枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

物のあはれ知らせ顔なるもの

 情けない気持ちが伝わってくる顔っていうと…。鼻水を垂らし、ひっきりなしに鼻をかみながら話してる声。眉を抜いてる顔。


----------訳者の戯言---------

「物のあはれ」と言えば「源氏物語」というのが定番で、「あはれ」といえば概ね、悲しみやしみじみした情感を指すと言われています。
源氏物語」は「あはれ」の文学だと。そうですか。まあ、偉い学者の方々がそうおっしゃっているのですから、そういう側面はあるのでしょう。

しかし、ここで出てきた「枕草子」の「あはれ」はなんか違う気もします。「源氏物語」のような高尚なストーリー性もキャラクター描写もないですしね。そんな大そうな「悲哀」でもなさそうです。

だいたい、鼻を垂らす、って。
間断なく鼻をかむって。
で、眉毛を抜いてる顔って。これ、「あはれ」ですか? えーたぶん、それもまた真なりということですね。

即ち「しみじみ悲しい」というよりも、ここでは「みじめな、情けない」あたりのニュアンスの心情だと思います。「もののあはれ」って実はもっと広範で、もっと複雑なものなのだということなのでしょう。

この時代、成人女子は眉毛を抜いて眉墨を引いてたようですが、やっぱその時の顔って情けねーって感じでしょうし(今もそうかも)、鼻水垂らしてたり、鼻かんでたりするのもね、「ダッセー顔」ってことなのでしょう。
もののあはれ」と言っても、必ずしもあの「源氏物語」の「あはれ」的なものばかりではないのだと、それがわかったのはよかったですね。


【原文】

 物のあはれ知らせ顔なるもの はな垂り、間(ま)もなうかみつつ物いふ声。眉抜く。

 

検:もののあはれ知らせ顔なるもの

 

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子

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里にまかでたるに④ ~かう語らひ~

 こうして語り合い、お互いに世話を焼いたりなんかするうちに、どうこうすることもなかったけど少し仲が悪くなってて、その頃、彼が手紙をよこしてきたの。「都合の悪いことなんかがあっても、やっぱりかつては夫婦だったことは忘れないで、全然別の場所に離れてたって、兄妹のような仲だと思っていただきたいですよ」って。

 いつも彼が言うことは、「私を思う人なら、歌を詠んで寄こさないでもらいたい。そんなのはすべて敵だって思うよ。今から絶交!って思った時には、そうすればいい」なんて言うから、これにリプライ。

くづれよる 妹背の山の中なれば さらに吉野の河とだに見じ
(崩れてしまって妹背山の間を流れる吉野川は川に見えなくなってしまう、これと同様に、壊れた妹と兄の私たちだから、もはや、川《=彼は=兄妹としてあなた》を見ることなんてできませんわ)

って送ったんだけど、ほんとに見なかったのかしら? 返事もしてこなかったわ。
 そうしてこの後、則光は五位の冠位を得て、遠江介になって赴任しちゃって、喧嘩をしたままで終わってしまったの。


----------訳者の戯言---------

最も難解なのは、原文の「よそにてはさぞとは見給へ」です。
私は上のように訳したんですが、ここは他の解釈、訳し方もあるのではないかなと思いますがいかがでしょう。

「かうぶり」は冠と書きます。位階、五位に叙せられることだそうです。

さて顛末は、清少納言、とうとう則光とは仲違いしたまま縁が切れてしまったということに。
直前の記事でも書きましたが、則光はリアリストというか体育会系というか、そういう人だったようではあります。とはいえ、歌人としての実力もいくらかはあったようで、金葉和歌集に入選しているとか、ウィキペディアにも出ていますよ。
それでもやはり、詩歌管弦よりも役人として実務家としての仕事に重きを置いた人なのでしょうね。
そのへんの人生観が根本的に違うのでしょう。

ただ、人が悪くないという印象は文章から伝わってくるし、こいうことを遠慮なく書いているくらいですから、清少納言も本当には嫌っていなかったのではないかと私、思います。


【原文】

 かう語らひ、かたみの後見などする[に]中に、何ともなくて少し仲あしうなりたるころ、文おこせたり。「便(びん)なきことなど侍りとも、なほ契り聞こえしかたは忘れ給はで、よそにてはさぞとは見給へとなむ思ふ」といひたり。

 常にいふことは、「おのれを思さむ人は、歌をなむよみて得さすまじき。すべて仇敵となむ思ふ。今は限りありて絶えむと思はむ時に<を>、さることはいへ」などいひしかば、この返りごとに、

  くづれよる妹背の山の中なればさらに吉野の河とだに見じ

と言ひやりしも、まことに見ずやなりにけむ、返しもせずなりにき。

 さて、かうぶり得て、遠江の介と言ひしかば、にくくてこそやみにしか。

 

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

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里にまかでたるに③ ~さて、のち来て~

 それから後日になって、彼が来て、
「あの日の夜は責め立てられて、何となく適当な所をお連れして歩いたんだ。本気で非難されるもんだから、めちゃくちゃ辛くてさ。ところで、どうしてあの時どうするかご返事がなくって、ワケわかんない布=海藻の切れっ端なんか包んで下さったのかな? 変な包み物だぜ。人にあんな物包んで送るなんてことある? 間違ったんだね」
って言うのよ。全然こっちの気持ちが伝わってないなって思って、憎ったらしいから、硯のとこにある紙の端っこに、

かづきする あまのすみかを そことだに ゆめいふなとや めを食はせけむ
(海に潜る海女のように姿を隠してる私の住みかを、そこだって絶対に言うなって目配せ《布を食わせ》したのに《それに気づかないってどういうこと!》)

って書いて差し出したら、「歌をお詠みになったんだね。絶対に見ないし」って、紙を扇で返して、逃げて帰っちゃったのね。


----------訳者の戯言---------

なるほど、そういうことですか。
しかしまあ、そもそもこの二人、センスが違い過ぎます。どうして結婚したんでしょう?
文学に興味なしバリバリの体育会系現実主義者(実務家と言ってもいいかもしれない)と、すぐに古典を引用してくる知識自慢の超文科系(ロマンチストでもあり)ですからね。お互いに足りないものを持っている、まったく正反対だからこそ惹かれたとも言えますが、結局はこうなるんですね。やっぱりある程度はセンスが似てないとうまくいかないでしょう。
南キャン山里と蒼井優もそんな感じのこと言ってましたっけ。
しかしこれまた、そっくりそのまま全く一緒のセンスでも、それはそれでおもしろくないんですけどね。

というわけで、顛末は? 何となく見えた気がしますが、④ラストに続きます。


【原文】

 さて、のち来て、「一夜はせめたてられて、すずろなる所<々>[から]になむ率てありき奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、などともかくも御返りはなくて、すずろなる布(め)の端をばつつみて賜へりしぞ。あやしのつつみ物や。人のもとにさるものつつみて送るやうやはある。取り違へたる<か>」と[て]いふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、物も言はで、硯にある紙の端に、

かづきするあまのすみかをそことだにゆめいふなとやめを食はせけむ

と書きてさし出でたれば、「歌よませ給へるか。さらに見侍らじ」とて、あふぎ返して逃げて往ぬ。

 

 

里にまかでたるに② ~夜いたくふけて~

 すごく遅い深夜の時間帯になって、門をめちゃくちゃドンドン大げさにたたくもんだから、何だってこんなに遠慮なく、広くもない家の門をでっかい音でたたくんだろ?って思って、聞きに行かせたら、滝口の武士だったの。
「左衛門の尉(橘則光)からです」
って、手紙を持ってきてたのね。みんな寝てしまってたから、灯りを取り寄せて見たら、
「明日は季の御読経の結願の日で、宰相の中将(藤原斉信)が物忌みに籠ってらっしゃいまして。『妹の居場所を言え、妹の居場所を言え』って、責められるから、どうしようもないのです。もうこれ以上、隠し通せないので、どこにいるかお教えしても良いでしょうか? どうでしょう? おっしゃるとおりにしますから…」
って書いてあったんだけど、返事は書かずに布(め)=海藻を一寸(3cm)ほど紙に包んで使いの者に持っていかせたの。


----------訳者の戯言---------

滝口の武士」というのは、当時の内裏の警護係です。「うへに候ふ御猫は①」の解説部分にも少し詳しく書いてありますのでご覧ください。

御読経の結願とは? 御読経は「みどきょう」と読みます。正確には「季御読経(きのみどきょう)」です。
ウィキペディアでは、「季御読経は、春と秋に国家安泰を祈願して宮中に僧を招き、大般若経を転読する仏教法会である。通常4日ないし3日間の法会が開かれ、2日目に「引茶」という茶の接待が僧侶に対して行われ、3日目には僧侶同士の「論義」が行われる。ただし「引茶」と「論義」は原則春季のみであった。初日ないし最終日には法会と共に各寺院の得度を朝廷から賜る儀礼が行われた」と出ていました。

で、最終日(第4日)に結願(けちがん)=終了となる、と。そして、この最終日に「物忌」となるんですね。

「物忌」というのは前にも出てきましたが、「神事ないし凶事の非常にあたって一定期間宗教的な禁忌を守り身を慎む」期間とされています。「陰陽道の風習で凶日に外出を慎み、家に籠ること」ともありますので、そもそも仏教のものではなさそうなんですが、そのへんは以前も書いたとおりです。「御仏名のまたの日」の解説にも書きましたが、これも神仏習合の現れの一つなのでしょう。

さて、元夫の手紙に対して、先にその元夫が食べてごまかした布(め)=海藻を返事として送るという。なんとなくオチが読める展開。どうなるのでしょうか。③に続きます。


【原文】

 夜いたくふけて、門をいたうおどろおどろしうたたけば、何のかう心もなう、遠からぬ門を高く叩くらむと聞きて、問はすれば、瀧口なりけり。「左衛門の尉の」とて文を持て来たり。みな寝たるに、火取りよせて見れば、「明日御読経の結願にて、宰相の中将、御物忌にこもり給へり。『いもうとのあり所申せ、いもうとのあり所申せ』とせめらるるに、ずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせ奉るべき。いかに。仰せにしたがはむ」といひたる、返事は書かで、布(め)を一寸ばかり、紙につつみてやりつ。

 

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

 

 

里にまかでたるに①

 里帰りしてる時に、殿上人なんかがやってくると、穏やかじゃない噂を人々はするもののようなの。でも私、かなりちゃんと考えて行動してて、むやみに引きこもってるっていう感じでもないから、そんな風に言われたって別に腹も立たないんだけどね。それに、昼も夜も来る人を、何の必要があって「いません」なんて言って、恥ずかしい思いをさせて帰せるっていうの? 帰せるわけないでしょ。
 ホントそんなにめちゃくちゃ仲が良いっていうほどでなくっても、そうやってしょちゅう来るからね。あまりにも煩わしいから、今回は居場所がどこだってことを、広くみんなには知らせなかったのよ。左中将の源経房さまと源済政さまあたりが知っていらっしゃるくらいでね。

 で、左衛門の尉の橘則光が来てお話なんかしていたら、
「昨日、宰相の中将(藤原斉信)がお越しになって、『妹のいる所をいくらなんでも知らないはずないでしょ、言いたまえ』って、しつこく聞いてこられたんで、全然知らないんですよーって言ったんだけど、めちゃ厳しく追及されちゃってね」
なんて言って。
「知ってることを知らないって抵抗するのは、すごくつらかったんだよ。もうちょっとのところで笑いそうになったんだけど、左の中将(源経房)が全然しれーっとした顔でいらっしゃったから、あの人と目が合うと笑っちゃいそうで困ってね、台盤(食卓)の上に海藻があって、それを取ってむしゃむしゃ食べてごまかしてたもんだから、食事の合間に変な物食べてるって、みんな見てただろうなぁ。でも、そのおかげで、君の居場所をどこって言わずにすんだんだよね。笑っちゃってたら、それも失敗に終わってただろうからさ。ホントに知らないんだろうな、って信じ込ませられたのは、good jobだったよね!」
なんて話したもんだから、
「絶対に教えちゃだめ!」
なんて言って。
そしてそれから、だいぶ日にちが過ぎたの。


----------訳者の戯言---------

橘則光清少納言の元夫で、離婚後も兄妹のような付き合いがあった、というのは「頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて④」に詳しく書きました。前回よりは少し後年のようで、官職が修理の亮(すりのすけ/しゅりのすけ)から左衛門の尉に異動していますね。

宰相の中将の藤原斉信は、前段「かへる年の二月廿余日」、前々段「頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて」の主人公でした。男前でおしゃれな、才能あふれるエリート公卿です。こちらも「頭の中将」から「宰相の中将」に昇進?しているのがわかります。

「あやにくに」は「あやにくなり/生憎なり」=「都合が悪い、厳しい、はなはだしい」の連用形です。

布(め)というのは、「海布/海藻」とも書き、わかめ・あらめ・みるめなど、食用となる海藻の総称だそうです。わかめは現代でも若布、和布とも書きますからね。理解はできます。

さて、今回の話。登場人物は清少納言の他に源経房、源済政、そしてナイスガイ藤原斉信、さらに元夫の橘則光です。どのような展開になるのでしょうか。②に続きます。


【原文】

 里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからずぞ人々は言ひなすなる。いと有心に、引きいりたるおぼえはたなければ、さ言はむもにくかるまじ。また、昼も夜も来る人を、何しにかは、「なし」ともかかやき帰へさむ。まことにむつましうなどあらぬも、さこそは<来め>[めく]れ。あまりうるさくもあれば、この度<出でたる所をば、> いづくとなべてには知らせず。左中将経房の君、済政の君などばかりぞ、知り給へる。

 左衛門の尉則光が来て物語などするに、「昨日宰相の中将の参り給ひて、『いもうとのあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。いへ』と、いみじう問ひ給ひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくに強ひたまひしこと」など言ひて、「あることは、あらがふはいとわびしくこそありけれ。ほとほと笑みぬべかりしに、左の中将のいとつれなく知らず顔にてゐ給へりしを、彼の君に見だにあはせば笑ひぬべかりしに、<わびて、台盤の上に布(め)のありしを取りてただ食ひに>食ひまぎらはししかば、中間にあやしの食ひものやと<人々>見けむかし。されど、かしこうそれにてなむ、そことは申さずなりにし。笑ひなましかば、不用(=失敗)ぞかし。まことに知らぬなめりと思<し>[え]たりしもをかしくこそ」など語れば、「さらにな聞こえ給ひそ」などいひて、日頃久しうなりぬ。

 

マンガで楽しむ古典 枕草子

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かへる年の二月廿余日⑤ ~暮れぬれば参りぬ~

 日が暮れてから、私は御前に参上したの。御前にはすごくたくさんの人がいて、帝付きの女房も来てて、「物語」の良し悪し、嫌いなところなんかを議論したり、批判したりしてるのよね。

 で、源凉(みなもとのすずし)や藤原仲忠(ふじわらのなかただ)なんか(『宇津保物語』の登場人物)について、定子さまに対しても、優劣をあれこれと、お話ししてたの。「まずこれはどうかしら? 早く意見を言って。中宮様は仲忠の幼少時代のみすぼらしさをしきりにおっしゃってるんだけど?」なんて言うんだけど、私は「それがどうしたっていうの? 仲忠がまるでダメなワケ? 彼は琴なんか天人が降りてきたみたいに弾いて、帝のお嬢様をGETしたのよ。凉は帝のお嬢様をめとることができるかしら? できないわけでしょ」って言ったら、仲忠派の女房たちは、味方ができたって勢いづいちゃってね。
 「そうだよねー」なんて言ってたんだけど、定子さまが「そんなことより、お昼に斉信が参上した姿を見たら、どんなに誉めてメロメロになっちゃうんだろうなって思ってたの」っておっしゃると、みんな「そう、ホント、いつもよりもっといかしてたわ…」なんて言うの。
 私は「そう、まずそのことを申し上げようと思って参上したんですが、物語のことに気を取られちゃってて」って言って、さっきあったことをお話ししたら、「みんなお姿は見たけれど、あなたみたいにそこまで着物の縫い糸や針目までは見てたでしょうかねぇ」ってみんな笑うのよ。

 「『西の京っていうところの、風情のあることといったらね、一緒に見る人がいたらなぁ、って思ったもんだよ。垣根なんかもみんな古びて、苔が生えてて』なんて話したら、(女房の)宰相の君が、『瓦に松はありつるや』(瓦に松はありましたか)って答えたのをとっても誉めて、『西の方、都門を去れる事いくばくの地ぞ』(西の方っていうのは都門から離れてどれほど遠い土地なのか)って口ずさんだのよ!」なんて、みんながうるさいくらいに話したのは、おもしろいできごとだったわね。


----------訳者の戯言---------

「宇津保物語」は平安時代中期に成立した日本最古の長編物語。作者未詳。源順(みなもとのしたごう)とする説もあるそうです。この頃に「物語」と言えばまあ「宇津保物語」だったんでしょうね。

あらすじはこうです。

清原俊蔭という人は王族出身の秀才で若年にして遣唐使一行に加わって唐に渡る途上、波斯(はし)国に漂着し、阿修羅に出会って秘曲と霊琴を授けられて帰国、これらを娘に伝授します。俊蔭の死後、家は零落、娘は藤原兼雅との間に儲けた藤原仲忠を伴って山中に入り、杉の大樹の洞で雨露をしのぎ仲忠の孝養とそれに感じた猿の援助によって命をつなぎます。
「うつほ」は空洞の意。この母子が潜んだ大樹の洞にちなみ「うつほ物語」となったようです。
なお、藤原兼雅という人は後世実在しましたが、ここでの登場人物とはまったく違います。

一方、源正頼の娘貴宮(あてみや)が仲忠ら多くの青年貴族の求婚を退け、東宮(皇太子)妃となり、やがて皇位継承争いが生じる過程を描く物語ももう一つの柱となっているようです。

つまり、四代にわたる霊琴にまつわる音楽霊験談と貴宮をめぐる物語。この両者がからみあって展開するお話だそうで、
琴の物語が伝奇的であるのに対し、後半の貴宮の物語は写実的傾向があり、やや統一を欠いているのは否めないようですが、この物語が、後の物語、つまり「源氏物語」などへと続く現存最古の長編小説であるのは確かで、高い評価もあるようです。

波斯国というのはペルシャのことらしいですが、今のイランです。が、「宇津保物語」の波斯国がペルシャ(イラン)かというと、そうではないようですね。遠すぎますし。推察されているのはミクロネシアあたりの小島ではないかということ。ただ、そもそも伝奇的なフィクションですし、架空の国と考えておけばいいでしょう。

源凉というのは、貴宮に求婚する貴族の一人です。仲忠も求婚しますからライバルですね。ただ、最終的には皇太子妃になるそうですから、どっちも敗退します。

とまあ、私、読んだわけでもないのにネットで得た情報でダイジェストしました。なんか、読んだような気がしてきましたね。なわけないですか。

では、現代語訳について。
私が立ち止まってしまったのは「何か。琴なども、天人の下るばかり弾き出で、いとわるき人なり。帝の御娘やは得たる」の部分です。

「天人の下るばかり弾き出で」は誉めています。「いとわるき人なり」は貶しています。いったい誰のことを言っているのか?ということですね。
私の訳は「それがどうしたっていうの? (凉は)琴の弾き様なんか、天人が降りてきたみたいだし、全然よくないの。(凉は仲忠みたいに)帝のお嬢様をめとることができるかしら? できないわけでしょ」としています。

しかし、やはり違和感はありますね。自信はないです。というわけで、ネットでいくつかこの部分の訳を探してきました。が、↓このような訳となっていて、バラバラですね。訳者によって解釈がここまで違うのかという感じです。

・(涼は)琴なども、天人が愛でて降ってくるほどに弾いて、つまらない人~
・(涼は)琴など弾いても天人が降ってきたお話のようなもので、あまり大したことのない人~
・(凉の)琴の腕前は天人が舞い降りてくるほどの名手でもないし、全くつまらない人~
・(仲忠は)琴なども天人が降りるほど弾いたし、そんなに悪い人ではない~
・(仲忠は)琴なども天人が降りてきたみたいに弾くのに~

うーん、どう見ても、違和感は消えません。

で、さらにいろいろ調べたんですが、「いとわるき人」が「いとになき人」の誤写である可能性がある、という説があるらしい、とうことがわかりました。ただ論文はまだ見つけられていないのですが。

ただこの説を採用して「琴なども、天人の下るばかり弾き出で、いとになき人なり」なら、かなり訳しやすくなります。

「になし」は「二つとない、比類ない」ですから、この部分の主語は「仲忠」で、「(仲忠は)琴なんか天人が降りてきたかのように弾いて、まったく他に比べる人なんていないの」となりますから。とても自然な訳になりますね。こっちに変えてもいいくらいです。

で、お願いなんですが、この記事を読んだ方で、「こうではないか」というご意見があれば、ぜひ伺ってみたいと思っています。よろしくお願いします。

さて。
最後のほうで出てきた「宰相の君」は女房の一人のようです。宰相というからには、そのような官にあった人に縁のある女性だと推察されます。宰相というのは「参議」の唐名です。参議というのは納言に次ぐ位置にあります。「四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの」とウィキペディアに書いてありますから、まあまあのクラスの人の娘、妻などだったのでしょう。
「女房名」については、「小白河といふ所は①」や「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて②」の解説部分に詳しく書いています。ぜひご参照ください。

 「瓦に松はありつるや」は、「白子文集」にある「牆有衣兮瓦有松」(塀に衣あり、瓦に松あり)というフレーズを出典とした「返し」だそうですね。
さらに、これに続くワンフレーズ「西去部門幾多地」(西の方、都門を去れる事いくばくの地ぞ)と口ずさんだ頭の中将(藤原斉信)、美男子、おしゃれ、知的、アドリブも利きますから、モテる要素満載、女房たちが大騒ぎするのも仕方ありません。

この段では、いかに頭の中将(藤原斉信)がかっこええか、というところに焦点が当たってます。女房たちみんなメロメロっぽいですし、清少納言ももはや陥落寸前。ということでいいのでしょうか? ま、いいですか。

まあまあ面白かったです、私。


【原文】

 暮れぬれば参りぬ。御前(ごぜん)に人々いとおほく、うへ人など候ひて、物語のよきあしき憎き所なんどをぞ定め言ひそしる。

 涼(す<ず>し)、仲忠(なかただ)などがこと、御前にも劣り優りたるほどなど仰せられける。「まづこれはいかに。とくことわれ。仲忠が童生ひのあやしさを、せちに仰せらるるぞ」などいへば、「何か。琴なども、天人の下(お)るばかり弾き出で、いとわるき人なり。帝の御娘やは得たる」といへば、仲忠が方人ども所を得て。「さればよ」などいふに、「このことどもよりは、昼、斉信が参りたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそおぼえつれ」と仰せらるるに、「さて、まことに常よりもあらまほしうこそ」などいふ。「まづそのことをこそは啓せ<め>[む]と思ひて参りつるに、物語のことにまぎれて」とて、ありつることども聞こえさすれば、「たれも見つれど、いとかう、縫ひたる糸・針目までやは見とほしつる」とて笑ふ。

 「『西の京といふ所のあはれなりつること、もろともに見る人のあらましかばとなむおぼえつる。垣などもみな古りて、苔生ひてなむ』など語りつれば、宰相の君の『瓦に松はありつ[る]や』といらへたるに、いみじうめでて、『西の方、都門を去れる事いくばくの地ぞ』と口ずさびつること」など、かしがましきまで言ひしこそをかしかりしか。


検:かへる年の二月廿日よ日 返る年の二月二十余日 返る年の二月二十日よ日

 

あなたを変える枕草子

あなたを変える枕草子

 

 

 

かへる年の二月廿余日④ ~職へなむ参る~

 (頭の中将が)「『中宮職』の庁舎に参上するんだけど、伝言はありますか? あなたはいつ参上されるんです?」なんておっしゃって。「それにしても昨日は夜を明かさずに帰ってきてね、時間帯的にそれはまぁそれで仕方無いっちゃ仕方無い部分もあるだろうけど、前もってそう言ってたんだから待ってるだろうって。月がとっても明るい中、西の京っていうところから帰って来てすぐに局の戸をたたいたら、かろうじて寝ぼけながら起きてきた様子、で、応対のそっけないこと!」なんて語って、お笑いになるのね。「まったく不愉快だったよ。どうしてあんな者をおいてるの?」っておっしゃるのよ。たしかにそうだったんでしょうね、おかしくもあり、可哀そうでもありますわね。

 しばらくして、斉信様は出ていかれたの。外から見る人は、いい雰囲気だったから、御簾の内にはいったいどんな素敵な女性がいるんだろうって思うでしょう。逆に奥の方から私の後ろ姿を見た人からすると、まさか外にそんな素敵な男性がいるとは思わないんでしょうね。


----------訳者の戯言---------

この段の①にも書きましたが、「中宮職」は皇后に関する事務全般をやっていた中務省に属する役所です。

原文で「思ひうんじ~」という語が出てきました。これは「思ひうんず=思ひ倦んず」という他動詞で「不快に思う」という意味だそうです。こそ+動詞の連用形+に+しか(過去の助動詞「き」の已然形)という係り結びです。古文の授業であれば、だいたいこんな感じで品詞分解しますね。

さて、清少納言藤原斉信のこの御簾越しのやりとり。そのやりとりが清少納言的にはおもしろくて、見た感じもなかなかいかしてたというわけですね。

さてどういう顛末が待っているのでしょうか? ⑤に続きます。


【原文】

 「職へなむ参る。ことづけやある。いつか参る」などのたまふ。「さても、昨夜(よべ)明かしもはてで、さりともかねてさ言ひしかば待つらむとて、月のいみじう明かきに、西の京といふ所より来るままに、局を叩き<し>ほど、からうじて寝おびれ起きたりしけしき、いらへのはしたなき」など語りて笑ひ給ふ。「<むげ>[げむ]にこそ思ひうんじにしか。などさる者をば置きたる」とのたまふ。げにさぞありけむと、をかしうもいとほしうもあり。

 しばしありて出で給ひぬ。外より見む人はをかしく、内にいかなる人あらむと思ひぬべし。奥の方より見出だされたらむ後ろこそ、外にさる人やとおぼゆまじけれ。


検:かへる年の二月廿日よ日

 

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)