枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

関白殿、二月二十一日に⑬ ~御経のことにて~

 一切経の供養があるから明日積善寺へお向かいになるっていうことで、私は今夜参上申し上げたのね。南の院の北側の向かいに顔を出したら、高坏(たかつき)に火を灯して、2人3人、または3、4人で親しい者同士、屏風を引き寄せて仕切ってる女房もいるの。几帳とかを使って仕切ったりもしてるのね。また、そうでもなくて、何人かで集まって座って、衣装を縫い重ねて、裳の引腰(ひきごし)を差して、お化粧をする様子は今さら言うまでもなく、髪なんかはっていうと、明日を過ぎればもう無くなってもいいっていうくらい念入りに見えるわ。「寅の時(午前3時~5時)に定子さまが積善寺にお出ましになるそうよ。どうして今まで参上なさらなかったの? 扇を使いの者に持たせてあなたを探してる人がいたわよ」って知らせてくれたの。

 それで、ほんとに寅の時かと思って、身支度を整えて待ってたんだけど、夜が明けてしまって日も射し出したのね。西の対(たい)の唐廂(からびさし)に車を寄せて乗るってことで、渡殿(わたどの)を通って女房全員が行く時に、まだフレッシュな新入りの女房たちは気持ちが引けちゃってるんだけど、西の対には関白殿がお住まいだから定子さまもそこにいらっしゃって。まず女房たちを車にお乗せになるのをご覧になるってことで、御簾の内側に、定子さま、淑景舎(しげいしゃ)さま、三番目四番目の姫君、関白殿の奥方、奥方の妹の三人の方々が立ち並んでいらっしゃるの。


----------訳者の戯言---------

「南の院」というのは、東三条殿の南院のことだそうです。東三条殿というのは、ここに登場する関白殿=藤原道隆の父・兼家の主邸であったところで、兼家は「東三条殿」と呼ばれました。また、その娘藤原詮子(つまり道隆の妹、円融天皇の女御/円融法皇の皇太后/一条天皇の母)の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となったという、そこです。これはこの段の冒頭にも少し書きましたね。ただし、女院となってからは東三条殿に住むことはなかったらしいですが。

実は正暦4年(993年)の3月に、父から引き継いで道隆の邸宅になっていた東三条殿の南院が全焼しています。本院は焼失を免れたらしいですが、南院もすぐに再建され、翌年11月には完成したそうですから、この段のお話は建設途中であった可能性が高いですね。おそらくその所為で道隆も主殿でない西の対に住んでいたのでしょう。

原文に「裳の腰さし」という表現があります。
裳(も)というのは、「表着の上で腰に巻いて、後ろに裾を長く引くもの」だそうです。女性の礼装でそういうのがあったらしいですね。腰に当てる固い部分を「大腰(おおごし)」といい、その左右から分かれて左右脇より下へ引くものを「引腰(ひきごし)」と言うそうです。小腰というものも存在し、ベルト的な位置づけのものですが、元々は引腰であったもののようですね。
引腰は後年装飾として位置づけられるようになったようですが、

寅の時は、現在で言うと午前3時~5時の間の時間帯です。めちゃくちゃ早い。

西の対(にしのたい)と出てきました。寝殿造において主人の起居する寝殿に対して東・西や北につくった別棟の建物のことを「対の屋(たいのや)」と言うそうです。ここにはたいてい妻や子女が住むそうですね。「西の対」は文字通り主殿の西側に建てられた対の屋のことです。

唐廂(からびさし)。 唐破風(からはふ)造りにした家の軒先のこと。唐破風というのは曲線でデザインされた屋根です。時々寺院とかにありますね。真ん中がぽこんと山形になっていて両端がふにょっと上がってるあの感じです。西の対の屋根がこんな感じだったのでしょうか。


淑景舎(しげいしゃ)はこの前も出てきました。定子のすぐ下の妹、次女の原子です。

「おとと」というのは「おとうと」のことではあるのですが、元々は男にも女にも使った言葉らしいです。弟。妹。同性の年下のきょうだいのことなんですね。
そもそも年下を表すのが「おと」という語だったようで、漢字では「乙」または「弟」と書いたらしいです。「おとひと→おとと」となったと考えられるようですね。また、「おとひと」のウ音便が「おとうと」となったということです。

これに対して「妹(いも)」。こちらは妻、恋人、姉妹、でした。男性から女性を親しんで呼ぶ言葉でした。これが「いもうと」になったということでしょう。「妹」に対する言葉は「背(せ)」でしたね。これは女性が、夫、恋人、兄弟など自分の親しい男性をさして呼んだ語です。ですから、そこから考えると「妹」の対義語は「背」になるはずなんですが、そうはならなかったというのが、言語のおもしろいというか、ままならないところではありますね。


というわけで、いよいよ一切経供養のために定子が積善寺へ向かう前日となりました。清少納言も戻ってきてスタンバイOKでしたが…。日も変わり当日。朝早く出ると教えられてたのに、もう夜が明けて日が射してきた時間帯です。京都の3月下旬ころの日の出となると午前6時前後のようですからね。3時か4時かと聞いてたのが、7時頃になったじゃん、ガセかよ!という感じですね。
中関白家の女子のみなさんが並んで、女房たちの随行を送り出すんですね。そんなことするんですか? 逆じゃないのか?
よくわからないまま⑭に続きます。


【原文】

 御経のことにて、明日わたらせ給はむとて、今宵参りたり。南の院の北面にさしのぞきたれば、高杯どもに火をともして、二人、三人、三四人、さべきどち屏風引き隔てたるもあり。几帳など隔てなどもしたり。また、さもあらで、集まりゐて衣どもとぢかさね、裳の腰さし、化粧するさまはさらにも言はず、髪などいふもの、明日よりのちはありがたげに見ゆ。「寅の時になむわたらせ給ふべかなる。などか、今まで参り給はざりつる。扇持たせて、もとめ聞こゆる人ありつ」と告ぐ。

 さて、まことに寅の時かと装束きたちてあるに、明けはて、日もさし出でぬ。西の対の唐廂にさし寄せてなむ乗るべきとて、渡殿へある限り行くほど、まだうひうひしきほどなる新参(いままゐり)などはつつましげなるに、西の対に殿の住ませ給へば、宮もそこにおはしまして、まづ女房ども車に乗せ給ふを御覧ずとて、御簾のうちに、宮、淑景舎、三四の君、殿の上、その御おとと三所(みところ)、立ち並みおはしまさふ。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑫ ~御輿はとく入らせ給ひて~

 定子さまの御輿は早くにお入りになってて、お部屋の調度を整えて座っていらっしゃったの。「ここに呼んで」っておっしゃったから、「どこ? どこ?」って右京、小左近とかっていう若い女房たちが私を待っていて、参上してくる人ごとに見るんだけど、いなかったのね。車から降りる順に4人ずつ定子さまの前に参上して集まって控えてたんだけど、「変だわね。いないの?? どうしたんでしょう?」っておっしゃったのも知らないで、女房たち全員が降りちゃってから、ようやく見つけられて、「あれほどおっしゃってるのに、こんな遅いのって??」って言って、引っ張られてって参上して、見たら、いつの間にこんな長年住んでるお住まいみたいに落ち着いていらっしゃるのか!っておもしろく思えたの。

 「どういうことで、こんなにいないんでしょ??って尋ね歩くぐらい、姿を見せなかったの?」っておっしゃるんだけど、私が何も理由を申し上げないもんだから、いっしょに乗ってた人が、「すごく酷かったんですよ。最後の車に乗って参ったんですから、どうやったら早く参上できたっていうのでしょう? それだって御厨子所の人が気の毒がって車を譲ってくれたんです。暗かったから心細くて…」って辛そうに申し上げたら、「担当のスタッフがだんぜん悪いわね。それにしてもどうしてでしょう? 事情を知らない人は遠慮もするでしょうけど、右衛門なんかは苦情を言ったらいいのに」っておっしゃるのよ。
 「でもどうして、走って自分が押しのけて先に乗ったりできるでしょう?」なんて右衛門が言うの、そばにいる女房たちは、憎ったらしい、って思って聞いてるでしょうね。
 「みっともなく格式高い車に乗っても、それは偉いわけじゃないわ。決められたとおりに順序を守るのがよいのではないかしら」って、定子さまは不快な感じで思っていらっしゃるの。「車から降りるまでの間が、すごく待ち遠しくて辛いのでしょうね」って、私はとりなして申し上げたのね。


----------訳者の戯言---------

「わぶわぶ」というのは何ぞ? 副詞ですよね?と思って調べました。なんと、漢字で「侘侘」と書きます。「侘ぶ侘ぶ」でもいいかもしれません。侘びさびの「侘」という字です。つまり動詞「侘」「侘ぶ」を重ねて副詞化したものだとか。「侘しく思いながら」「つらそうにしながら」という意味になるそうです。今は使いませんね「わぶわぶ」。女子高校生あたりがSNSで使うと流行りそうなんですけどね。逆に。

「もうウチ わぶわぶやわ」
「わぶやんな」
「わぶわぶ行く~」
「わぶわぶみ~」
みたいな会話してほしいです。

右衛門という同僚女房がイキナリ出てきますが、清少納言と同乗してやってきた人の一人なんでしょうね。なかなかつつましやかな人柄のようです。


というわけで、御厨子所の女性スタッフが乗ってる車のライト?が暗い。とか言って馬鹿にしながら乗って来た割には、定子の前ではなんか殊勝なことを言ってる清少納言一派。枕草子、読まれたらバレるのにね。自分で書いておいて、自分でひっくりかえすという荒業。右衛門さんは心細かったらしい。ほんまか!?
⑬に続きます。


【原文】

 御輿はとく入らせ給ひて、しつらひゐさせ給ひにけり。「ここに呼べ」と仰せられければ、「いづら、いづら」と右京、小左近などいふ若き人々待ちて、参る人ごとに見れど、なかりけり。下るるにしたがひて、四人づつ御前に参りつどひて候ふに、「あやし。なきか。いかなるぞ」と仰せられけるも知らず、ある限り下りはててぞからうじて見つけられて、「さばかり仰せらるるに、おそくは」とて、ひきゐて参るに、見れば、いつの間にかう年ごろの御すまひのやうに、おはしましつきたるにかとをかし。

 「いかなれば、かうなきかとたづぬばかりまでは見えざりつる」と仰せらるるに、ともかくも申さねば、もろともに乗りたる人、「いとわりなしや。最果(さいはち)の車に乗りて侍らむ人は、いかでか、とくは参り侍らむ。これも、御厨子(みづし)がいとほしがりて、ゆづりて侍るなり。暗かりつるこそわびしかりつれ」とわぶわぶ啓するに、「行事する者のいとあしきなり。また、などかは、心知らざらむ人(=新参)こそはつつまめ、右衛門など言はむかし」と仰せらる。「されど、いかでかは走り先立(さいだ)ち侍らむ」などいふ、かたへの人にくしと聞くらむかし。「さまあしうて高う乗りたりとも、かしこかるべきことかは。定めたらむさまの、やむごとなからむこそよからめ」と、ものしげにおぼしめしたり。「下り侍るほどのいと待ち遠に苦しければにや」とぞ申しなほす。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑪ ~出でさせ給ひし夜~

 定子さまがお出になられた夜、女房が車に乗る順番も決まってなくて、みんな「私が先、私が先」って乗る時に騒いでるのが気分悪かったもんだから、ちゃんとしてる人と「やっぱり、この車に乗る様子がすごく騒がしいし、『祭のかへさ』の時なんかみたいに、倒れちゃうんじゃないかな?って思うくらい混乱しちゃってるのがすごく見苦しくって。もうそれなら、成り行きにまかせよっか? 乗れる車が無くて私たちが参上できないなら、自ずと定子さまがそのことをお聞きになって、車を寄越してくださるでしょうし…」なんて話し合って立ってる前で、女房たちが固まりになって、慌てて出てって乗り終えたから、「これで終わりです?」って中宮職の職員が言うのね。で、「まだ、ここに!」って言うと、職員が寄って来て、「誰誰がいらっしゃるんですか??」って聞いてきて、「すごく妙なことですねぇ。もう今はみんな乗ってしまったんだろうと思ってましたよ。これは何でこんなに遅れてしまわれたんでしょ? 今、得選(とくせん)を乗せようとしてたのに…。あきれちゃいますよ」なんて驚いて車を寄せさせるもんだから、「それなら、まずその思ってた人をどうぞお乗せになって。次には私たちを…」って言ったのを聞いて、「とんでもなく意地悪でいらっしゃる」とか言うから、乗ったの。で、その次には、ホント御厨子所の女子スタッフの車だったから、灯りも暗くって、それを笑いながら二条の宮に参上すべく着いたのね。


----------訳者の戯言---------

この段がはじまった時に中宮・定子は二条の宮に行ったのかと思いきや、ここではその当日の夜のできごとになってるようですが?
時間が戻ってます? タイムリープのようですね。私の読み方が間違っていたのでしょうか? 長い長い段のまだ途中なので全体がつかめておらず、すみません。とりあえず訳してみます。


さて、ちょくちょく出てくる「祭のかへさ」です。「かへさ」というのは帰り道ということで、葵祭の翌日、斎王(いつきのみこ)が上賀茂神社から紫野(今の京都市北区/上京区)の斎院に帰ること、またはその行列のことを言ったんですね。紫野は現在は北区の地名ですが、斎院跡は現在の櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)にあり、ここは今の上京区です。
この「祭のかへさ」の行列は人気のイベントだったらしく、清少納言もイチオシです。ただ、見物の場所取りとかでめちゃくちゃ混雑したらしい。それで、この段でも混雑する時の例えとして書かれています。

当時は都で祭っていうと、今、葵祭と言われている賀茂神社のお祭り(賀茂祭)のことなんですね、当然のこととして。勅祭ですから、皇族貴族のものでもあり、清少納言とかその辺の人たちからするとやはり葵祭だったんですよ、祭りは。現代では京都を代表する祭りといえば祇園祭なんですが、祇園祭のほうがだいぶ後のもので、どっちかっていうとこっちは町人のお祭りらしいですからね。

宮司」というと私たちの感覚でいくと、神社の職員さんというか、祭祀や祈禱に従事している神職の人、だと思いますが、ここでは「中宮職(ちゅうぐうしき/なかのみやのつかさ)」という役所の職員のことです。「中宮職」というのはこれまでにも何度か出てきましたが、皇后に関する事務全般をやっていた中務省に属する役所なんですね。

「得選(とくせん)」は、「御厨子所(みずしどころ)」の女官です。定員は三人だったとか。食膳や雑事に従事したそうです。采女(うねめ)のなかから選ばれるところから、このように言われたらしいですね。御厨子所というのは、宮内省の内膳司に属してる部署(役所)で、天皇の御膳を調進し、節会などで酒肴を出す機関らしいです。


さて。
中宮随行して二条の宮に参上しようと女房たちが騒いでる感じでしょうか。我先にと車に乗ろうとしているのは浅ましい感じがして、たしかに嫌なものではあります。
でも、自分が中宮さまから呼ばれないワケはないだろうとタカを括って後ろから見ているのが、いつもの上から目線で語る清少納言。そりゃそうかもしれないけどね、謙虚さは微塵もありません。

焦ってる女房たちを蔑みながら、ぐずぐずしているもんだから、例によって清少納言、案の定配車担当のスタッフを見下しながら軽くもめてしまいます。「ほならおたくはん思たとおり先に乗せよし。うちらその後でよろしおすえ」とか上から言うわけですね。そうすると、中宮職のスタッフさんも「アンタらやらしいこと言いまんな(しゃあない、ほな乗りぃな)」と言ってしまいます。すると案外そのまますんなり乗っちゃいます。偉そうにしておいて結局そうかよ。
それでも、後続の車が御厨子所の女子スタッフの車だったから灯りも暗くて~、と性懲りもなくバカにしていますね。感じ悪いったら…。
というところで、⑫に続きます。


【原文】

 出でさせ給ひし夜、車の次第もなく、「まづ、まづ」と乗り騒ぐがにくければ、さるべき人と、「なほ、この車に乗るさまのいとさわがしう、祭のかへさなどのやうに、倒れぬべくまどふさまのいと見苦しきに、ただ、さはれ、乗るべき車なくてえ参らずは、おのづからきこしめしつけてたまはせもしてむ」など言ひあはせて、立てる前よりおしこりて、まどひ出でて乗りはてて、「かうか」といふに、「まだし、ここに」といふめれば、宮司寄り来て、「誰々おはするぞ」と問ひ聞きて、「いとあやしかりけることかな。今はみな乗り給ひぬらむとこそ思ひつれ。こはなど、かうおくれさせ給へる。今は得選(とくせん)乗せむとしつるに。めづらかなりや」などおどろきて、寄せさすれど、「さは、まづその御心ざしあらむをこそ乗せ給はめ。次にこそ」といふ声を聞きて、「けしからず、腹ぎたなくおはしましけり」などいへば乗りぬ。その次には、まことに御厨子が車にぞありければ、火もいと暗きを、笑ひて二条の宮に参り着きたり。

 

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関白殿、二月二十一日に⑩ ~さて、八九日のほどにまかづるを~

 その後、八日か九日の頃に私は里に戻ることにしたけど、定子さまは「もう少し供養の日が近づいてからでいいんじゃ…」なんておっしゃって。でも、私は退出して帰っちゃったの。
 いつもよりすごくのどかに日が差してるお昼頃、「花の心は開けないの? どうなの? どうなのかしら?」っていうお言葉のお手紙をいただいたものだから、「秋はまだまだ先ですけど、魂は一晩に九回参上するって気持ちがしてるんです」って私はご返事申し上げたのね。


----------訳者の戯言---------

ここのやりとりに出てくる「花の心開く」「夜に九たび升る」というのは白居易(白楽天)の白氏文集にある「長相思」という漢詩の中から、それぞれ一節を取ってきてやり取りをしているようです。下の「二月東風來 草坼花心開」から引用して手紙を書いてきた定子に、清少納言が「思君秋夜長 一夜魂九升」で返すというワザですね。時はちょうど二月です。そして、「秋はまだまだ先ですけれど」と断った上で、思いを伝えたというね。こういうのがスッと出て来て返せるのは、たしかに大したものだと思います。

長相思

九月西風興 月冷霜華凝
思君秋夜長 一夜魂九升
二月東風來 草坼花心開
思君春日遲 一夜腸九回
(後略)

九月西風興り 月冷ややかにして霜華凝る
君を思ひて秋夜長く 一夜にして魂九たび升(のぼ)る
二月東風来たり 草坼(ほころび)て花の心開く
君を思ひて春日遲く 一夜にして腸九たび廻す

さすがに元ネタをわかってないと返せませんからねー。

余談ですが先日、ある方に「クリーピーナッツと見取り図の見分け方を発見したよ」と言いましたら、「クリピーナッツ? 何それ? 知らん」と返されまして、せっかくのボケが台無しになってしまったのでした。

中宮・定子と清少納言との間では、クリーピーナッツと見取り図が微妙に似ていることが共有されていたということですね。いや、違いますけど。ものの喩えとしてはそういうことです。

というわけで、実家に帰った清少納言はその後どうするのでしょうか。⑪に続きます。


【原文】

 さて、八九日のほどにまかづるを、「今少し近うなりてを」など仰せらるれど、出でぬ。いみじう、常よりものどかに照りたる昼つ方、「花の心開けざるや。いかに、いかに」とのたまはせたれば、「秋はまだしく侍れど、夜(よ)に九度(ここのたび)のぼる心地なむし侍る」と聞こえさせつ。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑨ ~殿おはしませば~

 関白(道隆)殿がいらっしゃったので、寝乱れた朝顔じゃ季節外れなものだってご覧になるだろうな…って部屋に引っ込んだの。こちらにお越しになってすぐ、「あの花がなくなってるやん! 何でこんな全部ごっそり盗まれてるんだよ! あかん女房たちだね~ 寝坊してて、気づかなかったんだね」って驚かれたもんだから、「でも私は『私より先に』起きてた人がいた!って思っておりましたよ…」って私がこっそりと言うと、それをすぐお聞きつけになってね、「そうだろうと思ってたよ。まさか他の人が出てきて見たりなんていうのはないだろう? 宰相の君とあなたぐらいだろうと推察してたんだよ」ってすごくお笑いになるの。
 「そういうことなのに、少納言は春の風のせいにしたのよね」って定子さまがお笑いになったのは、すごく好感度高かったのよね。
 「じゃあ嘘をおっしゃられたんだ! 『今は(風も弱まる)山田を耕す季節』でさえあるのだからね~」なんて吟じられる道隆さまのご様子ときたら、すごく優雅でおもしろいの。「それにしても、見つけられちゃってくやしいよ。あれほど見つからないようにスタッフには言っておいたのにね~。中宮のところにはこういう番人がいるからなぁ」なんておっしゃって。「『春の風』とは、とっさにすごく上手く言ったもんだよね」とかって、関白殿はまた歌を吟じていらっしゃるの。
 「(歌ではなく)ただの言葉にしては、気の利いた言葉を思いついたものだわ。実際今朝の桜の様子はどうだったのかしら?」なんて、定子さまはおっしゃってお笑いになるのよ。
 すると小若君が「でもそれを清少納言さんがすごく早く見つけて、『露に濡れたる』って詠まれた桜にしては、この造花ときたら『恥ずかしいものですよぉ』って言ってたんですよ」ってお二人に申し上げたら、関白殿がすごく悔しがっていらっしゃったのもおもしろいのよね。


----------訳者の戯言---------

「ねくたれの朝顔」というものが出てきます。漢字では「寝腐れ」と書き、これは寝乱れている状態を表すようですね。寝乱れた朝顔、という擬人表現です。
ここでは清少納言の自嘲というか卑下というか、謙遜なのでしょうか。朝でまだぐちゃぐちゃな顔で見られたもんじゃないから、消えますわね。ということです。それをオシャレに、粋な感じで書きましたの、と、清少納言的にはそういうところだと思います。

そもそも旧暦2月、今の3月後半ですから朝顔はありえない時季ですよね。朝顔というワードがいきなり出てきたので少し驚きましたが、そういうことだったのでしょう。

朝顔というのは結構古くて、日本への到来は奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされているそうですね。朝顔の種の芽になる部分には下剤の作用のある成分がたくさん含まれていて、漢名では「牽牛子(けにごし/けんごし)と呼ばれ、奈良時代平安時代には薬用植物としても扱われていたそうです。
もちろん、観賞用の花としても古くからポピュラーだったようではあります。
朝顔と言えば通常は7月から11月頃までが盛り。夏から秋にかけてのものです。で、元々秋の花とイメージされていたので、実は朝顔は夏ではなく秋の季語なんですね。


話が逸れますが、朝顔と言えば、例の千利休と秀吉のやつです。

千利休の屋敷(茶室?)の庭で咲き誇っていると聞いた朝顔を、素晴らしいに違いないと思って、千利休から招かれて行ってみると、庭の朝顔が全て切り落とされていた。ガッカリした秀吉が茶室に入ると、光が少し差し込むその先に一輪だけ朝顔が生けてあり、千利休が「一輪であるが故のこの美しさ。庭のものは全て摘んでおきました」と、秀吉に言ったとか言わなかったとか。

これ、大方のところでは、千利休の美意識とそれに感動した秀吉、という「いい話」になってます。が、その一方で、複雑なあの二人の関係を示唆しているとか、利休の秀吉への批判を暗示しているとか、様々に解釈されていますね。
茶人・千利休は当時の戦乱の世を動かす裏のリーダーであり、戦略家であり、先取的イデオロギーの主導者であったとも言われています。そのミーティングが戦場ではなく、茶室というサロンで行われていたというのが実際で、利休を慕って戦国武将たちが茶室に集ったわけですから秀吉からすると脅威であったとするのもそれほど外れてはいないのでしょう。

私も少し語っておきますと、かなり複雑な秀吉の感情を察することができるという話になります。
一輪の朝顔を他者をすべて排除しトップに君臨する自分を模して揶揄しているのだと嫌悪感を感じたのではないか、というのが一つ。
金ピカ大好きの自分を思い知り、恥じ、彼が自分を蔑んでいると感じて内心怒ったのか、上に立つ者として敵わないと思って怖れたのか、というのがもう一点です。
美意識の違いというのは人生観、生き方、価値観の違いであって、人を貶めたり殺めたりしてもトップに立って治世するか、融和を図って世を治めるかという政治手法の違いであったとするのが、この事件?において浮かび上がるのです。価値観の転換を図ろうとした利休と、旧態依然の価値観で治世を試みた秀吉。その二人の精神的なバトルであったのでしょう。
最後、利休に切腹を申し渡したのは、無価値のものに謂れのない価値をつけて人々をだましたという理屈なんですね。
なんか書き過ぎましたか。


さて。元に戻ります。
「いぎたなし」は漢字で書くと「寝汚し」「寝穢し」です。「ぐっすり寝込んでる」「眠り続けていてだらしがない」という意味になります。

『我よりさきに(私より先に)』というのはどういうことなのでしょう??と思って調べました。
こんな歌↓があるんですね、壬生忠見という人の歌だそうです。「古今和歌集」の編者だった壬生忠岑は知っていますが、その息子なんですね。この親子はどちらも三十六歌仙に入ってるようです。いずれも下級役人だったらしいですが歌人としては一流だったらしいですね。忠見の歌は950年代頃に成立した勅撰集「後撰和歌集」に撰入されたり、同時期の歌会などで活躍したらしいですから、枕草子の時代から見て同年代というか、さほど古い人ではありません。

桜見に有明の月に出でたれば 我より先に露ぞおきける
(桜を見に有明の月のころに出て見たら、私より先に露が下りていたんだよ)

歌語としての「露」は常に「起き」と「置き」との掛詞を導き出す為に用いられるものであるそうで。道隆に朝寝坊だと責められた清少納言は、「我より先に」起きているはずの露(つまり道隆)に責任を転嫁したのですね。「いやいや先に起きてらっしゃった方いるでしょ??」って感じでしょうか。
つまり関白・道隆が先に起きて仕組んだ仕業である事を、こちらは先刻承知の上ですよ、と暗に仄めかしたということですね。


「宰相」というのは当時の宰相(菅原輔正)の娘で定子サロンの同僚女房です。菅原輔正はあの菅原道真のひ孫になります。京都に北野天満宮というのがありますが、後に北野宰相とも呼ばれました。

そして、清少納言の「春の風で桜の花が持ってかれた」説には次の紀貫之の歌から取って、道隆が返事をします。

山田さへ今は作るを散る花の かごとを風に負ほせざらなむ
(山田でさえ今は耕す時期になったのに、散る花の恨み言は風のせいにしないで)

山田を耕す時期=風が弱くなる時節なんですね。そういうことか。


小若君というのは、貴人の幼少の子をいう尊敬語だそうです。伊周や定子の末弟・好親あたりでしょうか。

で、小若君が指摘した「露に濡れたる」は、⑦で清少納言が言った「泣きて別れけむ顔に心劣りこそすれ」の元ネタとなった歌↓にあります。もう一度書いておきますね。

桜花露に濡れたる顔見れば 泣きて別れし人ぞこひしき
(桜の花の露に濡れた花の表情を見てたら、泣いて別れた人が偲ばれて恋しくなってくるんだよ)


「おもてぶせなり」「面伏せ」と書きます。恥ずかしくて顔が伏せたくなるようなさま。 恥ずかしい。面目ない、といった意味になります。

「露に濡れたる顔」に喩えられる桜花にしては、雨で萎んじゃうこの造花は恥ずかしい、と清少納言がdisったということなんですね。で、それを聞いた関白・道隆がすごく悔しがったと。
何故でしょうか。雨でダメダメになってしまう造花の桜の木を作ったのがそもそも道隆だったということですか? で、その造花が醜態をさらす前に撤収を図ろうとしたものの、先に見つかったのが悔しい道隆。という話でいいんでしょうか?

まそもそも、木ごと無くなってるのに、春の風が~どーたら~言うて優雅でよろしわ~みたいな意識がだめなんですよね。全然おもしろくない。その辺のセンスどうにかならないかな、と思います。
⑩に続きます。


【原文】

 殿おはしませば、ねくたれの朝顔も、時ならずや御覧ぜむとひき入る。おはしますままに、「かの花は失せにけるは。いかで、かうは盗ませしぞ。いとわろかりける女房達かな。いぎたなくて、え知らざりけるよ」とおどろかせ給へば、「されど、『我よりさきに』とこそ思ひて侍りつれ」と、忍びやかにいふに、いととう聞きつけさせ給ひて、「さ思ひつることぞ。世にこと人出でゐて見じ。宰相とそことのほどならむとおしはかりつ」といみじう笑はせ給ふ。「さりけるものを、少納言は、春の風におほせける」と、宮の御前のうち笑ませ給へる、いとをかし。「そらごとをおほせ侍るなり。『今は、山田もつくる』らむものを」などうち誦ぜさせ給へる、いとなまめきをかし。「さてもねたくみつけられにけるかな。さばかりいましめつるものを。人の御かたには、かかるいましめ者のあるこそ」などのたまはす。「『春の風』は、そらにいとかしこうもいふかな」など、またうち誦<ぜ>させ給ふ。「ただ言(ごと)にはうるさく思ひ強りて侍りし。今朝のさま、いかに侍らまし」などぞ笑はせ給ふ。小若君「されど、それをいととく見て、『露にぬれたる』といひける、『おもてぶせなり』といひ侍りける」と申し給へば、いみじうねたがらせ給ふもをかし。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑧ ~掃部司参りて~

 掃部司(かもんづかさ)のスタッフが参上して、御格子をお上げするの。主殿司(とのもりづかさ)の女官がお掃除なんかに来て作業が終わった後、定子さまが起きられたんだけど、桜の花が無くなってるもんだから、「あら、びっくりだわ。あの桜の花の木はどこに行っちゃったのかしら?」っておっしゃるのね。「夜明け前に『花盗人がいる!』って言ってたようだけど、やっぱり枝なんかを少し取るのかな?って聞いてたんだけど。誰がしたのかしら? 見たの?」っておっしゃるの。
 「いえ、誰が取ってしまったかはわからないんです。まだ暗くてよく見えなかったので。白い感じの者がおりましたから、花の咲いてる枝を少し折るんだろうかな?って、心配だから声は掛けたんですよ」って、私申し上げたのよ。
 「それでも、全部、こんなに? どうやって取るんでしょう?? 関白殿(父・道隆)が取って隠しちゃったんでしょうね?」ってお笑いになるから、「いいえ、まさかそんなことはないかと。春の風のしたことでございましょう」と申し上げたら、「そう言おうと思って隠したのね。盗みじゃなくって、すごくいい風情のものってことなのね」っておっしゃったのも、さりげない言葉だけど、すごく素晴らしいの。


----------訳者の戯言---------

掃部司(かもんづかさ/かもんづかさ/そうぶし)というのは、大蔵省に属して宮中の掃除や儀式の設営のことをつかさどった部署だそうです。また、その役所の職員のことをこのように言いました。

主殿司(とのもりづかさ/とのもづかさ)というのは、主殿寮 (とのもりょう) に仕える職員。主殿寮とは律令制で、宮内省に属し、宮中の清掃、灯燭 (とうしょく) ・薪炭など火に関すること、行幸時の乗り物、調度の帷帳などのことをつかさどった役所でした。ここでは、女官=女性スタッフが朝の清掃をしたようです。

「あさまし」は「あきれちゃう」「情けねー」「あれれびっくりだわ」といったニュアンスがある語です。現代語の「あさましい」のもとになった語ではありますが、意味はずいぶん違いますね。

「あかつき」は未明のこと。まだ暗い夜明け前の朝です。「あけぼの」よりは前の時間帯と言われています。


定子は今頃起きてきたんですね。たしか早朝に一度起きたように思いましたが、二度寝したんですかね。
そして。何か「花盗人がいる」とか言ってたみたいだけど、桜が無くなってる…。と、まさに寝ぼけたようなこと言ってます。ホントは知ってたんじゃないの?と疑う私。
だって、桜の木ぶったおして持ってっちゃったんですから。気付くでしょ普通。もし気づいてなかったら、どんだけ熟睡しとんねんて話です。

というわけで、桜の木を倒して持って行っちゃうという強行に及んだ者どもの黒幕はやはり父=関白・道隆だということを察する定子、というテイ。

もちろん清少納言は知ってたわけですが、定子さまの推察すばらしい!と、またもやヨイショ気味。春の風の仕業でしょう…とか寒いことまで言う始末です。
白々しい会話を読んだ私は、なんだかなーと思いつつ…⑨に続きます。


【原文】

 掃部司(かもんづかさ)参りて、御格子参る。主殿(とのも)の女官御きよめなどに参りはてて、起きさせ給へるに、花もなければ、「あな、あさまし。あの花どもはいづち往ぬるぞ」と仰せらる。「あかつきに『花盗人あり』といふなりつるを、なほ枝など少しとるにやとこそ聞きつれ。誰がしつるぞ、見つや」と仰せらる。「さも侍らず。まだ暗うてよくも見えざりつるを。白みたる者の侍りつれば、花を折るにやと後ろめたきに言ひ侍りつるなり」と申す。「さりとも、みなは、かう、いかでかとらむ。殿の隠させ給へるならむ」とて笑はせ給へば、「いで、よも侍らじ。春の風のして侍るならむ」と啓するを、「かう言はむとて隠すなりけり。盗みにはあらで、いたうこそ、ふりなりつれ」と仰せらるも、めづらしきことにはあらねど、いみじうぞめでたき。

 

 

関白殿、二月二十一日に⑦ ~御前の桜~

 二条の宮の前庭の(造花の!)桜は露に濡れてもその風情が良くなるわけでもなく、太陽の光とかに当たってしぼんじゃって見た目が悪くなっちゃうのでさえ残念なのに、雨が夜降った翌朝はすごくみっともないわ。とても早く起きて「泣いて別れたっていう顔に比べたら、この雨に濡れた桜は見劣りするわね」って言ったのを定子さまがお聞きになって、「ほんと、雨が降ってる気配がしてたわね。桜はどうなってるかしら?」って目を覚まされた時、関白殿のお屋敷のほうから警固スタッフや仕えてる者がたくさんやって来て花のところにどんどん寄ってたかって来て、引き倒して取って、こっそり持って行くの。
 「『まだ暗いうちにね』とおっしゃってたじゃないか。明るくなりすぎだよ、やばいよ、早く早く!」って倒し取るのにすごくいかしてる感じがあってね。「言はば言はなむ(文句があるなら言ったらいいよ)」って源兼澄(かねずみ)の歌を思って踏まえた上でそんなことするの??って、身分の高い人なら言いたいところなんだけど、「あの花を盗むのはだれ? ダメよ…」
って言うと、ますます急いで桜を引っ張って逃げて行ったの。でもやっぱり関白・道隆さまのお心は素晴らしくていらっしゃるわ。(造花を持って行かなかったら)枝なんかも造花が濡れてからみついて、どれだけ見苦しい様子になってたことでしょ?って思うの。それで私はとやかく言わないで部屋に入ったのよ。


----------訳者の戯言---------

この段の最初に出てきましたが、お屋敷の前にある桜の花はよくできた造花でしたね。

「泣きて別れけむ顔に心劣りこそすれ(泣いて別れたっていう顔に比べたら、この雨に濡れた桜は見劣りするね)」は、

桜花露に濡れたる顔見れば 泣きて別れし人ぞこひしき
(桜の花の露に濡れた花の表情を見てたら、泣いて別れた人が偲ばれて恋しくなってくるんだよ)

という歌から取って来ているようですね。「拾遺集」という歌集にある詠み人知らずの歌です。さすが清少納言、守備範囲広いですね。当時の一般常識なんですか?

そして「言はば言はなむ」というのは、この歌↓から。

山守は言はば言はなむ高砂の 尾上の桜折りてかざさむ
(山の番人は文句があるなら言ったらいいよ。峰の桜を今日は折り取ってかざそう)

調べたところ、後撰集に載っている素性法師という人の歌です。残念なのは、清少納言が源兼澄(みなもとのかねずみ)作の歌と間違っているところです。惜しい。


ところで桜の花を引き倒して取る、というのはどういう行為でしょうか? そんな手荒なことを…と思うのは私だけか? いや、やっぱまずいでしょ。中宮の別邸だぞ。

そしてこれまた清少納言、やはり身分が賤しい者、教養のない者を見下します。が、意外と好意的でもあり、それは関白・道隆の指示を受けたスタッフだからであって。なかなか狡いです。
自身の知識自慢を交えつつ、身分の低いものを見下しつつ、定子、および道隆を賞賛しまくる段ということになりそうないつもの清少納言の文章が進みます。まだまだ長いですが、⑧に続きます。


【原文】

 御前の桜、露に色はまさらで、日などにあたりてしぼみ、わろくなるだに口惜しきに、雨の夜降りたるつとめて、いみじくむとくなり。いととう起きて「泣きて別れけむ顔に心劣りこそすれ」といふを聞かせ給ひて、「げに雨降るけはひしつるぞかし。いかならむ」とて、おどろかせ給ふほどに、殿の御かたより侍の者ども、下衆など、あまた来て、花の下(もと)にただ寄りに寄りて、引き倒し取りてみそかに行く。「『まだ暗からむに』とこそ仰せられつれ。明け過ぎにけり。ふびんなるわざかな。とくとく」と倒しとるに、いとをかし。「言はば言はなむ」と、兼澄がことを思ひたるにやとも、よき人ならば言はまほしけれど、「彼の花盗むは誰ぞ。あしかめり」といへば、いとど逃げて、引きもて往ぬ。なほ殿の御心はをかしうおはすかし。枝どももぬれまつはれつきて、いかにびんなき形ならましと思ふ。ともかくも言はで入りぬ。