枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

殿などのおはしまさで後③ ~例ならず仰せ言などもなくて~

 いつもとは違ってお手紙もいただかずに何日も経ったから、心細くてぼうっとしてたら、長女(おさめ)が手紙を持ってきたの。「定子さまから、宰相の君を通して、こっそりと賜ったものです」って言って、ここに来てさえ、人目を避けようとしてるのってあんまりだわ。人を使って書かせた手紙じゃないんだろうなって、胸をドキドキさせながら急いで開けたら、紙には何も書いていらっしゃらず、山吹の花びら、たった一片だけお包みになっていらっしゃるの。それに、「言はで思ふぞ(言わずに、思ってる)」ってお書きになってるの、すごく感激で、この何日間かご無沙汰で悲しかった気持ちも、全部慰められてうれしい私を、長女も見守って、「定子さまにあっては、どんなにか、何かにつけて思い出していらっしゃるそうですのに。女房のみなさんも誰もが何でこんなに長い間里帰りしてるのか、って思ってますよ。どうして参上なさらないんです??」って言って、「この近所にほんのちょっと行ってから、また伺いましょうかね」と言って帰った後、その間にお返事を書いて差し上げようって思ったんだけど、この「言はで思ふぞ」の歌の上の句をまったく忘れてしまってたのよね。「めちゃくちゃ不思議だわ。同じ古歌って言いながら、こんな有名なのを知らない人っている?? ここまで出て来てる感じなんだけど、口から出てこないのは、どうしてなのかしら!?」なんて私が言うのを聞いて、小っちゃい女の子が前にいたんだけど、「『下行く水』って申しますよ!」って言ったの、どうしてこんなに忘れてたんでしょう。こんな小さな子に教えられるのも、おもしろいことだわね。


----------訳者の戯言---------

長女(おさめ)というのは、宮中で雑用などにあたった下級の女官。専領(おさめ)とも書くようです。

宰相の君は、この段の①で出てきた、同僚女房、宰相の君ですね。

清少納言が忘れてしまって、ここまで出てきてるんだけどどうしても思い出せなかったっていうのは、「古今和歌六帖」の第五帖に撰入されてる下の歌だったようです。

心には 下行く水の わきかへり 言はで思ふぞ 言ふにまされる
(心の中には地下水がわき返ってる 言わないで思ってるけれど 言うよりもっと深い気持ちなんです)

例によって、清少納言中宮定子の相思相愛エピソードになってきましたね。
④に続きます。


【原文】

 例ならず仰せ言などもなくて日頃になれば、心細くてうちながむるほどに、長女文を持て来たり。「御前より、宰相の君して、忍びてたまはせたりつる」といひて、ここにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれてとく開けたれば、紙にはものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重をつつませ給へり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日頃の絶え間嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女もうちまもりて、「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」といひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」といひて往ぬる後、御返りごと書きて参らせむとするに、この歌の本さらに忘れたり。「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」などいふを聞きて、小さき童の前にゐたるが、「『下ゆく水』とこそ申せ」といひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるるもをかし。

 

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

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殿などのおはしまさで後② ~げにいかならむと~

 ほんと、私のことをどう考えていらっしゃるんだろ?って、ご推察申し上げてた…そんな中宮様のご機嫌を損ねたワケじゃなくてね、側に侍ってる女房たちなんかが、「彼女は左大臣道長)派の人たちと、親しい間柄なのよ」って言って、みんなで集まって話してる時だって、私が下の局から参上してくる様子を見たら、急にしゃべるのをやめて、私を仲間外れにする雰囲気がそれまで経験したこともなくヤだったから、定子さまから「参上しなさい」なんて、何度も何度もいただいたお言葉をスルーしちゃって、本当に長い時間が過ぎてね、それでまた定子さまの周辺じゃ、完全に敵方の者のように仕立て上げられて、事実無根の作り話まで出てきちゃったみたいなのよね。


----------訳者の戯言---------

左の大殿(おおとの)というのは、左大臣のことだそうです。当時の左大臣藤原道長。何度か書きましたが、道隆の亡き後、道隆の子で定子の兄、藤原伊周と権力争いをした人です。

たしかに清少納言藤原道長と親しい関係にあったんじゃないか、とも言われていて、「関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて②」にも、私、少し書いたんですが、それが誤解されてか、中関白家の派閥、つまりここで出てきたように定子に仕える女房たちなんかからもいろいろ言われたのでしょう。実家に引き籠ってしまったようですね。ちょうど、その話が本人の筆によってリアルに描かれているのがこの段、この部分ということになりそうです。

さて、清少納言は定子の元に戻るのでしょうか、それとも??
③に続きます。


【原文】

 げにいかならむと思ひ参らする。御けしきにはあらで、候ふ人たちなどの、「左の大殿(おほとの)がたの人、知るすぢにてあり」とて、さしつどひものなどいふも、下より参る見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ、「参れ」など、たびたびある仰せ言をも過ぐして、げに久しくなりにけるを、また宮の辺(へん)には、ただあなた方に言ひなして、そら言なども出で来べし。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

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殿などのおはしまさで後①

 関白殿(道隆さま)がお亡くなりになった後、世間では事件が起こり、騒がしくなって、定子さまも宮中に参内なさらなくって、小二条殿っていう所にいらっしゃるんだけど、なんとなく、ますますヤな感じなものだから、私は結構長い間、里の実家にいたのね。でも定子さまの周辺が不安だから、やっぱりそのままずっと実家にいるわけにはいかなさそうだったわ。

 右中将(源経房)がいらっしゃって、お話をなさったの。
「今日、中宮(定子)さまのところに参上したら、すごくしみじみともの悲しい感じでした。女房の衣裳も、裳や唐衣が季節に合ってて、気を緩めずにお仕えしてましたね。御簾の横の開いてるとこから覗き込んで見たら、8、9人ほどが朽葉の唐衣、薄紫色の裳に、紫苑や萩なんか色とりどりでいい感じに並んで侍ってるんですよ。お庭の草がすごく生い茂ってて、『何でお刈り取りにならないんです?』って言ったら、『わざと草に露を置かせてご覧になりたいっておっしゃるから』って、宰相の君の声で答えたのは、いい感じだなって思われましたね。『(彼女=清少納言 が)里にいらっしゃるままなのが、とっても辛いの。このような所にお住いになる時には、大変なことがあっても、必ずお側にお仕えすると(定子さまは)思っていらっしゃるのに、甲斐もないわね』って、たくさんの女房たちが言ったのは、(あなた=清少納言 に)話して聞かせなさいってことなんでしょうね。参上してごらんなさい。しみじみとした雰囲気ですから。台の前に植えられてた牡丹なんかが、ステキなことで!!」
なんておっしゃるの。で、
「さあ、みんなが私のことを憎らしいって思ってるから、私のほうも憎らしく思ってしまって…」
って、ご返事申し上げたのね。そうしたら、
「気楽な気持ちで」
って、右中将はお笑いになるの。


----------訳者の戯言---------

右中将というのは、右近衛中将のことだそうです。当時の右近衛中将は源経房という人だったみたいですね。「頭の弁の、職に参り給ひて」の段でも出てきました。道隆の後の権力者・藤原道長の義理の弟にあたる人です。笙の笛が上手かったとかいう話もありました。

朽葉色は薄いキャメル系のカーキです。カフェオレ色、といったほうがいいかもしれません。着用時期は秋のようです。
紫苑色は文字どおり、紫苑という花の色です。青みのある薄い紫色。当時は「しおに」と呼ばれていたようですね。

宰相の君というのは、定子付きの女房、清少納言の同僚です。女房の中でも博識と言われています。これまでにも、この人、何回か登場しています。「北野宰相の娘の宰相の君」という一節が「淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど④」に書かれていました。宰相というのは、当時の日本では参議のことを言いました。北野宰相というのは菅原輔正(すがわらのすけまさ)という人だということです。その人の娘なので「宰相の君」なんですね。

原文で「おいらかにも」と、右中将の源経房が言うくだり。ここの訳、難しいんですね。「おいらかなり」が「気楽な」とか「「穏やかな」「平穏な」という意味ですから、「おいらかにも」は「気楽な気持ちでね」くらいの感じではないかと思います。いかがでしょうか。

さてこの段。
これまで、藤原道隆亡き後の政争、それに付随するごたごたについて、さほど言及することのなかった清少納言ですが、この段では、まあまあ書いていますね。この後、もっと詳しく書くのでしょうか。

なんかいろいろあって、実家に帰ってニート的な状態の清少納言ですが、そこに、右近衛中将の源経房という人がやってきて、お話をしてます。どうやら、「戻ってきてよ~って言われてるみたいですよ」って話のようですね。
②に続きます。


【原文】

 殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、さわがしうなりて、宮も参らせ給はず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえ絶えてあるまじかりける。

 右中将おはして、物語し給ふ。「今日宮に参りたりつれば、いみじうものこそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣をりにあひ、たゆまで候ふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうて居並みたりつるかな。御前の草のいとしげきを、『などか、かきはらはせでこそ』といひつれば、『ことさら露置かせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にていらへつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居いと心憂し。かかる所に住ませ給はむほどは、いみじきことありとも、必ず候ふべきものにおぼしめされたるに、かひなく』と、あまた言ひつる、語り聞かせ奉れとなめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。台の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」などのたまふ。「いさ、人の憎しと思ひたりしが、また憎くおぼえ侍りしかば」といらへ聞こゆ。「おいらかにも」とて笑ひ給ふ。

 

新潮日本古典集成〈新装版〉 枕草子 上

新潮日本古典集成〈新装版〉 枕草子 上

  • 作者:萩谷 朴
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/09/29
  • メディア: 単行本
 

 

なほめでたきこと⑤ ~八幡の臨時の祭の日~

「八幡の臨時の祭りの日は、終わった後が全然なんにもやることがなくって退屈なの。どうして帰ってからまた舞いの演技をしないんでしょ?? やったら、おもしろいのに! 禄をいただいて後ろから退出するのはつまんないわよ」
なんて言うのを、帝がお聞きになって、
「舞わせましょう」
っておっしゃるの。
「え、本当でございますか?? だったらどんなにかすてきなことでしょう!」
なんて申し上げたのね。で、喜んじゃって、定子さまにも、
「ぜひ、舞わさせなさいますように、帝にお話しなさってください」
とかって、みんな集まって申し上げて騒いでたんだけど、その時、宮中に帰ってきてから舞人たちが舞いを披露したのは、すごくうれしかったわ。そんなことはないだろう、って油断してた舞人が、帝のお召しだって聞いて、物にぶつかるくらい騒ぐの、めちゃくちゃ気がおかしくなっちゃったみたい。

 下の局にいた女房たちが、慌てて清涼殿に参上する様子っていったらもうww 人の従者や殿上人なんかが見てるのも気づかずに、裳を頭からかぶって、その参上するのを笑うのも、またおもしろくってね。


----------訳者の戯言---------

裳というのは、表着(上着)のもう一つ外側に着る衣です。腰から下につけて、後ろへ長く引いた衣装とのこと。それを頭からかぶって笑いをこらえた、ということなんですね。

というわけで、シーンは石清水八幡宮の臨時の祭に、また戻ります。
賀茂神社の臨時の祭には「還立の御神楽」があったんですが、石清水八幡宮のにはなかったワケで、宮中にいる女房たちとしてはちょい不満だったんでしょう。なこと言ってたら、帝が聞きつけて、やることになったんですね。一声で、それまでのしきたりを変えてしまいます。さすが天皇。けど、いいのか?

そりゃ、演るダンサーたちは慌てますわ。バックバンドも。

というわけで、いろいろありましたが、春の石清水八幡宮の臨時祭。宮中でリハはあるけど、後夜祭的な「還立の御神楽」は無いんですね。けど、帝の一声でやりました、と。
しかしよく考えたら、賀茂神社は平安宮にめっちゃ近いけど、八幡は遠いです。舞人たちはさぞお疲れだったでしょう。
女房たちも帝もそんなことはお構いなし、ですね。
「をかし」かったらいいのか!?


【原文】

 「八幡(やはた)の臨時の祭の日、名残こそいとつれづれなれ。など帰りてまた舞ふわざをせざりけむ。さらば、をかしからまし。禄を得て、後ろよりまかづるこそ口惜しけれ」などいふを、上の御前に聞こしめして、「舞(ま)はせむ」と仰せらる。「まことにや候ふらむ。さらば、いかにめでたからむ」など申す。うれしがりて、宮の御前にも、「なほそれ舞はせさせ給へと申させ給へ」など、集まりて啓しまどひしかば、そのたび、帰りて舞ひしは、いみじううれしかりしものかな。さしもやあらざらむとうちたゆみたる舞人、御前に召す、と聞こえたるに、ものにあたるばかり騒ぐも、いとど物ぐるほし。

 下にある人々のまどひのぼるさまこそ。人の従者(ずさ)、殿上人など見るも知らず、裳を頭にうちかづきてのぼるを笑ふもをかし。

 

枕草子 平安女子のキラキラノート (角川つばさ文庫)

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なほめでたきこと④ ~里なる時は~

 里の実家にいた時は、一行がただ通って行くのを見るだけじゃ飽き足らず、賀茂の御社まで行って見ることもあったわ。大きな木々の下に車を停めると、松明(たいまつ)の煙がたなびいて、火の明かりで半臂の紐や衣のツヤも、昼間よりはいっそうすてきに見えるのね。橋の板を踏み鳴らして、声を合わせて舞うのもすごく面白くて、水の流れる音、笛の音なんかが合わさって聴こえるのは、ほんと、神様だって、すばらしい!ってお思いになるでしょう。頭中将って言われた人が毎年舞人で、すばらしいもの!って思い込んでたんだけど、亡くなって上の社の橋の下に霊がいるって聞くもんだから、気味が悪くって、物事にそれほどまでにも思い入れしないようにっては思うんだけど、やっぱりこの祭がすばらしいって、そう簡単にこの思いを捨ててしまうことってできないのよね。


----------訳者の戯言---------

半臂(はんぴ)というのは、袍と下襲との間に着る、袖無しの胴衣だそうです。洋服で言うと、ジャケットとシャツの間に着る袖なしの、ということですから、ベストみたいなもの、となりますでしょうか。

賀茂神社というのは、上社と下社があって、ご存じのとおり、今は上賀茂神社下鴨神社に分かれています。元々は同じ神社だったんですね。ここで出てきたのは上の社でしょうか。

頭の中将というと、枕草子ではキラッキラの男前、藤原斉信が定番ですが、1035年まで生きてますから、この段の人とは全然違います。蔵人頭近衛府の中将を兼ねた人はものすごくたくさんいますから、私レベルではいったい誰なのかさっぱりわかりません。
ここは専門家にお任せするとして、毎年舞人をやってた頭の中将がいて、その人の霊魂が上の御社の橋の下にいる、と信じられていた、ってことだけはたしかにあったと読み取れます。

さて、③に続いて賀茂神社の臨時の祭です。
清少納言の実家がどこなのかよくわからないんですが、平安宮と賀茂神社をつなぐ沿道界隈だったんでしょうか。少し調べたんですが、わかりませんでした。これも専門家にお任せするしかありません。

清少納言、賀茂の臨時の祭にハンパなくはまってます。もはや石清水の臨時祭どころではありません。
⑤に続きます。


【原文】

 里なる時は、ただわたるを見るが飽かねば、御社(やしろ)までいきて見る折もあり。おほいなる木どものもとに車を立てたれば、松の煙のたなびきて、火の影に半臂の緒、衣のつやも、昼よりはこよなうまさりてぞ見ゆる。橋の板を踏み鳴らして、声合は<せ>て舞ふほどもいとをかしきに、水の流るる音、笛の声などあひたるは、まことに神もめでたしとおぼすらむかし。頭の中将といひける人の、年ごとに舞人にて、めでたきものに思ひしみけるに、亡くなりて上の社の橋の下にあなるを聞けば、ゆゆしう、ものをさしも思ひ入れじとおもへど、なほこのめでたきことをこそ、さらにえ思ひすつまじけれ。

 

本日もいとをかし!! 枕草子

本日もいとをかし!! 枕草子

 

 

なほめでたきこと③ ~大輪など舞ふは~

 大輪なんかを舞うのは、一日中見てても飽きないでしょうに、それが終わっちゃうと、すごく残念なんですよね、またあるんだって思ったらあてにもできるんだけど。御琴をかき鳴らして、竹の植え込みの後ろから舞いながら出てくる様子なんかは、とてもすばらしいから。掻練(かいねり)の艶、下襲なんかが乱れ合ったりして、あちらこちらに交差したりするのは、さあ、これ以上言っちゃうと、ありきたりのことになっちゃうわね。

 今回は、もう一回舞いがあるはずもないからかな? 終わっちゃうのが、ものすごく残念で。上達部なんかも、みんな続々と出て行かれるから、物足りなくってがっかりなんだけど、賀茂の臨時の祭の時は、還立の御神楽(かえりだちのみかぐら)とかがあるから気持ちも慰められるってものだわ。庭燎(にわび)の煙が細く上っていくのに合わせて、神楽の笛がすてきに響いて、澄んだ音色が昇ってくんだけど、歌の声もとっても風情があって、すごくいい感じで。寒くて凍てついて、打衣も冷たくって、扇を持ってる手も冷えてるんだけど気づかないの。才の男を召すのに、長く声を引いてる人長の満足そうな様子も、すごくすばらしいのよね。


----------訳者の戯言---------

大輪(おおわ)というのは、駿河舞の手ぶり、所作の名前というか、詳しく言うと、駿河舞を終了した舞人たちが全員で大きな輪になって舞いながら退場する時の手の振り方らしいですね。その舞自体のことも大輪といったのでしょう。

掻練(かいねり)というのは、 襲 (かさね) の色目の一つ。表裏ともに紅で、冬から春まで用いられたそうですね。

下襲は束帯の内着で、半臂または袍の下に着用します。今で言うとシャツ的なものでしょうか。後ろ側の「据(きょ)」という部分を出して、ものによっては長く引いたりします。

還立の御神楽(かえりだちのみかぐら)というのは、賀茂の臨時祭が終了したのち、祭の使いや舞人、楽人たちが宮中に戻って清涼殿の東庭で神楽を演じたそうで、そのことをこう言ったらしいです。

庭燎(にわび)とは、宮中で神楽のときに焚く篝(かがり)火のこと。神を招く役割とともに、照明の役目もあったようです。

石清水八幡宮の臨時の祭のある旧暦の3月は、太陽暦なら4月頃ですから、そこそこ暖かいです。賀茂神社の臨時の祭のある旧暦11月は太陽暦で行くと12月ぐらいのことが多いですから、寒かったでしょうね。

人長(にんじょう)というのは、神楽の指揮者的な人らしいです。
才の男(ざえのおのこ)というのは、神楽などで、人長に召されて、滑稽な舞や所作を演ずる者のことだそうです。文字通り、才能のある人、芸能にたけた人だったようですね。

大輪というのは、ま、フィナーレの演舞なのでしょう。毎回、勝手なイメージなんですが、宝塚のレビューのフィナーレ、あの感じですか。いちばん盛り上がるとこですね。

で、この石清水八幡宮の臨時の祭があっけなく終わるのに比べて、賀茂神社の臨時の祭は「還立の御神楽」があるからいいわ~ということなのでしょうか。寒さも忘れるぐらい、すばらしい、ってことですね。あれだけ誉めてたのに、後半は気持ちが賀茂のほうに傾いてます、清少納言
というわけで④に続きます。


【原文】

 大輪(おほわ)など舞ふは、日一日見るともあくまじきを、果てぬる、いと口惜しけれど、またあべしと思へば、頼もしきを、御琴かきかへして、このたびは、やがて竹の後ろより舞ひ出でたるさまどもは、いみじうこそあれ。掻練のつや、下襲などの乱れあひて、こなたかなたにわたりなどしたる、いでさらにいへば世の常なり。

 このたびは、またもあるまじければにや、いみじうこそ果てなむことは口惜しけれ。上達部なども、みなつづきて出で給ひぬれば、さうざうしく口惜しきに、賀茂の臨時の祭は、還立(かへりだち)の御神楽などにこそなぐさめらるれ。庭燎(にはび)の煙の細くのぼりたるに、神楽の笛のおもしろくわななき吹きすまされてのぼるに、歌の声もいとあはれに、いみじうおもしろく、さむく冴えこほりて、うちたる衣もつめたう、扇持ちたる手も冷ゆともおぼえず。才(ざえ)の男(をのこ)召して、声引きたる人長の心地よげさこといみじけれ。

 

新潮日本古典集成〈新装版〉 枕草子 上

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  • 作者:萩谷 朴
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なほめでたきこと② ~承香殿の前のほどに~

 承香殿の前の辺りで、笛を吹いて、拍子を打って演奏するのを、早く出てきたらいいのになぁって待ってたら、「有度浜(うどはま)」を謡って、竹の植え込みのところに歩いてきて、御琴をかき鳴らした時は、ただもう感動で、どうしたらいいのかしら~?って思えたわ。一の舞を舞う舞人がとてもきちんと袖を合わせて、二人ほど出てきて、西に寄って向き合って立ったの。舞人が次々に出てくるんだけど、足踏みを音楽のリズムに合わせて、半臂の緒を直したり、冠、衣の襟なんかも手を休めずにまず整えて、「あやもなきこま山」なんかを謡って舞うのは、何から何まで、ホントとってもすばらしいのよね。


----------訳者の戯言---------

承香殿(じょうきょうでん/しょうきょうでん)は後宮にある七殿五舎のうちの一つだそうです。弘徽殿についで格式の高い殿舎とされてたとか。

有度浜(うどはま)。静岡市駿河湾に面する海岸で、三保ノ松原から南西に延びる海浜ということです。歌枕らしいですね。
で、どうも「有度浜」という歌があるらしいですね、この文面から考えると。

雅楽の一種で東遊(あずまあそび)というものがあったようなんですが、これは元々東国の地方芸能であったらしいものが奈良時代から平安時代にかけて近畿でも行われるようになったものなんだそうです。
その、東遊の一つに駿河舞というのがあり、有度浜に天人が下って舞ったと伝えらるものなんですが、その歌でしょう。

竹の笆(ませ)というのが、原文に出てきますが、ここでは清涼殿の東庭の北寄りの、呉竹を植えた所を指すようですね。呉竹(=ハチク)を井桁のような四角の籬垣(ませがき)の中に植え込んだのがあったらしいです。籬というのは竹や木などで作った低く目のあらい垣なのだとか。

一の舞というのは、全部の舞の中でも最初に舞うのをこう言うらしいです。で、上手い人がこの一の舞を舞ったそうなので、一の舞を舞うような上級者も、「一の舞」と呼んだみたいですね。

半臂(はんぴ)の緒を直したり、冠や衣の襟を直したりするのは、その踊りの所作なんでしょうね。
私の勝手なイメージですが、マイケル・ジャクソンがジャケットとかパンツを指先でピッとやったりしてキメる、ああいう感じ。もしくは。かのオードリー・ヘップバーンが主演したミュージカル映画「パリの恋人」で、相手役のフレッド・アステアという俳優さんが、キレッキレのダンスを踊ってた、あの感じです。
違いますか。そうですか。
見ていない方、興味の無い方には、どれもさっぱりわからないと思いますが。

「あやもなきこま山」というのも、なんか舞楽の一つだと思われますが、一応いろいろ調べたもののよくわかりませんでした。どなたか、おわかりの方はご教授いただけたらと思います。
すみません、今のところ、そういう歌があった、ということで。

さて。
いよいよ舞踊のリハがはじまったようで。清少納言的には結構テンション上がってきてる感じです。
さてどうなるのでしょうか。③に続きます。


【原文】

 承香殿(しようきやうでん)の前のほどに、笛吹き立て拍子(はうし)うちて遊ぶを、とく出で来なむと待つに、有度浜(うどはま)うたひて、竹の笆(ませ)のもとにあゆみ出でて、御琴(みこと)うちたるほど、ただいかにせむとぞおぼゆるや。一の舞の、いとうるはしう袖をあはせて、二人ばかり出で来て、西によりて向かひて立ちぬ。つぎつぎ出づるに、足踏みを拍子にあはせて、半臂の緒つくろひ、冠・袍(きぬ)の領(くび)など、手もやまずつくろひて、「あやもなきこま山」などうたひて舞ひたるは、すべて、まことにいみじうめでたし。