枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど⑤ ~御膳のをりになりて~

 朝食のお時間になって、定子さまのヘアメイク担当が参上してね、女蔵人たちがお料理のために髪をアップにしてやって来る頃には、隔ててた屏風も押し開けちゃったから、隙間からのぞき見をしてた私みたいな人は隠れ蓑を取られた気がして、物足りなく、やりきれなくって、御簾と几帳との間で柱の外から拝見したの。衣の裾や裳なんかは御簾の外に全部押し出されちゃったから、父上(道隆)さまが端のほうからご覧になって、「あれは誰だい? あの御簾の間から見えるのは」って怪しまれたもんだから、定子さまが「清少納言が見たがってるんじゃないかしら?」っておっしゃって。「あれれ、恥ずかしいね。彼女は昔からの知り合いなのに。すごく出来の悪い娘たちを持ったもんだ、って見られてしまうよ」なんておっしゃるご様子、とっても得意顔なのよ。


----------訳者の戯言---------

女蔵人(にょくろうど)というのは、宮中に奉仕した女官の1つで、内侍・命婦の下で雑用を務めたそうです。「なまめかしきもの」にもう少しだけ詳しく書きました。

のぞき見してた清少納言。朝ごはんの時間帯が近づいて隠れる所が無くなって、衣がはみ出したせいで道隆殿に見つかります。道隆さま、ドヤ顔で何か面白いようなこと言った感じですが、大して面白くはありません。残念です。
⑥に続きます。


【原文】

 御膳(おもの)のをりになりて、御髪あげまゐりて、蔵人ども御まかなひの髪あげてまゐらする程は、隔てたりつる御屏風も押し開けつれば、垣間見の人、隠れ見の人、隠れ蓑とられたる心地して、飽かず侘びしければ、御簾と几帳との中にて、柱の外よりぞ見奉る。衣の裾、裳などは、御簾の外にみな押し出されたれば、殿、端の方より御覧じ出だして「あれは誰そや、彼の御簾の間より見ゆるは」と咎めさせ給ふに、「少納言が物ゆかしがりて侍るならむ」と申させ給へば、「あな、はづかし。かれは故き得意を。いと憎げなる女ども持たりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顔なり。


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こころきらきら枕草子 ~笑って恋して清少納言

こころきらきら枕草子 ~笑って恋して清少納言

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど④ ~御手水まゐる~

 で、お清めの水が差し上げられるの。あちらの方(淑景舎の方)のは、宣耀殿、貞観殿を通って、童女2人と下仕4人で持って参るようだわね。唐廂(からびさし)よりこちら側の廊下には女房が6人ほど待機してるの。狭いってことで、半分はお送りをして、あとはみんな帰っちゃったわ。童女の桜襲ねの汗衫(かざみ)、萌黄色、紅梅色のなんかの着物がとってもよくて、汗衫の裾を長く引いて、お清めの水を取り次いで差し上げる様子は、すごく優美な感じがするわね。織物の唐衣を御簾からはみ出させて、相尹(すけまさ)の馬頭(うまのかみ)の娘の少将、北野宰相の娘の宰相の君なんかが、廊下の近くに座ってるのよ。
 いい感じだなって見てたら、こっちの定子さまのお清めの手水は、当番の采女が青色の裾濃(グラデーション)の裳、唐衣、裙帯(くたい)、領布(ひれ)なんかを着けて、顔をすごく白くして。下仕えなんかが取り次いで差し上げる様子は、これまた折り目正しくって、中国風で素敵なの。


----------訳者の戯言---------

「手水」は文字通り、手洗い用の水。トイレのことをあらわす場合もあります。転じて用を足すことを言う場合もあるようですね。ここでは、高貴な方が使う「朝のお清めの水」という意味になります。

唐廂(からびさし)というのは、軒先を唐風にそらせた屋根とのこと。外国風でいかしたデザインの屋根が所によってはあったんでしょうね。

桜襲ねというのは、表地は白で、裏地が二藍(藍+紅、つまり紫系の色に染めた生地)の衣です。ここでは汗衫(かざみ)をこの布地で作っていたようです。
汗衫は女児の上着だそうです。詳しくは「あてなるもの」の「訳者の戯言」に詳しく書いてます。ご参照ください。

「唐衣(からぎぬ)」というのは、当時の女性の装束である十二単衣のいちばん上に着た衣です。
「織物」とありますね。衣なんだから全部織物じゃん!紙のがあるのかよ!?と思ってしまいますが、当時「織物」というのは高級な紋織物を特に指して言ったみたいですから、間違いというわけではありません。おおよそ、経糸緯糸に、異なる色糸を使用して織りあげた織物のことだそうで。地色と文様とが違った色ではっきりと表現されるようですね。いろいろな織り方、色々を駆使したものですから、やはり高級なんでしょう。

采女(うねべ/うねめ)とは、天皇や皇后の食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のことだそうです。

「裾濃(すそご)」は裾が濃くなっていくグラデーション柄です。ここでは青色のグラデですね。「裳」もすぐ前の記事(③)に出てきました。

領布(ひれ)とは、両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布です。
裙帯(くたい)といって、女官の正装の時、装飾として、裳の左右に長く垂らした紐があったらしく、その紐のことを言いました。

そして。
朝早い時間帯、お清めの水が差し上げられるんですね。さすが皇族。貴族もか? いずれにしても我々のようにわざわざ自分で洗面室に行って手を洗ったりはしません。スタッフが持ってきてくれるんですね。描写にあるとおり、もはや儀式です。贅沢というか、スタッフ、こんなに必要ですか?
⑤に続きます。


【原文】

 御手水まゐる。彼の御方のは、宣耀殿、貞観殿を通りて、童女二人下仕四人して持てまゐるめり。唐廂(からびさし)のこなたの廊(らう)にぞ女房六人ばかり候ふ。狭しとて、片方は御送りして、皆帰りにけり。桜の汗衫、萌黄、紅梅などいみじう、汗衫長く引きて、取り次ぎまゐらする、いとなまめかし。織物の唐衣どもこぼれ出でて、相尹(すけまさ)の馬の頭(かみ)のむすめ、小将、北野宰相の女、宰相の君などぞ近うはある。をかしと見るほどに、こなたの御手水は、番の釆女の青裾濃(すそご)の裳、唐衣、裙帯、領巾などして、面いと白くて、下など取り次ぎまゐるほど、これはた公(おほやけ)しう唐めきてをかし。


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枕草子 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)

枕草子 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど③ ~さて、ゐざり入らせ給ひぬれば~

 さて、定子さまが擦り膝でお入りになったから、そのまま屏風に寄り添って覗いてたんだけど、「良くないわ、後ろめたい行いだわね」って、聞こえるかのようにこっそり言う人たちもいて。おもしろいわね。障子がとても広く開いてるから、中の様子はすごくよく見えるの。お母様の貴子さまは、白い上着、張って艶を出した紅色の衣を二枚ほどに、女房の裳なのかしら?を、引っ掛けて、奥に寄って東向きにいらっしゃるから、お着物だけは見えたのよね。淑景舎さまは、北に少し寄って南向きにいらっしゃるの。紅梅色の濃い打衣、薄い打衣をたくさん着て、上に濃い綾織の衣、少し赤い小袿は蘇芳色の織物、萌黄色の若々しい固紋の衣をお召しになって、扇でお顔をすっと隠されてて、ほんと、とっても立派で美しい様子を見せていただけたわ。お父様は薄色の直衣、萌黄色の織物の指貫、紅色の衣を重ね着して、紐を締め、廂の間の柱に背中を当ててこちら向きにいらっしゃるの。で、姫君たちの立派な様子を見て微笑みながら、いつものように冗談をおっしゃってるのよね。淑景舎さまがすごくかわいくって、絵に描いたように座っていらっしゃるんだけど、定子さまはとっても落ち着いてらして、少しばかり大人っぽい雰囲気でいらっしゃるんだけど、紅色の衣が光り輝いて映えてるご様子は、やっぱりこの方と比べられる人っているかしら? いえいえ、いないわ、って思わせられるの。


----------訳者の戯言---------

原文の「上」というのは文脈からして、定子さまの母上=藤原道隆の奥方ということがわかります。

裳というのは、表着(上着)のもう一つ外側に着る衣。「腰から下につけ、後ろへ長く引いた衣装」です。

小袿(こうちぎ)貴族女子のなかでも特に高位の女性が着る上着だそうです。

蘇芳」というのは、文字通り蘇芳というインド・マレー原産のマメ科の染料植物で染めた黒味を帯びた赤色とのこと、だそうです。

薄色」は単に薄い色ではなく、色の名前。やや赤みのあるとても薄い薄紫です。

こっそり覗いて、姉妹と父母、家族4人のファッションチェックをする清少納言藤原道隆は冗談とか言ってるらしい。たぶんおもしろくないだろうと思いますが、貴族一家ですから、笑うんでしょうね。

で、結局は、定子さまサイコー!となります、清少納言
そして④に続きます。


【原文】

 さて、ゐざり入らせ給ひぬれば、やがて御屏風に添ひつきて覗くを、「あしかめり、後ろめたきわざかな」と聞こえごつ人々もをかし。障子のいと広うあきたれば、いとよく見ゆ。上は、白き御衣ども紅の張りたる二つばかり、女房の裳なめり、引きかけて、奥に寄りて東向におはすれば、ただ御衣などぞ見ゆる。淑景舎は北に少し寄りて、南向におはす。紅梅いとあまた濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、少し赤き小袿、蘇枋の織物、萌黄のわかやかなる固紋の御衣奉りて、扇をつとさし隠し給へる、いみじう、げにめでたく美しと見え給ふ。殿は薄色の御直衣、萌黄の織物の指貫、紅の御衣ども、御紐さして、廂の柱に後ろを当てて、こなた向きにおはします。めでたき御有様を、うち笑みつつ、例の戯言せさせ給ふ。淑景舎のいとうつくしげに絵に書いたるやうにゐさせ給へるに、宮はいとやすらかに、今少し大人びさせ給へる御けしきの、紅の御衣にひかり合はせ給へる、なほ類ひはいかでかと見えさせ給ふ。


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淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど② ~まだこなたにて~

 まだこちらで定子さまが御髪なんかのお手入れをしてる時、「淑景舎の方は見たことがあるのかしら?」とお聞きになったので、「まだですが、どうしたらお目見えできます? お車寄せの日、後ろ姿をちょっとだけなので」って申し上げたら、「その柱と屏風のところに寄って、私の後ろから、こっそり見なさい。すごくかわいいコなんだから」っておっしゃるのが、うれしくって、見たくって見たくって、早くその時が来て!って思うの。

 定子さまは、紅梅の固紋、浮紋のお着物を、紅色の打衣を三重にしたものの上に、ただ引き重ねてお召しになってるの。「紅梅には、濃い色の衣を合わすのがおしゃれなの。でも着られないのが悔しいわ。私の今の齢なら紅梅色の着物は着ないほうがいいのよね。でも萌黄色なんかは好きじゃなくってね、紅色には合わないだろうから」なんておっしゃるんだけど、ただただすごくすばらしく、お召しになっていらっしゃるとしか見えなくて。着ていらっしゃる衣の色が特別で、そのままお顔の色ともよく似合っていらっしゃって、やはりもう一人の素敵な方(妹君)も、こんな感じでいらっしゃるのかしら、って想いが募るわ。


----------訳者の戯言---------

みそかに。「こっそりと」ですね。「密かなり」の連用形です。

「固紋」ですが、織物の紋様を、糸を浮かさないで、 かたく締めて織り出したものだそうです。はぁ、何となくわかりますが、それほど興味がありません。すみません。
「浮紋」は地糸を浮かせることで文様を表すもの。「固紋」の反対というか、相対する織物だと思われます。ま、どっちも高級品なのでしょう。中宮さまがお召しになるものですからね。

紅梅色はこんな色です。ピンクですね。私が見たところ、結構濃いピンクだと思いました。当時中宮定子はまだ17、8歳とかで、まだ二十歳にはなってなかったはずです。そんな若いのに「もう紅梅色が似合わない年齢になっちゃった」みたいなこと言ってます。
年齢相応とされている?萌黄色(黄緑)なんかは好きじゃなかったようですね。
ちなみに「濃色」「紅色」はこんな色です。

このシーン、意外とわかりづらいですね。
まず、定子は赤(紅色)の服を着て、それにピンク(紅梅)の上着を引っ掛けています。同系色の濃淡でコーディネート、ワタクシ的にはあまり好きではないですが、アリといえばアリでしょう。
で、おっしゃるのは「ピンクには濃い紫がよく合うんだけどね、でも着られないのがくやしい」と。
うーん、なんで? と思います。好きなの着たらいいじゃん、中宮なんだから。そもそも濃い紫でなく、なんで中の衣に赤を着てるのかがわかりません。誰か教えてください。着たかったから? そうですか。
たしかにパープル系のグレーにピンク、そのほうがカラーコーディネート的にはいいです。一応はわかってるのね。

先にも書いたとおりピンク(紅梅色)は着られない(着ない方がいい)齢とのこと。私は着てもいいと思いますが、それは当時の文化なので仕方ないとしても、萌黄だけdisるのもまた不可解。ピンクがだめで黄緑(萌黄)が赤に合わないから好きじゃないっていうのなら、それ以外で探せばいいと思います、中宮なんだから。
たしかに赤に黄緑は補色関係にあるのでトーンがうまく合えばすごくいい色合わせになりますが、下手をするとハレーション起こします。諸刃の剣ですね。

で、結局、ごちゃごちゃ弁解してますが、「今着ているとおり、赤い打衣にピンクの上着を着たい」ということですね。めんどくせー奴。失礼しました、中宮様でしたね。

原文の「匂ひ」は以前にも出てきました。今でいう「匂い」だけでなく「色あい、色つや」のことを表すことも多いです。

というわけで、清少納言中宮定子を例によってめちゃくちゃ褒めながらも、妹君にも会いたい!と、テンション上がり気味。
③に続きます。


【原文】

 まだこなたにて御髪など参るほど、「淑景舎は見奉りたりや」と問はせ給へば、「まだ、いかでか。お車よせの日、ただ御後ろばかりをなむ、はつかに」と聞こゆれば、「その柱と屏風とのもとに寄りて、我が後ろよりみそかに見よ。いとをかしげなる君ぞ」とのたまはするに、嬉しく、ゆかしさまさりて、いつしかと思ふ。

 紅梅の固紋、浮紋の御衣ども、紅の打ちたる、御衣三重が上にただ引き重ねて奉りたる。「紅梅には、濃き衣こそをかしけれ、え着ぬこそ口惜しけれ。今は紅梅のは着でもありぬべしかし。されど、萌黄などの憎ければ、紅には合はぬか」などのたまはすれど、只いとめでたく見えさせ給ふ。奉る御衣の色ことに、やがて御形の匂ひ合はせ給ふぞ、なほ他(こと)よき人(=妹君)も、かうやはおはしますらむとぞ、ゆかしき。


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枕草子 (まんがで読破)

枕草子 (まんがで読破)

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど①

 淑景舎の方(定子さまの妹君、原子さま)が東宮に入内なさった時のことほど、なんて素敵な!ってことはなかったわね。一月十日にお入りになって、お手紙なんかは定子さまと頻繁に交換し合ってたんだけど、まだ直接姉妹がお顔を合わせることはなくって、二十日すぎに定子さまの元にお越しになるっていう情報が入ったから、いつもよりお部屋の調度を念入りにきれいにピッカピカに整えて、女房たちみんなスタンバイしてたの。夜中頃にお越しになったから、そんなに経たないうちに夜は明けたのね。

 登華殿の東の廂の二間にお迎えする支度はしてあったの。で、お父様とお母様のお二人が、早朝、まだ暗いうちに一つのお車に乗って参上なさったわ。日が出てから、とってもすばやく格子を全部上げて、定子さまはお部屋の南に四尺(約1.2m)の屏風を、西から東の方向に渡して北向きに立てて、畳の上には敷物だけを敷いて、火鉢を持って来させたのね。屏風の南側、御帳台の前には女房がすごく大勢侍ってるの。


----------訳者の戯言---------

淑景舎(しげいしゃ)というのは、御所の後宮にあるお屋敷の一つで、内裏の北東部、「桐壷」とも呼ばれたそうです。女御などが居住したお屋敷ですが、当時ここに住んだのは中宮定子の妹・原子(げんし/もとこ)です。一条天皇の次の天皇となる三条天皇に即位前(東宮時代)に入内しています。
今回は入内してしばらく経った頃のお話でしょうね。

原子は淑景舎に住んでいたから、淑景舎の方、あるいは略して、淑景舎と呼ばれたのでしょう。

登華殿(とうかでん)というのは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つだそうです。弘徽殿の北にある、南北七間、東西二間の母屋の四面に庇がある東向きの建物だったそうです。主に中宮、女御などの居所であり、公卿や殿上人の宿所が設けられることもあった、ということです。ここでは中宮定子の住まいになっているようです。

ここで「殿」というのは、この姉妹の父親・藤原道隆、「上」はその奥方、つまり母親・貴子のことのようです。家族が集まってきたようです。

「御曹司(みぞうし)」という語はよく出てきます。というか、枕草子では「職の御曹司」という風にワンセットで書かれることが多いですが、これは中宮職の庁舎のことでした。一般に「御曹司」は高貴な人の私室だそうです。これが転じてエエトコの子のことを「御曹司(おんぞうし)」と言うようになったらしいですが。

久しぶりに妹と対面、父母もやってきたと。さてどうなるのでしょうか。
②に続きます。


【原文】

 淑景舎、春宮に参り給ふほどのことなど、いかがめでたからぬことなし。正月十日にまゐり給ひて、御文などはしげうかよへど、まだ御対面はなきを、二月十余日宮の御方に渡り給ふべき御消息あれば、常よりも御しつらひ心ことにみがきつくろひ、女房など皆用意したり。夜中ばかりに渡らせ給ひしかば、いくばくもあらで明けぬ。

 登華殿の東の二間に御しつらひはしたり。殿、上、暁に一つ御車にて参り給ひにけり。つとめて、いと疾く御格子まゐりわたして、宮は御曹司(みざうし)の南に四尺の屏風、西東に御座(おまし)しきて、北向に立てて、御畳の上に御褥(しとね)ばかり置きて、御火桶参れり。御屏風の南、御帳の前に、女房いと多く候ふ。


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枕草子 (21世紀版・少年少女古典文学館 第4巻)

枕草子 (21世紀版・少年少女古典文学館 第4巻)

 

 

雨のうちはへ降る頃

 雨が毎日降り続く頃、今日も降ってるんだけど、お使いとして式部省の丞(じょう)の藤原信経が定子さまのところに参上したの。例によって敷物を差し出したら、普段よりも遠くに押しやって座ってたから、「誰のためのもの?」って言ったら、笑って、「こんな雨の日に敷物の上に上がったら、足形が付いて、すごくみっともなく、汚れちゃいますから」って言うから、「なんで? センゾク(洗足)用にはなるでしょうに」って言ったの、そしたら、「そのシャレはあなたが単独で上手くおっしゃたんじゃないですよ。私、信経が足形のことを申し上げなかったら、おっしゃることもできなかったでしょうからね」って、何べんも何べんも言ってたのは可笑しかったわ。

 「昔、中后(なかきさい)の宮に『ゑぬたき』って言う有名な下仕(しもづかへ)の者がいたのね。美濃守の時に亡くなった藤原時柄が蔵人だった時、下仕たちのいるところに立ち寄って、『これがあの有名なゑぬたきか! でもそんな風に見えないよね』って言ったの。で、その返事に、『それは時柄(時節柄)だから、そう見えるんでしょう』って(名前の“時柄”と時節柄の“時柄”をカケて)言ったんだけど、『相手を選んだとしたって、こんなに上手いこと言えたもんかなー? いやいやできないよね!』って上達部や殿上人まで、面白いことだって感心しておっしゃったの。ま、実際面白かったんでしょう。今日までこんな風に言い伝えられてるんですからね」ってお話ししたの。
 「でもそれだって、時柄が言わせたんでしょ? 何だってお題が良ければ、詩でも歌でもいいのができるんです」って彼が言うから、私、「たしかにそれはあるわね。じゃあ、お題を出すから、歌を詠んでくださいね」って言ったのね。
 すると彼、「それはすごいグッドアイデア!」って言うから、「じゃあ一つじゃつまんないから、どうせならいっぱい詠みましょうよ」とかって言ってるうちに、定子さまからお使いのご返事が出てきて。「ああ、コワイ。逃げ帰らせていただきます」って、彼は帰って行ったんだけど、「あの方は漢字もかな文字もすごく悪筆なので、人が笑ったりするから、それを隠してるんですよね」って女房たちが言うの、面白いわよね。

 信経が作物所(つくもどころ)の別当をしてた頃、誰のところにやったものかは知らないんだけど、何かの絵みたいなものを持って行かせて、「これがやうにつかうまつるべし」(これと同じように作りなさい)って書いた字の有様が、この世にありえないくらいイケてないのを見つけちゃったもんだから、私、「これがままにつかうまつらば、ことやうにこそあべけれ」(これのとおりに作ったら、異様な物ができるに違いない)って書き添えて殿上の間に持ってかせたら、人々が手に取って見て、めちゃくちゃ笑ったもんだから、彼、すごく腹を立てて私を憎んだことがあったのよね。


----------訳者の戯言---------

雨が「うちはへ降る」って言うんですが、ずっと長く降り続けるということなんですね。っていうことは、梅雨時なのでしょう。

丞(じょう)。
律令制における四等官制の等級ですね。丞は3番目です。
たぶん、みなさんご存じだと思いますが、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)というのが基本です。実は用字は官司によって違っていて、省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、寮は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、坊と職は大夫(かみ)・亮(すけ)・進(じょう)・属(さかん)と書くそうです。国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)とまあ、このほかにもいろいろ書き方はあったみたいですね。こんなになくてもいいと思いますが、まあ、そういうもんだったのでしょう。

長官(かみ)はその官司の事務を統轄し、次官(すけ)は長官を輔佐、判官(じょう)は組織のマネジメント、公文書のチェック等、主典(さかん)は公文書の作成、上申などの仕事をしたそうです。

で、その当時の式部省の丞の一人が、この段の主人公・藤原信経です。関係ないかもしれませんが、実はこの人、紫式部の従兄にあたります(それぞれの父親が兄弟)。紫式部よりも4歳ほど年上だそうですね。
で、清少納言からすると、3歳ぐらい年下です。またもや僕チン扱いでしょうか。

氈褥(せんぞく)というのは毛織りの敷物のことを言うのだそうです。ここでは「足を洗う」の「洗足」とかけたシャレのようです。全然おもしろくないですけどね。

信経的には、「俺のボケがあったから、上手いことつっこめたんやで」とでも言いたげな感じです。これまた違いますけどね。

「中后の宮」というのは、村上天皇中宮、藤原安子のことだそうです。こんな書き方でわかるんですか。そうですか。

「ゑぬたき」っていう下仕の人。有名人らしいです。どんな? 何が? 興味ありますが、彼女はそんなに詳しくは書いてくれません。身分の卑しい者にはあんまり深くは興味なしのようです、この人たち。

私はむしろエミネムみたいな存在だとイメージしました。語感だけで。そんなメジャーではないですかね。むしろ今で言うとサブカル的な存在でしょうか。それもまたかっこいいですけどね。「Nタキ」鉄オタの方が好きそうです。「N-taki」だとラッパーかYouTuberですかね。

作物所(つくもどころ)というのは天皇・皇后、東宮などが宮中で用いる調度品(銀器、木器など)を製作する部署で、蔵人所の管轄下にあったそうです。「別当は対外的な責任者で所の内部に関わる事はほとんどなかったが、作物所の別当は宮中の行事・儀式で用いられる調度品に関わる事から、直接作物所に製作の指示を出したり、行事・儀式に用いられる調度品の搬入や天皇への献上を行ったりした」とウィキペディアにありました。

何となくコケにしてる感じですね。藤原信経を。というか、あからさまです。この前、「五月の御精進のほど」でほととぎすを聴きに行った帰り道における藤原公信と同様の扱いです。

これだけが要因ではないのかもしれませんが、従兄についてこういう扱いをしたことも、紫式部清少納言を快く思ってなかった理由の一つかもしれないという説もあるようですね。
毎度のことながら、清少納言、身分、官位の低い人、教養が低そうな人に厳し過ぎです。たしかに感じ悪いわ。

私は自分が悪筆ですから、文字は最低限情報が伝わればいんじゃね?と思っています。東大生のほとんどが悪筆、頭良すぎる人はだいたい字がへたであると林先生も言ってましたし。

ただ、御祝儀袋とか書く時はトホホとなることハンパないですけどね。


【原文】

 雨のうちはへ降る頃、今日も降るに、御使にて、式部の丞信経(のぶつね)参りたり。例のごと褥(しとね)さし出でたるを、常よりも遠くおしやりてゐたれば、「誰が料ぞ」といへば、笑ひて、「かかる雨にのぼり侍らば、足がたつきて、いと不便(ふびん)に、きたなくなり侍りなむ」といへば、「など。せんぞく料にこそはならめ」といふを、「これは御前にかしこう仰せらるるにあらず。信経が足がたのことを申しざらましかば、えのたまはざらまし」と、かへすがへす言ひしこそをかしかりしか。

 「はやう、中后(なかきさい)の宮にゑぬたきと言ひて名高き下仕(しもづかへ)なむありける。美濃の守にてうせにける藤原の時柄、蔵人なりける折に、下仕どものある所にたちよりて、『これやこの高名のゑぬたき、などさも見えぬ』と言ひける、いらへに、『それは、時柄にさも見ゆるならむ』と言ひたりけるなむ、『かたきに選りても、さることはいかでからむ』と上達部・殿上人まで興あることにのたまひける。またさりけるなめり、今日までかく言ひ伝ふるは」と聞こえたり。「それまた時柄が言はせたるなめり。すべてただ題がらなむ、文も歌もかしこき」といへば、「げにさもあることなり。さは、題出ださむ。歌よみ給へ」といふ。

 「いとよきこと」といへば、「御前(ごぜん)に同じくは、あまたをつかうまつらむ」なんどいふほどに、御返し出で来ぬれば、「あな、おそろし。まかり逃ぐ」と言ひて出でぬるを、「いみじう真名(まな)も仮名(かんな)もあしう書くを、人笑ひなどする、かくしてなむある」といふもをかし。

 作物所(つくもどころ)の別当する頃、誰がもとにやりたりけるにかあらむ、ものの絵やうやるとて、「これがやうにつかうまつるべし」と書きたる真名(まんな)のやう、文字の世に知らずあやしきを見つけて、そのかたはらに、「これがままにつかうまつらば、ことやうにこそあべけれ」とて殿上にやりたれば、人々取りて見ていみじう笑ひけるに、おほきに腹立ちてこそにくみしか。

 

枕草子 (岩波文庫)

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中納言殿まゐり給ひて

 中納言殿(藤原隆家)が定子さまのところに参上されて、扇を献上なさる時、「私、隆家はすごくいい扇の骨を入手しました。それに紙を張らせて差し上げようと思うんですが、いい加減な紙は張ることができないですから、今探してるところなんです」と申し上げなさったの。「どんな骨なの?」って定子さまがご質問なさったら、「何もかも全部すばらしいんです。『かつて今まで見たこともないような骨の様子ですわ』ってみんな申しております。ほんとにこれほどのものは見たことがありません」って声高におっしゃるから、「だったら、扇のじゃなくってクラゲの骨ですわね」って私、申し上げたら、「それは隆家が言ったことにしましょう」ってお笑いになるの。

 こういった類の話は、気の毒な、いたたまれないことのカテゴリーに入れるべきなんだけど、人が「一言も書き落とすな」って言うから、どうしたものでしょうかね??


----------訳者の戯言---------

まず、藤原隆家という人ですが、中宮定子のすぐ下の弟です。「無名といふ琵琶の御琴を」の段で出てきた原子や隆円の兄にあたります。

朧げ(おぼろげ)。はっきりしないさま。不確かなさまを表すそうです。

「かたはらいたき」は、心苦しい、いたたまれないという意味。「かたはらいたきもの」の段で解説させていただきましたね。

うまいこと言ったの、パクられそうになりましたが、結局全部バラしちゃいました。ひどすぎる。隆家がカワイソすぎると私は思います。しかも誰かに「全部書いとけ」って言われたから仕方なく書いてます、って。
言い訳しても、書くか書かないかは、清少納言次第ですからね。本当に彼女が慎ましい人ならここまで書かんでしょう。もしくは。本人の希望どおり隆家が言った体で書いてやれと思います。それがオトナってもんだ。


【原文】

 中納言殿まゐり給ひて、御扇奉らせ給ふに、「隆家こそいみじき骨は得て侍れ。それを張らせて参らせむとするに、おぼろげの紙はえ張るまじければ、求め侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひ聞こえさせ給へば、
「すべていみじう侍り。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ」と言高くのたまへば、「さては扇のにはあらで、海月(くらげ)のななり」と聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ」とて、笑ひ給ふ。

 かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ」と言へば、いかがはせむ。

 

検:中納言殿まいり給ひて 大納言殿参り給ひて