枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

蟻通の明神② ~唐土の帝~

 中国の皇帝がこの国の帝を何とかして騙して日本を征服しようって、いつも試し事をして、争い事をしかけてきてはプレッシャーをかけてこられるんだけど、ツヤツヤしてて丸くってキレイに削った木の二尺(約60cm)ほどあるのを、「これの上っ側と最後尾『末』ってどっちかわかる?」って問いかけて献上してきて。でも全然知るすべがなくって、帝が思い悩んでいらっしゃるもんだから、気の毒になって、親のところに行って、「これこれこういうことがあるんだよ」って言うと、「ただ流れが速い川に立ったままで横向きに投げ入れたら、向きを変えて流れて行く方を『末』って書いて送りなさい」って教えたの。帝のところに参上して、自分がわかってるかのような顔で「さあ、やってみましょう」って人と一緒に行って投げ入れたんだけど、先に進んだほうに『末』印をつけて、それを返事として遣わせたの、ホントにその通りだったのよね。


----------訳者の戯言---------

一尺≒30.30303030303…cmです。
約60cmですからまあまあのデカさの木の棒みたいなものです。何なんでしょね。ボウリングのピンみたいな感じかな? 何に使うモノ?

しかし、中国の皇帝も意地悪ってうか、変なクイズみたいなの出してきますね。こういうワケのわからない問題出して答えられなかったら征服、みたいなのってフェアじゃないと思うんですが、どうなんでしょう? その頃の力関係を物語っているというか、やっぱり東の端っこのちっちゃい島国ってことで小馬鹿にしてたんでしょうね。

さて、その中将とやらの両親は本当にその木の棒的なモノのことを知ってたんでしょうか。
何となく年寄りの知恵や知識をないがしろにするなよっていうエエ話になりそうな予感もしつつ、③に続きます。


【原文】

 唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ち取らむとて、常に試みごとをし、あらがひごとをしておそり(=恐れさせ)給ひけるに、つやつやとまろにうつくしげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかた」と問ひに奉りたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうの事なむある」といへば、「ただ、速からむ川に、立ちながら横さまに投げ入れて、返りて流れむかたを末と記(しる)して遣はせ」と教ふ。参りて、我が知り顔に、「さて試み侍らむ」とて、人と具して、投げ入れたるに、先にして行くかたにしるしをつけて遣はしたれば、まことにさなりけり。

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

  • 発売日: 2015/03/17
  • メディア: 単行本
 

 

蟻通の明神①

 蟻通(ありとおし)の明神は、紀貫之の馬が倒れた時、この明神が病気になさったのだって歌を詠んで奉納したっていうの、すごくいかしてるわよね。

 じゃあこの蟻通っていう名前をつけたお話は、本当だったのかしら?? 昔いらっしゃった帝が、ただ若い人だけを重用して40歳になった人は殺してしまわれたもんだから、それぐらいの年齢の人は遠い国に行って隠れたりなんかして、都にはそんな年寄りはいなくなったのね。中将ですごく評価も高くって聡明だった人に70歳近い両親がいて、昨今40歳でさえ処罰されるっていうのに、ましてやこの歳なんだからもっとおそろしい!!って両親は怖がって騒ぐんだけど、その人はすごく親孝行な人なもんだから、その親を遠い所には住ませないでおこう、一日に一回必ず見ないではいられないって、秘かに家の中の土を掘って、その中に小屋を建てて隠して住まわせて、いつも行って会ってたの。
 まわりの人にも、朝廷に対しても、姿を隠してしまったってこと、知らせてはあったのね。どうしてかしらね?(帝だって)家に引き籠っている人なんて知らないままになさっておけばいいのに。ヤな時代だったのよ! この親は上達部なんかではなかったのかな、その歳で子供が中将というのではね。でも両親もすごく賢明で、いろんなことを知ってたから、で、この中将も若いんだけどすごく評判がよくって、思慮深くてね、帝も目をかけていらっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

蟻通(ありとおし)の明神というのは、大阪府泉佐野市長滝にある蟻通神社(ありとおしじんじゃ)のことだそうです。


紀貫之がこの神社を通過する途中、馬が倒れた時に、和歌を詠んで難を逃れたという逸話があるらしいですね。

かきくもりあやめも知らぬ大ぞらに 在りと星(ありとほし=蟻通)をば思ふべしやは
(かき曇ってものの区別もつかない大空に、星があるなんて思うはずあるでしょうか? いや思いもしなかったんですよー)

意訳としては、「空が雲ってて星がどこにあるかわからなくって、ここが蟻通の神様の神域とも知らないで、馬を乗り入れてしまいました…その罪をお許しください」ということらしい。和歌が神の御心を鎮めたというお話です。


それとは別に。ということでしょうか。清少納言、もう一つ自分の知ってる「蟻通」という名前になった由来のお話、本当なのかな?と語り始めました。

帝は若い人は重用するけど40歳になったら殺しちゃうという超若手主義。今の政界の老害には目もあてられませんが、完全にその逆で、しかも老人は殺してしまうというトンデモなトップです。もうちょっとこう、老若男女適材適所のバランスのとれた人事はできないものでしょうか。これまでに社会に貢献された高齢者は、殺すとかでなくリタイアでいいと思いますよ。まじで。

それに対して自分の70歳近い両親を、小屋を作ってそこに隠れて住まわせる孝行息子の中将。

さてどういう話に進展するのでしょうか。②に続きます。


【原文】

 蟻通(ありどほし)の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌よみ奉りけむ、いとをかし。この蟻通しとつけけるは、まことにやありけむ、昔おはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十(よそぢ)になりぬるをば、失なはせ給ひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者のなかりけるに、中将なりける人の、いみじう時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十(ななそぢ)近き親二人を持たるに、かう四十をだに制することにまいておそろしと怖(お)ぢ騒ぐに、いみじく孝(けう)なる人にて、遠き所に住ませじ、一日(ひとひ)に一たび見ではえあるまじとて、みそかに家のうちの地(つち)を掘りて、そのうちに屋をたてて、籠め据ゑて、行きつつ見る。人にも、おほやけにも、失せ隠れにたる由を知らせてあり。などか、家に入り居たらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。この親は上達部などにはあらぬにやありけむ、中将などを子にて持たりけるは。心いとかしこう、よろづの事知りたりければ、この中将も若けれど、いと聞こえあり、いたりかしこくして、時の人におぼすなりけり。

 

 

社は

社(やしろ)っていうと、布留(ふる)の社。生田(いくた)の社。丹比(たび)の御社(みやしろ)。花ふちの社。杉の御社は、霊験(れいげん)があるのかな?って思ったら、いい感じに思えるわ。ことのままの明神はすごく頼もしいわね。でも「そんな風に聞いてくださるなら…」ってみんなからお言われなさったら、って思うと気の毒になっちゃうわ。


----------訳者の戯言---------

社(やしろ)というのは神をまつる建物。神社のことです。

布留(ふる)の社は奈良県天理市布留町にあります。今は石上神宮(いそのかみじんぐう)と言われています。

生田(いくた)の社は兵庫県神戸市中央区にある生田神社です。三宮から歩いて行けますね。藤原紀香と陣内の結婚式があった超メジャーな神社です。いつの話やねん、どんだけ前やねん、とは思いますが。というわけで、この神社での結婚式とコブクロの「永遠にともに」はなかなか縁起悪いものとなっています。「永遠にともに」はまじライブでは封印してましたしね。今はどうなってるんでしょうか?


原文に「旅の御社」とあるのは、御旅所とする説があります。御旅所というのは、神社の祭礼で神様(神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩とか宿泊をする場所をさして言うようです。
もう一つ有力なのが丹比(たび)の御社として、今の大阪府堺市美原区多治井にある丹比神社のこととする説です。固有名詞が並ぶ中で、御旅所が突然出てくるのは不自然ですから、どちらかというと私も丹比神社のほうがしっくりきますけれども。


花ふちの社というのは、現在、宮城県宮城郡七ヶ浜町にある鼻節神社(はなぶしじんじゃ)のことだそうです。鼻節というと字も読みも違いますが、七ヶ浜町には文字通り7つの浜=集落があるようで、その一つに花淵浜というエリアがあり、そこに鎮座しているらしいです。花ふちというのは地名のほうなんですね。

杉の御社は奈良県桜井市三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)のことだそうですね。
三輪山というのはこの神社のご神体であって、この山の古杉は「みわの神杉」とも言われています。当時から有名だったんでしょうね。

ことのままの明神というのは、静岡県掛川市八坂にある事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)のことだそうです。「ことのまま」という名前が「願い事が意のままに叶う」の意味を持っているため、多くの人が願い事成就のために訪れたんですね。

ここでよくわからなかったのが「さのみ聞きけむ」です。と思って調べてみると古今集の歌が元ネタのようですね。

ねぎごとを さのみ聞きけむ 社こそ はてはなげきの 森となるらめ
(お願い事をそんなにたくさん聞いてくださるなら 最後にはその人たちの嘆きが森になるでしょうね)

あんまりたくさんの人が期待して願をかけ過ぎると、神様の負担になって気の毒だわね、ぐらいの感じでしょうか。


「イイ感じの神社はココ!」ですね。しかし神社なんかめちゃくちゃいっぱいありますよ。
2020年、現代の話ですが、神社の数って8万数千とか、数え方によっては10万超とか言われてます。お寺は7万7千とからしいですね。神社のほうが圧倒的に多いんです。ちなみにコンビニが5万8千店とかでまだ6万にも達してませんから、いかに神社がすごいかってことですよ。ただ、寺社は無人とかのものもありますからね、単純に比較していいのかわかりませんが。

では、唐突ですがスマホの時代になって激減した公衆電話はどれくらいあるのでしょうか?
約15万だそうです。ですから、公衆電話、神社、寺、コンビニの順です。
居酒屋も7万軒ぐらいあるそうです。ただ、残念ですがコロナの影響で少し減ったかもしれません。

そうなると、①公衆電話 ②神社 ③寺 ④居酒屋 ⑤コンビニ の順になりますね。神社は2位ですね。コンビニが意外にも最下位になりました。

結論。
公衆電話、堂々のチャンピオンです。


【原文】

 社は 布留の社。生田の社。旅の御社。花ふちの社。杉の御社は、しるしやあらむとをかし。ことのままの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」とや言はれ給はむ、と思ふぞいとほしき。

 

 

駅は

 駅(うまや)は。梨原(なしはら)。望月の駅。野磨(やま)の駅は、しみじみいい話があったのを聞いてたんだけど、またしんみりしちゃう切ない出来事があったから、やっぱりいろんなことを考え合わせてしみじみ感動しちゃうの。


----------訳者の戯言---------

駅と書いて「うまや」と読むそうです。
駅馬を置き、駅使(えきし/うまやづかい/はゆまづかい)に食料や人馬を供する駅長や駅子(えきし)という人たちがいたというところで、財源として駅田が給与されたらしいですね。民間ではなくて、国営ですから利用できる人も限られてますが、レンタカーとかレンタサイクルとかのステーションというか、ドライブインやパーキングエリア的な施設といった感じでしょうか。
駅使(えきし/うまやづかい/はゆまづかい)というのは、駅鈴というものを朝廷から下付されて、駅馬や駅家を利用することを許された公用の使者のことなんだそうです。

「駅」というと馬ヘンですから、元々はそうだったのかなーとは思えますが、私などは感覚的には、もうずっとあの鉄道の駅(えき)ですからね。駅と言えば列車に乗るところですものね、現代の都市生活においてはほぼ電車の駅。地方ではディーゼル機関車、時代を遡れば蒸気機関車もありましたが、それでも馬とはダイレクトにつながりません。
そうそう蒸気機関車といえば、「鬼滅の刃 無限列車編」遅ればせながらようやく見てきました。良かったですよ。

さて。それはいいとして、今は道の駅というものもあって、これなどは自動車ですからね。ただ、道の駅というのは道路沿いにありますから、案外昔の馬のほうの駅(うまや)に近いのかもしれません。

駅(うまや)は律令制で諸道の30里(約16km)ごとに置かれた施設らしいです。私のこれまでの知識では1里=約4km(調べたところ約3927.273m)なんですが、全然違いますね。当時の1里はおよそ533.5mだったそうです。違いすぎるわ!
というわけで、駅。宿場町みたいなものに近いのでしょうか。


梨原という地名は、近江国にあったようです。平安時代の郷名は栗太(くりもと)郡で、現在の草津市にあった場所のようです。「和名類聚抄」という平安時代に編纂された辞書に「梨原 奈之波良」とあるらしいですね。


望月の駅というのは、信濃国の「望月の牧」のことを言っているのだそうです。信濃というのはご存じのとおり今の長野県あたりで、信州とかとも言いますね。信州味噌とか信州そばとか有名です。ちなみに私は更科そば派です。関係ないですが。

望月の牧でしたね。「牧」というのは言うまでもなく牧場のことです。望月の牧というのは、今は長野県佐久市望月という地名がありますが、そこにあったようですね。勅旨牧(ちょくしまき)と言って、奈良時代天皇の勅旨により開発が始まった牧場があって、朝廷で使う馬などの供給源とされたそうですが、その一つだったようですね。

逢坂の関の清水に影見えて 今やひくらむ望月の駒
(逢坂の関のあたりの泉の澄んだ水に姿を映しながら今、引かれてるのかな?望月の牧の馬が)

という紀貫之の歌がありました。
毎年旧暦8月15日の満月(望月)の日に、育てた馬を朝廷に献上していたこと、また、このエリアを治めていた地方の豪族が望月氏だったとか、そういう由来があるようです。
ただし、調べてみても望月の牧のあった場所、つまり望月という地域に「駅(うまや)」もあったということは確認できませんでした。清少納言が「馬つながり」で「駅」と「牧」を混同した可能性はありますね。

清少納言はこれまでにもあったように、本人は行ったことはないけれど、名歌に出てくる情景や歌枕から想像して、あるいは語感から、地名を書き連ねる癖がある人ですから、紀貫之の歌を見て望月の馬、望月の駅っっていいわ~と思ったのかもしれません。


やまの駅は、播磨国の野磨(やま)というところにあった駅らしいです。播州赤穂というところですね。あの忠臣蔵浅野内匠頭が治めていたという赤穂です、塩で有名な。野磨の駅は、兵庫県赤穂郡上郡町落地というところに跡地が残っているようです。
今昔物語集」にある説話にこの野磨の駅が出てくるんですね。ここに棲んでいた毒蛇が聖人の読んだ法華経の功徳で人に転生し僧侶になった、という話があったのです。これが「あはれ」な話の一つです。

「あはれ」という感情は、「しみじみとした感動・情趣」などとも言われたりするんですが、どういった感覚、感情、心持ちなのか、言い表すのがなかなか難しいですね。今っぽく言うと、「エモい」という感じかもしれませんが。私自身、完璧に理解できているかというと、怪しいものです。寂寥感、もの悲しさ、切なさを表したりもしてるようにも思いますしね。いずれもポジティブ感のない感動、しかしだからといって、風情が感じられなくもないんですね。
カワイソだけど素敵。悲しいけど風情がある。切ないけどしみじみ感動。そういう複雑な気分かと思います。

清少納言は、野磨の駅の毒蛇の説話を知っていたのでしょう。で、またもやしんみりしちゃう切ない出来事があったと。
その、「またもやあったこと」が何なのか、清少納言もちゃんと書いてくれればいいんですが、何かよくわからないんですね、この部分。ふわっとしているというか、わざと持って回ったような書き方していて、非常にわかりづらいです。何なんこれ?

と思って調べてたところ、定子の兄・伊周が太宰府に権帥として出向く時、すなわち左遷の道中に、野磨の駅で母・高階貴子の訃報を受け取ったのだという説がありました。なるほど、定子付きの清少納言としては、中関白家のヒーローのはずであった伊周が政争に敗れ意気消沈、さらに母の死という不幸が追い打ちをかけてやってくるというエモい出来事があったというわけです。それで清少納言もハッキリとは書けなかったんですね。

関係はないんですが、なんでも「エモい」で片づけてはいけませんね。非常に便利だし、雰囲気のある形容詞なんですが、これは読み取る側にかなりセンスが求められる語でもあると思います。受け手の感性を磨くにはいいかもしれません。逆に使う側は、あまり使い慣れ過ぎると表現力が乏しくなりそうな懸念、デメリットもあります。

話が逸れましたが、そういうわけで、清少納言がしんみりしちゃった駅、の話でした。しかしちょっと、あはれ、あはれ、言い過ぎだと思います、はい。


【原文】

 駅は 梨原(なしはら)。望月の駅。やまの駅は、あはれなりしことを聞きおきたりしに、またもあはれなることのありしかば、なほ取りあつめてあはれなり。

 

 

清水にこもりたりしに

 清水寺に籠ってた時に定子さまがわざわざお使いを寄越されて、お手紙をいただいたんだけど、唐の紙の赤っぽいのに仮名書きで、

「山ちかき入相(いりあひ)の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらむ
(山に近いお寺の夕暮れの鐘の音が一つ鳴るごとに、あなたを恋しく想う心の数がわかるでしょ?)

なのに、ずいぶん長いことそっちに滞在してるのね」ってお書きになってるの。紙とか、いいかげんっぽくないものも、持ってくるのを忘れてた旅行だったから、紫色の蓮の花びらに、歌を書いてお返し差し上げたのね。


----------訳者の戯言---------

唐の紙というのは、中国製、メイド・イン・チャイナなのだと思います。当時の中国製はクオリティの高い高級品だったのではないでしょうか。

原文にある「草」というのは草書というか、仮名文字で、っていうことらしいです。万葉仮名のことだそうですね。

入相(いりあい)。夕暮れのことをこう言ったらしいです。日が山の端に入る頃で入相と表現したのですね。入相の鐘というのも慣用的に使われたようです。

原文に「なのめげならぬ」とあります。原形は「なのめげなり」ですね。元々「なのめなり」っていうのは、」「いいかげんな」「テキトーな」っていう感じの言葉です。「げ」は「気」ですから、~っぽいというニュアンスが加わります。なので、「なのめげならぬ」だと「いいかげんっぽくはない~」になるのでしょう。

赤い唐の紙が夕焼けを模しているのでしょうね。
「そっちで夕暮れのお寺の鐘が鳴るたびに、私があなたのことを想ってるの、わかるでしょ?」
もはや恋人へのラブレターかと思うような歌です。前段に続いて定子の気持ちも相当弱っている感じもします。しばらく会ってないと気持ちが募る、という感じですね。

散華(さんげ)と言って、寺院で法要が行われる時に、仏様を供養するために花が撒かれたんだそうです。元々は蓮とか生花が使われましたが、そのうち蓮の形をかたどった色紙が代用されるようになったということなんですね。奈良の東大寺正倉院に残っているそうですから、その頃にはあったのでしょう。もちろん、今もこの散華の花びらはあります。大きさ的には8.5~9cm×7cmぐらいです。A7判よりもちょっと小さいですね。キャッシュカードよりは一回り大きいでしょうか。ま、それぐらいの花びら形の紙です。

定子さまの切ない気持ちを感じ取って、適当な紙がないけど、その紫色の散華の花びらをメッセージカードにして歌を書いて返したと。そんなところです。なんか、つらーい感じの段が続いてます。ツッコミどころも少ないですね。


【原文】

 清水にこもりたりしに、わざと御使して賜はせたりし、唐の紙の赤みたるに、草(さう)にて、

  「山ちかき入相(いりあひ)の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらむ

ものを、こよなの長居や」とぞ書かせ給へる。紙などのなのめげならぬも、取り忘れたる旅にて、紫なる蓮の花びらに書きてまゐらす。

 

枕草子 いとめでたし!

枕草子 いとめでたし!

 

 

御乳母の大輔の命婦

 御乳母の大輔の命婦(たいふのみょうぶ)が日向の国へ下る際に、定子さまがお授けになった扇の中に、片面は日光が明るくのどかに射してる田舎の館なんかがたくさん描かれて、もう片方の面には京のしかるべき所で雨がひどく降ってるのが描かれてて、

あかねさす日に向かひても思ひ出でよ 都は晴れぬながめすらむと
(日向の国に行って明るい陽射しに向かってても思い出してね、都では晴れることなく長雨を眺めて私が寂しく暮らしてるんだろうって)

って、ご自分でお書きになったの、とてもとっても切なくって。お仕えしてるこの方を見捨てて行ってしまうなんて、できないでしょ!?


----------訳者の戯言---------

御乳母(おんめのと)。昔は特に貴人の場合は、乳児に母親に代わって乳を与える乳母を召し使ったようですね。 身分の高い人は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えがあったり、しっかりとした女性に任せたほうが教育上もいいという考えもあって、乳離れした後で母親に代わって子育てを行う人のことも乳母と言いました。

「大輔の命婦(たいふのみょうぶ)」というのは、女房名だと思います。
以前、「小白河といふ所は①」等でも書きましたが、女房の名は「~の式部さんとこの妹さん」「~~の少納言さんとこの娘さん」「~の乳母さん」「~~の衛門さんの娘さん」的に名前がつくられたようで、たとえば紫式部は、式部省の官僚であった父(もしくは親戚)がいたから、とか、和泉式部は父が式部丞だったから、とか、赤染衛門は父が右衛門尉であったとか、でした。

「大輔の命婦」も、父親か親族が八省(中務省/式部省/治部省/民部省/兵部省/刑部省/大蔵省/宮内省)のいずれかで大輔(次官)の役職にあったのでしょう。自身は命婦(五位以上の女官の総称)だったので、この名が付いたのだと思われます。


日向は今の宮崎県あたりにあった国です。日向坂46とかではないですよ。ちなみに日向坂は「ひなたざか」と読みます。元「けやき坂」なんですが。どうでもいいですね。ネーミングの由来は港区にある「日向坂=ひゅうがざか」らしいですけど。大輔の命婦も日向坂46に入るとかだったらまだいいんですけど。センターかフロントで。

いやいやそういうことではありません。むしろ定子さまユニットCGT卒業なんですよね。
日向へ下るというと、どっちかというと都落ちのイメージがあります。夫とかが地方官になったのかもしれませんね。落ち目の定子サロンにいるよりも、堅実な地方官の妻としての前途を選んだということなのでしょう。中宮の乳母が地方に下るというのは、中関白家凋落の象徴的出来事なんですね。


そして、定子の詠んだ「あかねさす日に向かひても思ひ出でよ 都は晴れぬながめすらむと」です。
「あかねさす」は「日」の枕詞。「日に向かう」と下向先の「日向」を表しています。「眺め」と「長雨」も掛かっていますね。かなりダイレクトに意気消沈している様子が伺えます。もはや、やせ我慢をしたり、気丈に振舞ったりも全くしていません。ヘロヘロに凹んでます。前段もそうでしたが、完全に弱り切っている様子です。

清少納言からすると、この扇の絵と歌を見たら、定子さまを見捨てて行くなんて、普通できないでしょ? 私は絶対にしないわ!という、乳母=大輔の命婦に対するdisりです。そして自分はずっと定子さまにご一緒するわという決意表明ですね。

中関白家が落ち目になって定子さまも追いやられて、大進の平生昌邸に身を寄せていた時期のことです。清少納言的にはこれまであまり悲惨な部分を、特に定子については見せていませんでしたが、前の段と言いこの段と言い、率直に描いていますね。ほぼリアルタイムで書いているのか、述懐してるのかは知りませんが、かなり感傷的になっているなーと思います。


【原文】

 御乳母の大輔(たいふ)の命婦、日向へ下るに、賜はする扇どもの中に、片つ方は日いとうららかにさしたる田舎の館(たち)などおほくして、今片つ方は京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、

  あかねさす日に向かひても思ひ出でよ都は晴れぬながめすらむと

と御手にて書かせ給へる、いみじうあはれなり。さる君を見おき奉りてこそえ行くまじけれ。

 

 

三条の宮におはします頃

 三条の宮殿に定子さまがいらっしゃった頃、五月五日の菖蒲の輿なんかを持ってやってきて、薬玉を献上したりするの。
 若い女房たちや御匣殿(みくしげどの)とかは、薬玉を姫宮や若宮のお着物にお付けなさってらっしゃって。とってもいい感じの薬玉が他のところからも献上されて、青挿(あおざし)っていうものも持ってきてたの、それを青い薄様の紙をおしゃれな硯箱の蓋に敷いて、「これがませ越し(ませごし)でございます」って定子さまにご覧に入れたら、

みな人の花や蝶やと急ぐ日もわが心をば君ぞ知りける
(人がみんな花や蝶やと浮かれてるこんな日にだって、私の気持ちをあなたはよくわかってるのよね)

って、その青い薄様の紙の端をお破りになって、お書きになったのね、すごく素晴らしいわ。


----------訳者の戯言---------

菖蒲の輿(そうぶのこし/あやめのこし)。平安時代とかには五月五日の端午の節会 (せちえ)の時、輿に菖蒲(しょうぶ)を盛って宮中の御殿の軒先なんかに飾ったらしいです。それのことなんですね。

薬玉(くすだま)というのは、やはりこの日、五月五日に邪気をはらうために、御帳の柱やカーテンとかにかけた玉だそうです。ここではお子様の衣服にも付けたように書かれていますから、そういうこともしたんでしょうね。麝香(じゃこう)などの香料を錦の袋に入れて、菖蒲や蓬とかで飾って、五色の糸を垂らしたような玉なんだとか。で、この薬玉は御帳には秋まで飾られてて九月九日に菊に取り換えられたらしいです。

薬玉をつくっていたのは、中務省(なかつかさしょう)の縫殿寮(ぬいどのりょう)に属してる糸所(いとどころ)という役所だったそうです。本来、糸所の主な仕事は糸を紡ぐことで、多くの女官が働いていたらしいですね。で、この端午(菖蒲)の節句には、この糸所から献上される菖蒲や蓬の薬玉を女蔵人(にょくろうど)の中から選任されたあやめの蔵人(菖蒲の蔵人)が、親王や公卿をはじめ臣下に分けて配ったらしいです。
ただ、この段では別のところからも献上されたようですから、必ずしも糸所メイドのものだけでもなさそうです。

御匣殿(みくしげどの)というのは、この時は中宮定子の妹君でしたね。
この時代は中務省の内蔵寮(くらりょう)という役所で朝廷の金銀、財宝や衣服なんかを倉庫に収納したり管理したそうですが、そこが調進する以外に、天皇の衣服などの裁縫をする所があって、これを「御匣殿」と言ったらしいです。また、この御匣殿の女官の長(別当)のことを御匣殿と呼んだらしいんですね。
で、この御匣殿別当が女御(にょうご)や東宮妃などになることもあったのだそうです。

青刺(あおざし)。しかし、「青刺」でググりますと、全然出てきません。いきなり「刺青」ばっか出てきます。入れ墨、タトゥーの意味の「刺青」ですね。「刺青」を今は「いれずみ」と読むことが多いですが、元々は「しせい」ですからね、谷崎潤一郎の「刺青」は「しせい」ですから、しせい! 
で、ひらがな「あおざし」でGoogle先生に聞いてみますと、お菓子なんだそうです。しかも、書物ではこの枕草子のこの段が日本のお菓子に関する記述の最初なんだそうですね。そういや菓子って昔は果物のことでしたものね。果物ではなく、今で言うまさにお菓子的なお菓子のオリジンがこの「あおざし」なのでしょうか。

またまた調べると「青挿/青稜子」というものがあるらしく「炒った青麦の穂を臼で挽いて粘りを出し、撚って糸状にした菓子」だそうです。歳時記にありました。夏の季語らしいです。というわけで、当時もこんなお菓子だったのかどうかはわかりませんがお菓子であることには違いなさそうです。

ませ越し。笆越し(ませごし)、籬(ませ)とも書くようです。「ませ」というのは籬垣(ませがき)のことを指すことが多いようですね。
籬垣は竹や柴 (しば) などを粗く編んでつくった低い垣のことを言うそうです。「ませ越し(笆越し/籬越し)」はこの籬垣を越えて何か事をすることなんですね。物を受け渡すとか。

この「ませ越し」の元ネタはこの↓和歌だそうです。

ませ越しに麦はむ駒のはつはつに及ばぬ恋もわれはするかな(古今和歌六帖)
(ませ垣越しに麦を食べている馬は口が届かないから少しずつしか食べられない、そんな、まどろっこしく叶わない恋を私はしているんだよね)

この「これがませ越し(ませごし)でございます」と差し入れた「あおざし」に定子はすごく感激して、「あなただけは私の気持ちをわかってくれるのね」と返したんですね。

この段の出来事は、長保2年(1000年)、中宮だった定子が皇后になった年のことだそうです。内親王親王はすでにいて、3人目の子ども(媄子内親王)を懐妊している時でした。ただ、皇后になったのは権勢を振るう藤原道長が娘の彰子を強引に一条天皇中宮にしたからであって、皇后と言えども仲の良かった一条天皇からは引き離され、気も沈んで日々泣いて暮らしていたとも言われています。

「みんな、彰子(道長)の権勢に『花や蝶や』となびいて行く時世の中で、あなただけは私を気持ちを理解してくれてるのよね」と言いたかったのか、あるいは「今いる子どもたちや今日の節句に『花や蝶や』と楽しそうに見えるけど、あなただけはこの食事も喉を通らない私の状況をわかってくれてるのね」と思ったのか、もしくはその両方をも含めた複雑な感情だったのかもしれません。
懐妊中、精神的にだけではなく、つわりで体調も良くない状態です。当然食も細っていたのでしょう。
清少納言が「せめてわずかでも」という気持ちを添えて、目先を変えた、素朴だけれど食べやすいお菓子を差し上げたその心遣いに感激したと見るべきでしょうね。

定子さまを称えながら、自分の気遣いを何気に自慢。いや、そこまで言うのは、いくら何でも失礼ですね。自慢って言うよりも、清少納言、定子さま好き過ぎ、それはわかります。仕方ないか。


【原文】

 三条の宮におはします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉参らせなどす。

 若き人々、御匣殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉らせ給ふ。いとをかしき薬玉ども、ほかより参らせたるに、青刺(あをざし)といふ物を持て来たるを、青き薄様を艶なる硯の蓋に敷きて、「これ、笆(ませ)越しに候ふ」とて参らせたれば、

  みな人の花や蝶やと急ぐ日もわが心をば君ぞ知りける

 この紙の端を引き破(や)らせ給ひて書かせ給へる、いとめでたし。

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫