枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

関白殿、二月二十一日に⑳ ~参りたれば、はじめ下りける人~

 参上したところ、初めに降りた女房がよく物が見えるだろう端っこに8人ほど座ってたわ。定子さまは一尺(約30cm)あまり、二尺ほどの長押の上にいらっしゃるの。「こちらに私が立ち隠して連れて参りました」って大納言殿が申し上げなさると、「どこに??」って御几帳のこちら側にお出ましになったのね。まだ裳と唐衣をお召しになったままでいらっしゃるの、素晴らしいわ。紅の衣が良くないわけがないじゃない。中に唐綾(からあや)の柳襲の袿、葡萄染(えびぞめ)の五重襲(いつへがさね)の織物に、赤色の唐衣、地摺(じずり)の唐の薄絹に象眼を重ねてある御裳なんかをお召しになって、そのお召し物の色なんかは、全然普通のものとは比べものにならないの。

 「私のこと、どんな風に見えるかしら?」って定子さまがおっしゃって。私は「すごく素敵でいらっしゃいます」なんて、言葉にするとごくごく普通になっちゃう。「長く待ったでしょう? それはね、大夫(藤原道長)が、女院のお供の時に着てみんなに見られたのと同じ下襲(したがさね)のままでいたら人がみっともないって思うかも??って言うもんだから、違う下襲を縫わせていらっしゃって、それで遅くなったのよ。彼、すごくおしゃれなのよね」ってお笑いになるの。すごく明るくて、晴れがましいこういうところでは、いつもよりもう少し際立って素晴らしいのよ。額の髪を上げてる御釵子(さいし)で、分け目の御髪(みぐし)が少し片寄ってくっきり見えてるご様子までも、申し上げようもないくらい素敵だわ。


----------訳者の戯言---------

なんか、中宮さまが着てる物とかをいろいろ描写してますが、いるんですかね、これ。例によって書き連ねている清少納言のファッションチェックがいちいちめんどくさい感じです。
現代風に例えると…ピュアピンクのストールが素敵。ブラウスはイエナのリバティ柄。サンドベージュを基調にしたダブルフェイスのカットソー、バーガンディのテーラードジャケットと、オープンワークのストールが…みたいな書き様ですからね。うんざりします。誰が興味あるねん!っていう感じはしますね。

地摺というのは、生地(きじ)に摺文様を施した布帛のこと。一種のプリント生地と言ってもいいでしょうか。

大夫(だいぶ)というのは、ここでは、中宮職の大夫(長官)であった藤原道長のことを指すようですね。

釵子(さいし)。平安時代、女房のハレの装束で、 髪上げの際に使用したかんざしです。お雛様の頭にも付いてるやつですが、三本ぐらいツノみたいなのが出てる丸い金属板があってそれを「平額」と言い、それに挿して髪に留めたものが釵子のようですね。ヘアピン的な役割をするもののようです。


中宮定子の御前に参上した清少納言。そのお姿にうっとりし過ぎてますが。
㉑に続きます。


【原文】

 参りたれば、はじめ下りける人、物見えぬべき端に八人ばかりゐにけり。一尺余、二尺ばかりの長押の上におはします。「ここに立ち隠して率て参りたり」と申し給へば、「いづら」とて、御几帳のこなたに出でさせ給へり。まだ御裳、唐の御衣奉りながらおはしますぞいみじき。紅の御衣どもよろしからむやは。中に唐綾の柳の御衣、葡萄染の五重がさねの織物に赤色の唐の御衣、地摺の唐の薄物に、象眼重ねたる御裳など奉りて、ものの色などは、さらになべてのに似るべきやうもなし。

 「我をばいかが見る」と仰せらる。「いみじうなむ候ひつる」なども、言(こと)に出でては世の常にのみこそ。「久しうやありつる。それは大夫(だいぶ)の、院の御供に着て人に見えぬる、同じ下襲ながらあらば、人わろしと思ひなむとて、こと下襲縫はせ給ひけるほどに、おそきなりけり。いと好き給へり」とて笑はせ給ふ。いとあきらかに、晴れたる所は今少しぞけざやかにめでたき。御額あげさせ給へりける御釵子(さいし)に、分け目の御髪のいささか寄りてしるく見えさせ給ふさへぞ、聞こえむ方なき。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑲ ~おはしまし着きたれば~

 ご到着なさったら、大門のところで高麗楽(こまがく)、唐楽(とうがく)を演奏して、獅子や狛犬が踊り舞い、乱声(らんじょう)の音、鼓の音に、もうどうしたらいいかわからなくなるの。これは生きたまま仏の国にきたんじゃないかしら??って、音は空に響き上がるみたいに思えるわ。

 お寺の中に入ったら、色々な錦の幄(あげばり)に、御簾をすごく青々と掛け渡して屏幔(へいまん)なんかを張り渡してるとか、全部まったくこの世のものとは思えないの。
 定子さまがいらっしゃる桟敷に車を寄せたら、またご兄弟(伊周&隆家)がお立ちになって、「早く降りなさい」っておっしゃるの。乗った所でさえそうだったのに、もはや少し明るくってあからさまだから、整えてた髪も唐衣の中でぼさぼさになって変になってるでしょうね。髪の黒さや赤さまではっきり見分けられるくらいになってるのがすごく困りもので、すぐには降りられないわ。「まず後ろの人から…」なんて言うと、その人も同じ気持ちなのか、「行ってください。もったいないです」なんて言うのね。
 「恥ずかしがっていらっしゃる」って大納言殿(伊周)がお笑いになって、その女房が何とかして降りると、こちらに近寄っていらっしゃって、「『むねたかなんかに見せないで、隠して降ろしなさい』って中宮さまが仰るからこうして来たんだけど、察しが悪いよ」って、私を引き降ろして、定子さまのところに連れて参上なさったの。そんなふうに定子さまがお話しになったんだろうかなって思ったら、すごく畏れ多いわ。


----------訳者の戯言---------

高麗楽(こまがく)というのは、朝鮮から伝来した合奏音楽で、中国から伝来した唐楽に対するものであったようです。「狛楽」とも言ったらしいですね。唐楽(とうがく)は文字どおり唐から来たもので、一般的に雅楽というとこの唐楽のイメージのものなのだそうです。違いは私にはよくわかりません。よく聴いてる人はわかるのでしょうね。清少納言も区別はできたのでしょう。

乱声(らんじょう)の音というのは、雅楽舞楽で用いられる笛の調べの名だそうです。行幸の出御や入御、相撲や競馬などのイベント、集会等々の時に演奏されたものらしいですから、この時にもそういうのがあったんでしょうね。舞人の登場のときなどに太鼓、鉦鼓と合奏するという解説をしているものもありましたから、「鼓の声にも」と続くことから考えると、そいういう賑々しい演奏がされていたと推察できます。

幄(あげばり)。四方に柱を立てて作った屋形にかぶせ、四方を囲う幕、またはそれで作った小屋というか、見た感じ、テントみたいなやつですね。運動会の時とかに校長とかPTAの役員とか、養護教諭とかがいるあのテントみたいな。当時は神事、仏事、朝廷の儀式とかの時に、参列者を入れるため、臨時に庭につくったみたいです。そのテントの布部分が色とりどりの錦だったというんですね

屏幔(へいまん)というのは衝立風の幕。幔幕とも言われるもので、ま、平たく言うと飾りとか目隠しのために張ってる横に長ーい幕です。

「むねたか」について調べたところ、藤原棟世(ふじわらのむねよ)のことではないか?という説がありました。
中宮定子が「むねたか」なる人物に清少納言が見つからないよう気遣っていたということですね。これ、清少納言が宮仕えのため別居中であった棟世の名前をぼかしたものではないかと。確定的な説ではないですが。この供養があった時々登場する前夫の橘則光とはもう別れているはずですから、それもあるのかもしれません。


というわけで、「むねたか」なる者に見つからないように車から降ろして連れて来て!との妹(中宮だが)からの命により伊周が清少納言エスコートして、中宮の御前に連れて行ったという小自慢話??
さて、この後も小自慢が続くのでしょうか?
⑳に続きます。


【原文】

 おはしまし着きたれば、大門(だいもん)のもとに高麗(こま)、唐土(もろこし)の楽して、獅子・狛犬をどり舞ひ、乱声(らんじやう)の音、鼓の声にものもおぼえず。こは、生きての仏の国などに来にけるにやあらむと、空に響きあがるやうにおぼゆ。

 内に入りぬれば、色々の錦のあげばりに、御簾いと青くかけわたし、屏幔(へいまん)ども引きたるなど、すべてすべて、さらにこの世とおぼえず。御桟敷にさし寄せたれば、またこの殿ばら立ち給ひて、「とう下りよ」とのたまふ。乗りつる所だにありつるを、今少しあかう顕証なるに、つくろひ添へたりつる髪も、唐衣の中にてふくだみ、あやしうなりたらむ。色の黒さ赤ささへ見え分かれぬべきほどなるが、いとわびしければ、ふともえ下りず。「まづ、後(しり)なるこそは」などいふほどに、それも同じ心にや、「しぞかせ給へ。かたじけなし」などいふ。「恥ぢ給ふかな」と笑ひて、からうじて下りぬれば、寄りおはして、「『むねたかなどに見せで、隠しておろせ』と、宮の仰せらるれば、来たるに、思ひぐまなく」とて、引きおろして率て参り給ふ。さ、聞こえさせ給ひつらむと思ふも、いとかたじけなし。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑱ ~みな乗りつづきて立てるに~

 采女がみんな続々と馬に乗って立ってたら、今やっとのことで定子さまの御輿が出ていかれるの。すばらしい!って拝見したご様子は、これはもう!どうにも比べようがないくらいのものだわ!

 朝日が華々しく昇ってきた頃、水葱(なぎ)の花飾りがすごく際立って輝いて、御輿の帷子(かたびら)の色つやの美しさまでがめちゃくちゃ素晴らしくって。御綱(みつな)を張って出ていかれるの。御輿の帷子がゆらゆら揺れた時、ほんと「髪の毛が逆立つ」なんて人が言うのも全然嘘じゃないわ。その後はヘアスタイルがイケてない女房もそのせいにするでしょうね。めちゃくちゃ美しくって、やはり、どうしてだか私なんかがこれほどの中宮さまにお仕えしてるのかしら?って、自分までが立派になった気がして。御輿が通り過ぎて行く時、牛車の轅(ながえ)を榻(しじ)から一斉に外して下ろしたのをまた牛に大急ぎで掛けて、御輿の後に続いて行く気持ちって、すばらしく楽しい感じで、言い表しようがないくらいなの。


----------訳者の戯言---------

水葱(なぎ)というのは、水葵(みずあおい)の古名となっています。菜葱(なぎ)とも書きます。
水葵は水田や沼などに自生する植物で、高さ約30cm、葉はハート形で柄が長く、9~10月頃青紫色で花びらが六つに分かれている花を咲かせます。昔は葉を食用にし、栽培もされたらしいですね。


「帷子(かたびら)」は今でいうところのカーテン的なもの。日よけであったり、目隠しであったり、です。
几帳(パーテーション)の帷子(カーテン)を言うような場合もあります。
衣類でも「「帷子」というものはあり、こちらを言う場合は、裏地の無い夏用の麻の衣を表します。一枚物の衣で汗とり用にも着たらしいから、今で言うとアンダーウェアですね。
帷子(かたびら)というのは元々は「片枚(かたびら)」と書いたそうですね。要はペラ物、ということが言いたいのでしょう。肌着であれカーテンであれ。

京都に「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」という地名があって、嵐電京福嵐山本線)の駅名にもあるんですが、元々は「帷子辻(かたびらがつじ)」で、これは着物のほうの帷子に由来するそうです。綺麗な地名だな、と思っていましたが、その起源には、尊いと言うか、ちょっと壮絶と言うか、そういう話があるそうなんですね。
橘嘉智子(たちばなのかちこ)という嵯峨天皇の皇后(別称:檀林皇后)だった人にまつわる逸話です。逸れますが、少し。

伝説によると、檀林皇后という人は絶世の美女だったらしいんです。恋慕する人が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちも心を動かされるほどであったと。本人的にはこうした状況をずっと憂いていたのだそうですね。
彼女自身は仏教に深く帰依していて、その教えに説かれるとおり「この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い」所謂「諸行無常」を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こそうと考えました。
彼女が死ぬ時、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に棄ててほしいと遺言しました。そして皇后の遺体は辻に遺棄され、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって無残な姿になり、白骨となって朽ち果てたそうです。
人々はその様子を見て世の無常を思い、僧たちも邪念を捨てて修行に打ち込んだんだそうですね。
その辻が今の「帷子ノ辻」なのだそうです。「帷子」は皇后の経帷子(死装束)に因んだ名ということなのですね。一説ではありますが。


原文に「かこちつべし」とあるんですが、「かこつ」という語。漢字では「託つ」と書き、「かこつける(託ける)」の「かこつ」なんですよね。託けるというのは、直接には関係しない他の事と無理に結びつけて、都合のいい口実にする、ということですね。「口実にする」
「不平を言う。ぐちをこぼす。嘆く。」という意味もあるそうです。

轅(ながえ)、榻(しじ)については、この段の少し前「関白殿、二月二十一日に⑮」をご覧ください。


ということで、ようやく定子の一行が出発したということです。
⑲に続きます。


【原文】

 みな乗りつづきて立てるに、今ぞ御輿出でさせ給ふ。めでたしと見奉りつる御ありさまには、これ、はた、くらぶべからざりけり。

 朝日のはなばなとさしあがるほどに、水葱(なぎ)の花いときはやかにかがやきて、御輿の帷子(かたびら)の色つやなどの清らささへぞいみじき。御綱張りて出でさせ給ふ。御輿の帷子のうちゆるぎたるほど、まことに、「頭(かしら)の毛」など人のいふ、さらにそらごとならず。さて、のちは髪あしからむ人もかこちつべし。あさましう、いつくしう、なほいかで、かかる御前に馴れ仕るらむと、わが身もかしこうぞおぼゆる。御輿過ぎさせ給ふほど、車の榻ども一たびにかきおろしたりつる、また牛どもにただ掛けに掛けて、御輿の後(しり)につづけたる心地、めでたく興あるさま、いふかたもなし。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑰ ~関白殿、その次々の殿ばら~

 関白・道隆さま、その次々の弟さま方々いらっしゃる全員で、女院のお車を大切にお守りしてお供していらっしゃるのはすごくすばらしいわ。このご一行をまず拝見して、ほめたたえて騒いじゃうの。こちらで牛車を20台立て並ばせてるのも、いい感じだな、ってあっちからは見てるんでしょうね。
 早く定子さまが出ていらっしゃったらいいのに…ってお待ち申し上げてるんだけど、すごく長く待ってるの。どうなってるのかしら?って不安になるんだけど、ようやく采女8人を馬に乗せて引いて出たのね。青裾濃(あおすそご)の裳、裙帯(くたい)、領布(ひれ)なんかが風に吹かれてなびいてるのが、すごくいかしてるの。「ふせ」っていう采女典薬寮の頭(長官)・(丹波)重雅が懇意にしている女性なのね。葡萄染め(えびぞめ)の織物の指貫をはいてたから、「重雅は禁色(きんじき)を許されたんだな」なんて言って、山の井の大納言がお笑いになるの。


----------訳者の戯言---------

「からうじて(からうして)」というのは現代も使われる「かろうじて」と同じような意味なんですが、調べてわかったのが漢字で書くと「辛うじて」なんですね。「ようやく」とか「やっとのことで」なんですが、字を見てなるほどなーと思いました。激辛担担麺とか激辛カレーとかを食べきった時の感じですね。違いますか。いや、あの感じでしょ? 蒙古タンメン中本のカップ麺の辛味オイルをすべて入れて食べきった時のあれ。あんな大変なことなのか? 否、あれほどではありません。

青裾濃(あおすそご)は青色で上のほうを薄く、裾のほうになるほど濃く染めたもの。グラデーションですね。ただ、先日も書いたように青色というのはおもに青、緑、藍ではあるんですが、それだけでも特定できないのに、黒と白との中間の範囲を示す広い色名であるわけで、イメージするのがめちゃくちゃ難しいんですよね。

裙帯(くたい)というのは、女子が朝廷に勤める際に裳の腰の上に締めて前側左右に長く垂らした幅の狭い飾り帯。だそうです。采女もこれを着けていたんですね。

領巾(ひれ)。両肩に後ろから掛けて前に垂らす一幅(ひとの)または二幅(ふたの)仕立ての布帛。めっちゃ長いマフラーを巻かずに地面に垂らしてる感じです。イタリアンマフィアの人がマフラーかストールかを掛けてるでしょ。あれの長い版みたいなもののようです。しかし、地面に引きずってますから、汚れるし歩くのにもかなり邪魔だとは思うんですがね。

調べて見ると、ここ(三巻本)では「ふせ」と書かれていますが、能因本では「豊前(ぶぜん)といふ采女」となっています。どちらが正しいのかははっきりとわかりません。「ふせ」は丹波重雅が懇意にしている女性だったようですね。

典薬と出てきましたが、正式には「典薬寮」という機関、というか役所ですね。宮内省に属して医療や調薬を担当する部署だそうです。皇室の医療ではなく、この部署は官人の医療、それと医療従事者の養成、薬園の管理なんかを主にしたらしいです。この段の頃は丹波重雅という人が頭(かみ=長官)をしていたようですね。丹波家というのはこの人の父親の功績により医家となった家系のようで、典薬頭(てんやくのかみ)も世襲的に継いでいったようです。

禁色(きんじき)というのは、朝廷で一定の地位や官位等の人以外には禁じられた服装のことなんですね。今なら立派なパワハラですが。特定の色のほか、生地の質なんか含めて決められてたらしいです。文様のある織物も含まれたり。逆に誰でも使用できる色のことを「ゆるし色」と言ったそうです。禁色が特定の人には許されたり、女房女官にはユルくされたりもしたようです。


「ふせ」さんという采女が馬に乗るために指貫をはいてたんですね。指貫は普通は男性のカジュアル系パンツなんですが、この日は女子だけどはいてたと。葡萄染は典薬寮の頭にとっては禁色だったんでしょうね。「織り」とあるのも綾などの文様のものだったのでしょう。采女にはこの禁色が許されたので「ふせ」ははいてたんでしょうけれど、それを山の井の大納言(藤原道頼)が笑いをとろうとネタにしたんですね。
愛人がいるのを見て「あれれ、典薬の頭は禁色を許されたんだな」って言ったわけです。例えて言えば、山の井取締役が丹波営業部長と社長秘書室のふせさんとデキちゃってるのを知ってて、みんなの見ている場所でふせさんを見て一言。みたいなシチュエーションですから。周りも知っていることとはいえ、いかにも子どもっぽい。「おうおう熱いの~」とか言うてる小学生レベルですよね。

山の井の大納言というのは藤原道頼という人で、伊周や定子の異母兄にあたります。道隆の長子です。年齢は伊周より3つぐらい上らしいですが、やはり道隆は貴子の実家・高階家、そして高階貴子とその実子を重用したようで、この道頼もこの家では傍系の子どもという扱いのようですね。ちなみに藤原道頼は容姿も性格もとても良い人だったそうです。
が、典薬頭丹波重雅のことを揶揄するような言い方はパワーハラスメント的でもあり、プライバシーの秘匿という原則からしてもアウトだと思います。大納言と言えば朝廷の要職です。それが配下の役所のトップとはいえ、部下の愛人をネタに軽口をたたいてウケ狙いというのはあまり品がありませんでしたね。
清少納言もあえてこれ書くべきかな?と思いますが。ちょっと厭らしいです。
⑱に続きます。


【原文】

 関白殿、その次々の殿ばら、おはする限り、もてかしづきわたし奉らせ給ふさま、いみじくぞめでたし。これをまづ見たてまつり、めで騒ぐ。この車どもの二十立て並べたるも、またをかしと見るらむかし。

 いつしか出でさせ給はなむと待ち聞こえさするに、いと久し。いかなるらむと心もとなく思ふに、からうじて采女八人、馬に乗せて引き出づ。青裾濃(すそご)の裳、裙帯(くたい)、領布(ひれ)などの風に吹きやられたる、いとをかし。「ふせ」といふ采女は、典薬の頭(かみ)重雅(しげまさ)が知る人なりけり。葡萄染の織物の指貫を着たれば、「重雅は色許されにけり」など、山の井の大納言笑ひ給ふ。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑯ ~まづ、院の御迎へに~

 まず女院のお迎えに関白殿をはじめとして殿上人、地下人なんかもみんな宮中に参上したのね。で、女院がいらっしゃった後に定子さまがいらっしゃるっていうことだから、すごく待ち遠しいなぁって思ってたら、日が高くなってからいらっしゃったのよ。一行のお車は15台で、そのうち4台は尼の車。1番目の女院のお車は唐車なの。それに続いて尼の車(4台)、車の後ろや前から水晶の数珠、薄墨色の裳、袈裟、衣なんかがすごく素晴らしくって、簾は上げないで、下簾も薄紫色の裾が少し濃いのね。次に女房の車10台は桜がさねの唐衣に薄紫色の裳、濃い紅の打衣、香染色や薄紫色の表着(うわぎ)が、すごく優雅だわ。日差しはとてもうららかだけど、空は青く霞みが広がってるところに女房の装束が美しく映えて、立派な織物やいろいろな色の唐衣なんかよりも、優美でおもしろいこと、この上ないの。


----------訳者の戯言---------

女院はもちろん東三条院、つまり関白・道隆の妹であり、円融天皇の后であった皇太后です。出家して女院となりました。一条天皇の母でもあります。なんかおばちゃんのように思えますが、この時まだ32、3歳です。円融天皇が早逝していますしね。まだまだ若いのです。


「殿上人(てんじょうびと)」というのは、清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された人(三位以上は原則全員、四位・五位の一部)の中から公卿を除いた四位以下の者を指します。なお、六位の蔵人も殿上人です。ややっこしいですが。
公卿というのは、太政大臣左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議(もしくは参議ではないけれど従三位以上)らの高官(総称して議政官)を指します。
上達部(かんだちめ)というのとごっちゃになりますが、上達部は太政大臣左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議、そして三位以上の人。
逆に「地下(じげ)」または「地下人(じげにん)」と呼ばれるのは、清涼殿殿上の間に昇殿する資格を認められていない、つまり「殿上人ではない」官人です。
「殿上人、地下人」のことをやまと言葉で「うえびと、しもびと」と言ったりもするんですね。


唐車というのは、牛車(ぎっしゃ)の一種だそうです。箱(乗り込む部分)を大きく、先日も出てきましたが唐破風造り(からはふづくり)で屋形をつくって唐廂(からびさし)を出したものになってるらしい。屋根を檳榔(びろう)の葉で葺き、廂、腰などにも檳榔の葉を垂らし、簾や下簾も美しく飾ってたらしいです。また、檳榔を染糸に代えることもあったりしたようで、最も華美な様式の車でした。当然の乗る人も、太上天皇、皇后、上皇法皇、皇太后東宮親王または摂関など。
檳榔(びろう)っていうのは、ヤシ科の樹木で、平安時代には松竹梅よりも神聖視された植物だったそうですよ。
ということなので、唐車は今で言うならロールスロイス・ファントムとかのリムジンみたいなものでしょうかね。
ちなみに今の皇室の御料車トヨタのセンチュリーの特別仕様車らしいですが。

で、ちょっと外れますが、檳榔毛(びろうげ)という車もあります。こちらは檳榔のビラビラで飾った、豪華仕様の大型車です。現代の高級車で言うなら、BMWの7シリーズとかベンツのSクラス、レクサスLS、普通仕様のセンチュリーぐらいでしょうかね。

中小型の普通車に例えられるのは、網代車(あじろぐるま)です。竹または檜の薄板を網代に組んで、屋形を覆ったもので、摂政・関白・大臣・納言・大将などが略式用、遠出用として使い、四・五位、中・少将、侍従などは常用とした車とされています。


「桜がさね(桜襲)」というのは、表地は白で、裏地が二藍(藍+紅、つまり紫系あるいはピンク系の色に染めた生地)の襲ね生地です。

「濃き衣」と出てきます。「濃き」と書かれているものは紫が多いんですが紅の場合もあるんですね。はっきり書けよ!!とは思いますが、「打衣(うちぎぬ)」の場合は普通に紅色または紅の濃色(こきいろ)で、基本的に紅染めの衣なんだそうです。

色の話が続きますが、「香染」は丁子(ちょうじ)で染めたもので、薄い茶色です。カフェラテの色ぐらいの感じでしょうか。当時もそうですが、今は丁子っていうのは主に香辛料として使われますね。英語ではクローブと言いまして、スーパーにも売ってます。肉料理やカレー、そしてチャイの香り付けなどにも使われています。

原文に「空は緑に霞みわたれるほどに」と「緑」という色が出てきますが、この時代の緑は現在の緑色から藍色までを含む広い範囲の色を言ったんですね。だから、緑の空は不自然なものや特殊なものではありません。「青」も白と黒の間の広い範囲の色で、主として青・緑・藍(あい)を指したといいますから、なんかわかったようなわからないようなモヤモヤした感じはありますね。
白馬(あおうま)の節会とかありますしね。しかし、あれは元々本当に青い(黒い)馬だったらしいです。それが途中から白馬とか葦毛(芦毛)の馬になったみたいですね。それで字と読みが微妙にズレてる、そんな感じになったようですね。関係ないですけど、芦毛と言えばオグリキャップですか。芦毛馬って歳を取って老馬になるともっと白くなっていくんですよね。


というわけで、関白殿とか殿上人とか地下とか大勢の人が女院をお迎えに行ったのです。で、出てきた女院一行の行列を二条大路にずらりと並んだ女房たちの牛車がお出迎えし、通り過ぎるのを見ているという状況でしょうか。季節は3月の後半、カラフルな衣を出した牛車が列をなして進む様子です。
古語なのでわかりにくいですが、青空が広がってて春のうららかな日差しの朝、女院の最高級車を筆頭にして、尼さんたちの車からはキラキラの水晶の数珠やライトグレーの衣が出てて、下簾は紫のグラデーション、続いて女房たちの車からはピンク、ライトパープル、カフェオレ色、ディープレッドと、これまたいろんな色使いの衣が出ててキレイ!!と。映像的というか、YouTubeにでも上げてくれれば、そういう光景見てみたい気はします。
と、そんなこんなで⑰に続きます。


【原文】

 まづ、院の御迎へに、殿をはじめ奉りて、殿上人、地下などもみな参りぬ。それわたらせ給ひて後に、宮は出でさせ給ふべしとあれば、いと心もとなしと思ふほどに、日さしあがりてぞおはします。御車ごめに十五、四つは尼の車、一の御車は唐車なり。それにつづきてぞ尼の車、後(しり)・口より水晶の数珠、薄墨の裳、袈裟、衣、いといみじくて、簾はあげず、下簾も薄色の裾少し濃き、次に女房の十、桜の唐衣、薄色の裳、濃き衣、香染、薄色の表着(うはぎ)ども、いみじうなまめかし。日はいとうららかなれど、空は緑に霞みわたれるほどに、女房の装束の匂ひあひて、いみじき織物、色々の唐衣などよりも、なまめかしうをかしきこと限りなし。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑮ ~みな乗りはてぬれば~

 女房全員が乗り終えたから、車を御門から牽き出して二条大路で榻(しじ)に轅(ながえ)を掛けて見物の車みたいに立てて並べたの、その様子がすごく面白いのよ。人もみんなそういう風に見てるんだろうなって、胸がわくわくどきどきするのよね。四位、五位、六位なんかの人たちがめちゃくちゃたくさん出入りして、車のところに来て世話を焼いたりお話をしたりする中で、明順(あきのぶ)の朝臣の気分はっていうと、空を見上げて胸を張っちゃってるの。


----------訳者の戯言---------

榻(しぢ/しじ)は拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の「第四十四段 みすぼらしい竹の編戸の中から」に図がありますのでご参照ください。轅(ながえ)という、牛車の前に長く突き出ている柄の部分を置くような台ですね。

明順(あきのぶ)の朝臣というのは定子の母(高階貴子)方の伯父・高階明順(たかしなのあきのぶ)のことです。京都郊外のクラシックな家に住んでいました。建物の造りやインテリアをあえて田舎風、カントリーテイストにしてあったようですね。この辺のことについては「五月の御精進のほど② ~かくいふ所は~」を再読いただけると幸いです。


女房たちの乗った車の並んだ様子が壮観であるということ、そしてそれを見た?定子の伯父・高階明順は非常に誇らしく得意気な様子です。
伯父さんがそんなにテンション上げなくてもと思いますが。
さて、この段を読み始めて約1カ月です。長い段ですが半分は過ぎたかな?というところでしょうか。来月中にはなんとかこの段、読み終われるかもしれません。
⑯に続きます。


【原文】

 みな乗りはてぬれば、引き出でて、二条の大路に榻(しぢ)にかけて、物見る車のやうに立て並べたる、いとをかし。人もさ見たらむかしと心ときめきせらる。四位、五位、六位などいみじう多う出で入り、車のもとに来て、つくろひ、物言ひなどする中に、明順(あきのぶ)の朝臣の心地、空を仰ぎ、胸をそらいたり。

関白殿、二月二十一日に⑭ ~車の左右に~

 車の左右に大納言殿(伊周)、三位の中将(隆家)のお二人で簾(すだれ)を上げ、下簾を引き上げて女房たちをお乗せになるの。大勢で群れているのなら、少しは隠れる場所もあるんだろうけど、4人ずつ記名順に従って、「誰それ、誰それ」って呼び立ててお乗せになるもんだから、歩いて出て行く気分はほんと情けなくって、目立っちゃう…っていうのも普通にあることなんだけどね。御簾の中にいらっしゃる人たちの目がある中でも、特に定子さまが見苦しいってご覧になるくらい、やりきれないことってないわよ。冷や汗がにじみ出て、きれいにセットしてた髪なんかも全部逆立っちゃってるんじゃないかな?なんて思うの。なんとかして御簾の前を通り過ぎてって、車の傍で兄弟お二人がこちらも気後れするくらいクールでキレイなお姿で微笑んでご覧になるのも現実じゃなくって夢のよう。でも、何とか倒れないでそこまで行きつけたのはエライ!っていうか厚かましいっていうか、いろいろ考えちゃうのよね。


----------訳者の戯言---------

伊周は今さら言うまでもありませんが、今回は道隆の四男、隆家のことを書いておきましょう。定子から見るとすぐ下の弟です。
天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名だったらしく、「長徳の変」のキッカケとも言える例の「花山法皇襲撃事件」をやらかしたのもこの弟でした。では、もう一度復習しておきましょう。

長徳2年(996年)といいますから、この段の積善寺の一切経の供養の年の二年後です。


そもそもですが、花山(かざん)法皇、弱冠16歳で即位しました。
その即位した時の逸話が例のレイプ事件です。女流歌人として有名な馬の内侍という人が、即位の日に花山天皇自身にレイプされたというめちゃくちゃなことがありました。ちなみに馬の内侍は、ここでもすでに登場の家長・藤原道隆と恋愛関係にあったとか、その他いろいろな人と浮名を流した超美人だったようですね。

で、即位後、花山天皇は「忯子」という女御を寵愛したんですが、この人を早くに病気で亡くしてしまいます。このことを契機になんと花山天皇、出家を考えはじめるのです。単なるヤンチャではなくピュアなとこもあったんですね。
そして、右大臣・藤原兼家の陰謀で本当に出家してしまうことになります。この時の実行部隊は息子の道兼(道隆の弟で道長の兄)。別に武力を使ったわけではなく「退位して出家したら?? 私も出家しますし~」みたいなことを勧めたらしいんですけどね。で、道兼、言っておいて結局自分は出家しないというわかりやすい嘘をつきました。でも花山天皇の出家によって、側近中の側近だった藤原義懐も出家せざるを得ない状況に追い込まれるんです。これが「寛和(かんな)の変」と呼ばれているものなのですね。

この「寛和の変」については以前「小白河といふ所は④ ~朝座の講師清範~」に詳しく書きました。よろしければお読みください。

何度かこの段でも書きましたが、藤原兼家は関白・道隆の父です。兼家の娘の詮子(道隆の妹)は円融天皇の女御であり一条天皇の母。この段に描かれている時点では女院東三条院)です。藤原兼家は、このクーデター「寛和の変」によって天皇になった一条天皇の祖父というポジションに至ったことになります。公には「摂政」となりこれでカンペキな権力を手に入れたわけですね。

というのが、花山法皇です。
天皇を2年ほどでやめた後、出家はしたもののまだまだ若い。花山法皇襲撃事件の頃は30歳前になってましたが、煩悩ありまくりだったということです。
そして花山法皇藤原為光(この事件の頃には故人)という人の娘に恋してしまい、その屋敷に通うようになってました。そして同じ頃、藤原伊周藤原為光の娘に恋していたというのが不運といえば不運でしたね。ちなみに花山法皇が愛した女御・忯子も為光の娘。つまりその妹と花山法皇は恋愛していたということになります。伊周も。

ところで為光という人は「藤大納言」というニックネームで何回か登場しています。そして、その息子がモテモテイケメンとしてこれまた登場機会の多い、清少納言のめちゃ押しの藤原斉信(ただのぶ)サマでした。いろいろ繋がってますね。

話戻ると、それで伊周は花山法皇が自分の恋人を横取りしようと狙っていると思ったわけです。
そこで登場したのは、まだ17、8のこれまたヤンチャ盛りの隆家。「兄ちゃんの女取ろうとしてるアイツ、元天皇かもしれんけどチョイ脅しちゃるわ、見とけや」的な感じで弓で攻撃。元ヤンの元・帝というややこしい花山天皇にまじで弓を引きます。袖を射抜いたらしい。
しかし。花山法皇が恋していたのは、伊周が熱愛していた女性の妹、為光の四女・儼子(たけこ)のほうでした。伊周が通ってたのは三女(寝殿の御方)で、お母さんは同じなのですが、三女は美貌の女子、四女の儼子さんはそうでもなかったらしいです。で、伊周的には、ヤツが行ってるんは美人の俺の彼女に違いねー、と勘違いしたというのがどうも真相のようです。

とは言え、当たり前ですが法皇に弓を引くなどというのは不敬罪ですよ。かなり大それた犯罪です。
ところが、花山法皇も出家の身だったため、女子のところに通ってたなんていうことが表沙汰になると具合悪いってことで、襲撃されたことを隠してたんですね。

が、事件を嗅ぎつけた藤原道長一派が表沙汰にします。ご存じの通り、伊周、隆家を中央政界から排除できる恰好のネタを提供してしまったということですね。

そう考えると、花山天皇というのは藤原兼家から道隆、道長に至るこの時代の政争のキーマンの一人でもあったと言えます。


さて、隆家の話に戻ります。
実は後年、藤原隆家という人は、女真族という大陸の勢力が日本を侵略しようと攻めてきた時、見事に撃退した総司令官として名を馳せています。眼病治療のために大宰権帥大宰府の長官)を拝命して大宰府に出向していた時のことでした。「刀伊の入寇」という、知る人ぞ知るみたいな異国からの侵略でしたが、なかなかの活躍だったということです。
平安時代というのは外国から攻められるなんていう発想があまりなかったようで。都の貴族の生活を見ていてもわかるとおり、平和ボケしてたようですね。なので、都での評価は高くなかったのも仕方ないのでしょう。
元寇」の時に北条時宗が元の勢力をやっつけた話はあれだけ有名なのに、意外と知られていないのが不憫ではありますね。


ずいぶん話が逸れてしまいました。

牛車の下簾。
乗る屋形(箱の部分)の前後に簾(すだれ)があるんですが、中が見えないようにしたり、風雨や寒さを避けたりしたのでしょうね。で、さらにその内側に懸けて簾の下から外部に垂らす絹布があったんですね。それを下簾と言いました。で、女性が牛車に乗る場合、「女車(おんなぐるま)」と言ったんですが、「簾」の下から衣などを出しました。これが「女車」の判別方法の一つだったようですね。屋形から衣を出す前に、まず下簾を簾の下からから外へ出し、それから衣の袖とか裾を出したって言いますから、なかなかめんどくさいことをやるもんです。
ただし、男性がお忍びで出掛けるような時も「女車」に見せかけるため、こういうことをしてカモフラージュしたようですから、当時のメンズもなかなか手が込んでいますよ。

顕証(けんしょう/けんそう)。あらわになって、人目につくこと。また、そのさま。という意味になります。

「汗」が「あゆ」というような表現が出てきましたが、「あゆ」というのはどういうニュアンスなのでしょう。漢字では「落ゆ」と書くらしいですが、「したたり流れる」「したたり落ちる」です。汗とか血とかの場合に使うようですね。つまり、「汗あゆ」だと、汗がにじみ出る、冷や汗が出る、というイメージのようです。


伊周&隆家の中関白家ブラザーズが女房たちを車に乗せて行く、という状況ですね。
名前をコールされて、ブラザーズのとこに行って順番に乗って行く、と。そういうシステムなので一人ひとりが目立ちます。しかもこの二人が「はづかしげに清げなる御さまどもして」乗車のエスコートをしてくれてるんですから、清少納言などは恥ずかしいし、ブラザーズがキレイすぎてクラクラするし、って感じでしょうか。
ま、やんちゃで武闘派、2年後にはやらかしちゃう伊周&隆家なんですけどね。

という感じでみんな車に乗り込んでます。
⑮に続きます。


【原文】

 車の左右に、大納言殿、三位の中将、二所して簾(すだれ)うちあげ、下簾引きあげて乗せ給ふ。うち群れてだにあらば、少し隠れどころもやあらむ、四人づつ書立(かきたて)にしたがひて、「それ、それ」と呼び立てて乗せ給ふに、あゆみ出づる心地ぞ、まことにあさましう顕証なりといふも世の常なり。御簾のうちに、そこらの御目どもの中に、宮の御前の見苦しと御覧ぜむばかり、さらにわびしきことなし。汗のあゆれば、つくろひたてたる髪なども、みなあがりやしたらむとおぼゆ。からうじて過ぎ行きたれば、車のもとに、はづかしげに清げなる御さまどもして、うち笑みて見給ふもうつつならず。されど、倒れでそこまでは行きつきぬるぞ、かしこきか、おもなきか、思ひたどらるれ。