちおどろかせ給ひて、「いかでありつる鶏(とり)ぞ」など尋ねさせ給ふに、大納言殿の「声、明王の眠りを驚かす」といふことを高ううち出だし給へる、めでたうをかしきに、ただ人のねぶたかりつる目もいと大きになりぬ。「いみじき折のことかな」と、上も宮も興ぜさせ給ふ。なほ、かかる事こそめでたけれ。

 またの夜は、夜の御殿に参らせ給ひぬ。夜中ばかりに、廊に出でて人呼べば、「下るるか。いで、送らむ」とのたまへば、裳・唐衣は屏風にうちかけて行くに、月のいみじう明かく、御直衣のいと白う見ゆるに、指貫を長う踏みしだきて、袖をひかへて、「倒るな」といひて、おはするままに、「遊子なほ残りの月に行く」と誦し給へる、またいみじうめでたし。

 「かやうの事、めで給ふ」とては、笑ひ給へど、いかでか、なほをかしきものをば。

 

 

大納言殿参り給ひて①

 大納言(伊周)殿が参上なさって、帝に漢詩文のことなんかを申し上げられてたら、例によって夜がかなり更けちゃったから、御前にいた女房たちは一人か二人ずつ姿を消してって、屏風や御几帳の後ろなんかにみんな隠れて寝てしまったもんだから、私はただ一人眠たいのを我慢して控えてたら「丑四つ」って時刻を奏したの。「夜も明けたようですわ」って独り言を言ったら、大納言殿が「いまさらお休みなさいますな」って、私が寝るとは思ってもないんだけど、やだ!何でそんなこと申し上げたんだろう??って思うけど。他に人がいたら紛れて寝ることもできるんだけどね…。
 帝が柱に寄りかかって少しお眠りになっていらっしゃるのを、(大納言殿が)「あれをご覧ください。もう夜は明けたのに、こんなにお眠りになっていいのでしょうかね?」って定子さまに申し上げると、「ほんとに」なんてお笑いになるんだけど帝は気づかれるご様子もなくってね、長女(おさめ)の使っている童が鶏を捕まえて持って来て、「明日の朝、里へ持って行こう」って言って隠しておいたの、どうしちゃったんでしょ??犬が見つけて追いかけたら、廊の間木(まぎ)に逃げ込んで恐ろしい声で鳴き騒ぐから、みんな起きちゃったようだわ。


----------訳者の戯言---------

丑四つ。時奏=時を奏すると言って時報を人がやっていました。
詳しくは「時奏する、いみじうをかし」に書いていますので、お読みいただけるとおわかりいただけるはずですが、ごぞんじのとおり、かつて時刻は十二支で表しました。これを「十二時辰」と言います。子丑寅…っていうやつですね。それぞれ2時間なんですが、その真ん中時刻(正刻)の前1時間、後1時間を合わせて〇〇の刻としました。それをさらに四つに分け、30分ごとに一つ(一刻)、二つ(二刻)、三つ(三刻)、四つ(四刻)としたわけですね。
丑の刻の中心時刻は今で言うところの午前2時ですから、1:00~1:30は丑一つ、1:30~2:00が丑二つとなります。
怪談などでよく「草木も眠る丑三つ時」などと言いますが、2:00~2:30頃なんですね。
というわけで、丑四つは2:30~3:00です。

長女(おさめ)は雑用などにあたった下級の女官です。さらにそのスタッフとして子どもを雇っていたのでしょう。


廊の間木(まぎ/まき)。長押(なげし)の上に作った棚です。

では長押とは何ぞや? 一般的なのはここにも出てきた長押のこと。引き戸の上の部分、鴨居の上です。
柱に垂直(つまり水平)に渡した構造材、というのが一般的な意味合いとなります。鴨居っていうのは、引き戸の上のレールのことです。敷居が下のレールです。
つまり長押っていうのは、柱同士を水平方向につないで外側から打ち付けられてる構造材全般を言いますから、上部にも下部にもあります。地面に沿うようなのもあるようです。長押のところに座る、というような文章を見ることもありますね。

廊は「ろう」とか「わたどの」と読みます。寝殿造りでは、建物と建物とをつなぐ屋根のついた通路を指します。渡殿(わたどの)と表現でしますね。時々出てくる細殿(ほそどの)も同義です。


なかなかの夜ふかしです。1時、2時、3時となると一人ずつ抜けていくのもわからなくありません。
しかし大納言の伊周はなかなか元気です。こういうキャラの人が一番困るんですよね、現代のリアル生活でも。お付き合いをしたくないタイプですね。

ニワトリを隠してた子もどうかと思います。しかし犬に罪はありません。
犬と言えば「うへに候ふ御猫は①」に登場した翁丸ですね。ここで出てきた犬も翁丸かもしれません。「うへに候ふ御猫は」では「いみじうゆるぎありきつる物を(すごくゆったりと歩いてたのに)」とありますから、小型犬とかではなく、秋田県とかの比較的大型犬だったのではないかと思われます。

というわけで、②に続きます。

【原文】

 大納言殿参り給ひて、ふみのことなど奏し給ふに、例の、夜いたくふけぬれば、御前なる人々、一人二人づつ失せて、御屏風、御几帳の後ろなどに、みな隠れ臥しぬれば、ただ一人、ねぶたきを念じて候ふに、「丑四つ」と奏すなり。「明け侍りぬなり」と一人ごつを、大納言殿「いまさらに、な大殿ごもりおはしましそ」とて、寝(ぬ)べきものとも思(おぼ)いたらぬを、うたて、何しにさ申しつらむと思へど、また人のあらばこそは、まぎれも臥さめ。上の御前の、柱に寄りかからせ給ひて、少し眠らせ給ふを、「かれ、見奉らせ給へ。今は明けぬるに、かう大殿籠るべきかは」と申させ給へば、「げに」など、宮の御前にも笑ひ聞こえさせ給ふも、知らせ給はぬほどに、長女(をさめ)が童の、鶏(にはとり)を捕らへ持て来て、「あしたに里へ持て行かむ」といひて隠し置きたりける、いかがしけむ、犬見つけて追ひければ、廊のまきに逃げ入りて、おそろしう鳴きののしるに、みな人起きなどしぬなり。

 

 

左右の衛門の尉を

 左右の衛門の尉(じょう)を、判官(ほうがん)って名づけて、すごく恐ろしくて、でも立派な者だって思ってるの! 夜の見回りをして細殿とかの女房の部屋に入って寝てるのは、ほんと見苦しいわ。布の白袴を几帳に掛けて、袍(うへのきぬ)の長くていっぱいいっぱいになってるのを丸めて掛けてるのは、全然そこにふさわしくないの。衣を太刀の後ろに引っ掛けたりして、局をうろうろしてるのは、それでもまあいいわ。青い衣をいつも着てたら、どんなに素敵かしら! 「見し有明ぞ(見た有明の月が…!)」っていうのは誰が詠んだ歌だったでしょう??


----------訳者の戯言---------

左右の衛門府の尉(じょう)ですから、三等官です。判官というのはそもそも「じょう」なのですが、このあたりの時代から「ほうがん」または「はんがん」と呼ぶようになったようです。

判官贔屓(ほうがんびいき/はんがんびいき)という言葉がありますが、あれは源義経、源九郎判官義経なんて言われ方をしたりもしますが、あの義経が左衛門の尉つまり判官だったからなんですね。概ね個人に対して「ほうがん」と呼ぶのは九郎判官(ほうがん)義経を言う場合が多いようです。
当時は衛門少尉が宣旨によって検非違使の少尉を兼務したのですね。

判官贔屓というのは、ご存じのとおり、不遇であったものに対しての、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであります。あれだけの功勲があったのに疎まれ追われて成敗されてしまう。義経の場合は後白河法皇から宣旨を受けて左衛門尉=検非違使の尉になるわけですが、これによって頼朝の怒りを買ったわけで。判官にならなければ判官贔屓という語も生まれなかったわけで。皮肉なものです。
コミックかアニメかというような荒唐無稽でドラマチックすぎる人生を送った人で、人気も高かったからこそこのような言葉として残ってるんですね。


原文に「わがねかけたる」とありますが、これは「わがぬ」という動詞の連用形が使われています。「綰ぬ」と書き、「輪のように丸める。 丸くたわめ曲げる。」という意味になります。


蔵人は青色の袍を着てたらしいですね。そのため、蔵人のことを「青色」と呼ぶこともありました。この「青色」というのは実はブルー系ではなく、「麹塵(きくじん/きじん)」と言われる色で、カーキ色というか、濁った緑という感じの色だったようです。蔵人(特に六位の蔵人)は前途有望な職でもありましたから、いかしてる色だったのかもしれません。
ちなみに当時は「青」というと白と黒の間の広い範囲の色で、主として青・緑・藍をさしていたらしいです。

清少納言は蔵人をかなり買ってるようで「青色」大好きみたいです。しかしここで出てくるのは衛門府の尉(判官)です。本来、青い着物を着てるはずがないのに、着てたらいい。というのは、フリをしとけってことでしょ。そのほうが見苦しいと思うんですが。衛門府の尉に何を求めてるんだろう?って話です。


「見し有明ぞ」って詠んだのは誰だったかしら?っていうんですが、この元の歌についてはわかりませんでした。
意味は、「あなたと一緒に見た有明の月が…忘れられません!」という感じでしょうかね。そういうことが衛門少尉との間であった女房が詠んだか、当の少尉が詠んだのか…。


というわけで、衛門府の尉(判官)が夜の勤務時間中に女房の部屋を訪れて~~してるという話です。でもそもそも衛門の尉ですからね、警察・治安組織の幹部ですよ。左右あるのでだいたいナンバー5~8ぐらいのポジションでしょうか。現在の警察庁で考えると局長クラス、刑事局長とか警備局長とかそれぐらいの感じのお偉いさんです。それが…そういうことでいいのか??
清少納言も別にそのこと自体を云々してるわけでなく、衛門府の尉ごときがよー。ぐらいの感じで書いてます。衣服の掛け方どうだとか、やるなら蔵人の青い衣着て来いとか、的外れなこと言ってますね。問題はそこじゃないでしょ。公務員のモラルも何もあったもんじゃないですね。


【原文】

 左右(さう)の衛門の尉(ぞう)を判官(はうぐわん)といふ名つけて、いみじうおそろしう、かしこき者に思ひたるこそ。夜行し、細殿などに入り臥したる、いと見苦しかし。布の白袴、几帳にうちかけ、袍(うへのきぬ)の長くところせきを、わがねかけたる、いとつきなし。太刀の後(しり)に引きかけなどして立ちさまよふは、されどよし。青色をただ常に着たらば、いかにをかしからむ。「見し有明ぞ」と誰言ひけむ。