枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

淵は

 淵といえば、「かしこ淵」(おそれ多い淵)っていうのは、この淵のどんな奥深い底の部分を見て、こんな名前をつけたんだろうって考えたら、面白い気がしたわね。「ないりその淵」っていう名前は、誰にどんな人が教えたんでしょう?? 
 青色の淵も素敵。蔵人なんかの衣装にできそうな感じで。あと、かくれの淵、いな淵ね。


----------訳者の戯言---------

「勿入淵」というのは、大阪の大東市あたりの池で「ないりのふち」とか「ないりそのふち」と呼んだらしいです。文字からして「入る勿れ」の「淵」で、「入っちゃダメ」っていう意味ですから、「んなこと、誰にどんな人が教えたんや?」という清少納言のシンプルな疑問があったんでしょうか。

蔵人の衣装については「四月 祭の頃」の段で出てきましたけど、蔵人の衣装「青色」っていうのは、青っぽいけど、ベージュなんですよね。青というのはどうも元々、白と黒の間の広い範囲の色で、主としては青・緑・藍をさしていたらしいです。

今回は淵づくしですが、まだこの後の段も、「〇〇づくし」が続きます。


淵というのは、水を深くたたえているところのことです。渕も同じ意味ですが異字体なんですね。

「かくれの淵」というのは、奈良県桜井市の初瀬とも言われているようです。枕草子にも時々出てきますが、長谷寺のあるところ、「はせ」ですね。
隠口(こもりく)の泊瀬(初瀬/はつせ/はせ)と万葉集にもよく出てくるらしいですが、「こもりくの」が「泊瀬」の枕詞なのだそうです。しらなんだ。
隠口(こもりく)というのは、山に囲まれた隠れたところ、神霊の籠る場所の意味で、外界から遮断された神の支配する聖なる空間であることを表したようです。

おそらくこれが「かくれの淵」の根拠なのでしょう。ただ、これをもってイコールとするのには無理もあるような。一説ということにしておくべきかもしれません。「瀬」はどちらかというと浅瀬、淵は水深のある水場を表しますから、むしろ対義語。一緒にするのもなんだかなーと思います。


「いな淵」。奈良県の明日香村に「稲渕」という地名が見られます。棚田が有名で、秋には彼岸花がきれいなところ、だそうですね。
ここも飛鳥川が流れていますが、現在は淵(渕)と言われるようなところは無さそうです。ただ、飛鳥川は深さの定まらない川として古来から知られていたそうですね。

「世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる」という歌が古今集にあることからもそれはポピュラーだったことがわかります。
「世の中では何がずっと今のまま続くんだろう。飛鳥川みたいにね、昨日淵だったものが瀬になる。そんな飛鳥川のような世だとしても、私は恋人のことを絶対忘れない」。


「淵瀬」という言葉もあります。直接的には川の深く淀んだところと浅くて流れの速いところ、という意味ですが、「無常」なことのたとえとして使われるワードなんですね。
(2023/8/31追記)


【原文】

淵は かしこ淵は、いかなる底の心を見て、さる名を付けけむとをかし。ないりその淵は、誰にいかなる人の教へけむ。

青色の淵こそをかしけれ。蔵人などの具にしつべくて。かくれの淵。いな淵。

原は

原は、みかの原、あしたの原、その原がいいわね。


----------訳者の戯言---------

今回は「原」ですね。
そろそろ飽きてきましたが、まだ続くんでしょうか。

 

「みかの原」は「瓶原」と書きます。現在は木津川市加茂町瓶原(みかのはら)という地区になりますが、住所としては残っていないようですね。木津川の北側の一部で、昭和26(1951)年の町制移行までは相楽郡瓶原村でした。
聖武天皇の時代にしばらく恭仁京(くにきょう)が置かれた場所でもありますが、今は田畑が広がる農村といった風情です。
美加ノ原カンツリークラブというゴルフ場があったり、みかのはら幼稚園があったりしますし、「みかのはら」という地名は現地では地域の通称として今もポピュラーに使われているようですね。

「あしたの原」は、「朝の原/蘆田の原」と書くようです。現在の奈良県北西部、北葛城郡王寺町から香芝町にかけての丘陵をこう呼んでいたそうですね。

実は枕草子(三巻本)には「原は」という段がもう一つあり、「あしたの原」はそちらにも書かれています。そちらの「原は」に「あしたの原」のことを詳しく書いていますので、そちらもお読みいただければと思います。

「その原=園原」です。古代、都から東国に行くためには、美濃と信濃の間にある難所「神坂峠」を越えて行ったらしいですね。園原というのはその峠の信濃側の麓の山里だそうです。つまり、畿内から行くと神坂峠を越えた東国最初の地ということになるんですね。
神坂峠は標高1500m以上ありますから、当時の旅人は命がけで越えたのでしょう。その向こうにある美しい里は、もしかするとパラダイス的な存在であり、なかなか手が届かない、憧憬の対象でもあったのかもしれません。そのためか、多くの歌人、詩人たちが、都よりはるか遠方の山里「園原」として歌い残したのだそうです。
(2023/8/27追記)


【原文】

原は みかの原。あしたの原。その原。

峰は

峰は、ゆづるはの峰、阿弥陀の峰、弥高の峰がいかしてる。

----------訳者の戯言---------

前段に続き、今回は「峰」です。
何がいいのかも書いてない。名前だけです。
またまた個人的に、ふ~ん、って感じですね。


「ゆづるはの峰」というのは諭鶴羽山(ゆづるはさん)のことのようです。諭鶴羽山兵庫県の淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの山で、淡路島の最高峰です。
山頂の南側約400mに位置する諭鶴羽神社は古代からあったとされています。平安時代になるとこの社への「諭鶴羽参り」は大変人気もあり、修験道の一大道場として隆盛を誇ったそうです。

熊野権現英彦山(福岡県と大分県の県境)から石鎚山愛媛県)、諭鶴羽山兵庫県南あわじ市)を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡られたとされるんですね。
熊野権現というのは熊野三山の祭神である神々なんですが、三山にはスサノオイザナギイザナミなどの大物の他いろいろな神様がいるらしいです。権現っていうのは神仏習合の考え方なんですよね、仏様が神様の姿になって現れるという。
ともかく、その熊野権現は当時の日本人にとってはとても重要な神様なんで、その中継地点の社もきっとかなりの重要ポイントで、信仰を集めたのでしょう。

阿弥陀の峰」は京都市東山区にある「阿弥陀ヶ峰」です。東山三十六峰の一つだそうですね。周辺は、古くから都の葬送の地だった「鳥辺野(とりべの)」として有名です。天平年間(729~749年)に行基阿弥陀如来を安置したことからこう呼ばれるようになったらしいです。


近江(現在の滋賀県)、備中(現在の岡山県)、播磨(現在の兵庫県西部)などにその名前を残すところがあるようですね。特定は難しいです。


少し前に「山は」という段がありました。山と峰にはどういう違いがあるのでしょう? 私の感覚から言うと、山はほぼ全体、峰は山頂部の尖った部分、という語感があります。高い山の頂、あるいは鋭角な印象もありますね。そういうことで山と峰を分けて書いたのでしょう。(2023/8/20追記)


【原文】

峰はゆづるはの峰。阿弥陀の峰。弥高の峰。

市は

 市といえば、たつの市、さとの市、つば市がいかしてる。大和エリア(奈良)にたくさんある市の中で、初瀬(の長谷寺)に参詣する人が必ずここに泊まるのは、観音様の縁があるからだって思うと格別なの。その他、をふさの市、飾磨の市、飛鳥の市ね。


----------訳者の戯言---------

たつの市(辰の市)っていうのは、今の奈良市で辰の日に立った市だそうです。
つば市は「海石榴市」と書くそうですね。すみません読めません。で、これは今の奈良県桜井市の金屋というところにあったらしく、現在は静かな住宅地ですが、ここは昔は国内有数の交易の中心地だったそうです。特に市の立つ日はかなり賑わっていたらしいですね。
初瀬は「はせ」と読みます。これも奈良県桜井市で、今も地名に残っています。長谷寺があるところです。初瀬と言えば長谷寺長谷寺と言えば初瀬というのが当時は当たり前の表現だったようです。

「心ことなり/心殊なり」と言うのは、「格別」「並々ではない」ということらしいです。

まあ、簡単に言うとこの段、「市場って言ったら、どこがいいか?」というのを並べて書いて、ちょっとだけコメント入れてるだけです。
全部書いても仕方ないので、詳解しませんが近畿圏で当時あった市ばかりのようですね。
個人的には、ふ~ん、って感じです。


【原文】

市は たつの市。さとの市。つば市。大和にあまたある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊まるは、観音の縁のあるにやと心ことなり。をふさの市。飾磨の市。飛鳥の市。

山は

 山は、小倉山、かせ山、三笠山、このくれ山、いりたちの山、忘れずの山、末の松山がいい感じ。特にかたさり山はどんななんだろうって、素敵な想像が膨らむわ。五幡山、かへる山、後瀬の山。朝倉山は「よそに見る」っていうフレーズを使った歌があって、いかしてるの。おほひれ山も名前が面白いわ。臨時の祭の舞人なんかを思い出しちゃうからでしょうね。
 三輪の山も素敵。手向山、待ちかね山、たまさか山、耳なし山もね。


----------訳者の戯言---------

ここに出てくる山は、全部「歌枕」らしいです。まあまあの知識自慢ですね。
「歌枕」というのは和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことだそうです。今回はそれをいろいろ並べてみました、と。

「かたさり山」の「かたさる」っていうのは「遠慮する」ことなんですね。なので、なんかちょっと興味あるんでしょう。たしかに気持ちはわかります。

「朝倉山」に関しては「昔見し人をぞ我はよそに見し 朝倉山の雲居はるかに」(昔の恋人を今は私、気にも留めなくなってる。まるで朝倉山の雲が遥か向こうに離れてるようにね)っていう歌がなかなかいい感じなので、良い、ということなんですね。

「おほひれ山」のところで出てくる臨時の祭っていうのは、例祭ではない祭、とのことです。まあ、そういうのがあったらしい。しかし臨時の祭ってどこの神社の?とかいう疑問もあるんですが、そこは一般には賀茂神社石清水八幡宮祇園社(今の八坂神社)に絞れるようですね。石清水だと断定している現代訳とか解説なんかも見られますが、私にはそこまでわかりません。専門の方はわかるんでしょう。
で、神社の祭でやる演目には「東遊び」という歌舞があったそうで、それの最後のほうで「大ひれや、をひれの山は」って歌うんだとか。なので、ビジュアル的には舞人=ダンサー的な人が思い浮かぶってことでしょうか。

たしかに三輪山は姿もきれいですし、そういうことなんでしょうね。聖なる山で御神体そのものでありますから。

この段、言わんとすることはわからんでもないんですが、今読んで、めちゃくちゃ興味深いとか、面白いという文章ではないですね。


【原文】

山は 小倉山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。忘れずの山。末の松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。五幡山。かへる山。後瀬の山。朝倉山、よそに見るぞをかしき。おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人などの思ひ出でらるるなるべし。

三輪の山、をかし。手向山。待ちかね山。たまさか山。耳なし山。

今内裏の東をば

 今内裏の東の門を「北の陣」って言うの。で、そこの楢(なら)の木がすごく高いので「何メートルぐらいあるんだろうね!」なんて言ってるのね。
 右近衛権中将の源成信が「根元から切り倒して、定澄(じょうちょう)僧都の枝扇にしたらいいよね」っておっしゃったんだけど、定澄僧都山階寺興福寺)の別当に任命されて朝廷にお礼に参上する日、近衛府の代表として成信が出席されてて。定澄僧都は高い屐子(けいし)を履いてたから、さらにめちゃくちゃ背が高かったのよね。で、セレモニー終了後、「どうして、あの『枝扇』をお持たせにならなかったんです?」って(私が成信サマに)言ったら、「忘れてないんですね」とお笑いになったの。

 「定澄僧都に袿(うちき)なし。すくせ君に袙(あこめ)なし」(定澄僧都に合う袿はない。すくせ君に合う袙はないよ)って言った人、うまいこと言うもんだよね。


----------訳者の戯言---------

定澄僧都という人、めちゃくちゃ背が高かったらしい。
現代、ちょっと前なら、馬場さんとか和田アキ子のやつです。ボブ・サップとか篠原とか。「デカさ」ネタですね。
で、この方、興福寺山階寺)の別当に選任されます。別当っていうのは長官として寺務をつかさどる僧職、つまりトップですね。

さて、最初に出てきた北の陣の楢の木ですが、一説には梨の木とも言われています。これ、おそらく原文がひらがなで書かれてるために、「ら」と「し」のどちらにも読めたからでしょう。
ま、私はどっちでもいいんですけどね。

原文に出てくる「いく尋(ひろ)」の「尋」っていうのは、慣習的な長さの単位ということです。両手を左右に伸ばした時の、指先から指先までの長さを基準にしたらしい。ということは、1尋=150cmくらいでしょうか。

で、ナラの木というのは小さいやつでも15mほどはあったらしいです。まあまあ高い。大きいのは35mにもなるんですって。梨の木も15mくらいにはなるらしいです。

権中将の源成信という人は、ルックスも性格もいいということで当時、一世を風靡したらしいです。当然、宮中の女子たちの間でも相当人気があったようですね。そういう人です。
近衛府というのは、宮中の警備や行幸時の警護を担当した役所ですね。当時は左右の近衛府があったらしく、右近衛府の権中将というと、だいたいナンバー4くらい。そこそこのポジションです。
ただ、このお話の頃、彼はまだ20歳過ぎくらいなんですね。大人ぶってますねー、すかしてますねー。エエトコのボンボン(親王の子、つまり天皇の孫、しかも藤原道長の猶子になっている)ですから、仕方ないんでしょうか。猶子というのは養子っぽいですけど、ちょっと違います。後見人に近いんですね。義理の親子関係なんですが、一般には家督や財産の相続、継承なんかを目的にするものではありません。子の姓も変わらず、ですがお互いにメリットがあるので親子になる、という関係のようです。

屐子(けいし)というのは木製の履物らしいですね。下駄みたいなものですか。
「枝扇」といって、葉のついた枝を扇みたいに使うことがあったらしいんです。なるほど。

袿(うちき)というのは「主に女性の衣だが、男性が中着として着用する場合もある」とウィキペディアに書いてありました。
まあ、そういうものなのでしょう。長いやつですね。
袙(あこめ)は、「男性が束帯装束に着用するもの」「宮中に仕える少女が成人用の袿の代用として用いた」と書かれています。たぶん短めの着物なんでしょう。

「すくせ君」は調べてみても、どこにも載ってないんです。詳細不明とか書いてるのもありますが。
そういう人ですから、素人の私には知りようもないんですけど、小さい人だったのは間違いないですね。
身体的な特徴を嗤う、というのは、現代のセンスからすると、あまりいい趣味ではないと思います。このエッセイ、私的にはアウト!ですね。


【原文】

今内裏(いまだいり)の東をば北の陣といふ。なら(なし)の木のはるかに高きを、「いく尋(ひろ)あらむ」などいふ。権中将、「もとよりうち切りて、定澄僧都の枝扇にせばや」とのたまひしを、山階寺別当になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君の出で給へるに、高き屐子をさへはきたれば、ゆゆしう高し。出でぬる後に、「などその枝扇をばもたせ給はぬ」といへば、「物忘れせぬ」と笑ひ給ふ。

「定澄僧都に袿(うちき)なし。すくせ君に袙(あこめ)なし」と言ひけむ人こそをかしけれ。


検:今内裏のひむがしをば

よろこび奏するこそ

 昇進のお礼を天皇に申し上げるのはイかしてるわ。下襲(したがさね)の裾を長めに引っぱり出して、天皇の方を向いて立っているのがね。拝礼して踊りをくるくると舞っているのも素敵。


----------訳者の戯言---------

「よろこび」を「奏す」る、って何ぞや?と、いきなりよくわかりません。
前にも出てきましたが、「奏す」っていうのは天皇に申し上げること、「啓す」っていうのは皇后とか皇太子に申し上げることなんですね。これは決まりだから、まあわかります。
ただ、申し上げることが「よろこび」ですからね、意味広すぎるしなーとは思います。が、そこは文脈から読み取れってことなんですね。というか、天皇に「奏す」る「よろこび」的な事は「昇進のお礼」ということだったらしいですね、当時は普通に考えたら。

たとえば現代でも、「お悔み」を「申し上げる」のは、「亡くなった方の親族に慰めの言葉をかける」意味であって、「悔やんでること」をただ「申し上げる」だけではないです。ま、それと似たようなことなんでしょう。慣用的にこう言う、ということのようです。

そう考えると「後ろをまかせて」も広いですね。「下襲の裾を長く引いて」ということらしいです。
「後ろ」というのは、着物の裾とか、また、下襲(したがさね)の、後ろに垂れてる部分のことを言うらしいですね。
下襲」というのは、コトバンクとかで見ていると、今で言うとシャツ的なものですね。上着の下に着るやつです。絵とか見ても後ろがすごく長いですね。
ただ、枕草子が書かれた頃はまだそんなに長くなかったらしいんです。位が上の人ほど長かったようでで、大臣クラスでも33cmとかだったのがさらに13世紀頃には3mくらいになったらしいです。
長すぎやろ!と思います。

ちなみに「まかせ」というのは「まかす」の連用形ですが、漢字で書くと「任す」ではなく、「引す」なんですね。これで「まかす」と読むこと自体、現代は普通にはないですね。ひす?ひきす?いんす?って思います。

「引す(まかす)」というのは、そもそもは池とか田んぼなんかに、水を引く、引き入れるということらしいです。

実は、前に読んだ徒然草(第五十一段)でも「まかす」という言葉は出てきまして、その時は水を引くという意味そのままだったので、まだわかりやすかっんです。

で、今回もっと詳しく調べていたら、「まかす」は「引す」だけでなく「漑す」とも書くらしい、ということもわかりました。実際、こんな漢字も初めて見ましたね。人によっては一生見ないでしょう。
私も徒然草枕草子を読んでなかったら、見ることもないまま死んでたでしょうね。

そして本題です。
「まかして」ですが、上にも書いた「引き入れ」転じて、長く引き伸ばして、とか、長めに引っぱりだして、くらいの感じでしょうか。
三月三日は」の段でも、裾出しルックが描かれてましたけど、昔も裾出すのは好きだったようです。
現代もまあ、カジュアルではシャツを出しますけど、フォーマルでは絶対に出しませんね。もちろんカジュアル系でインするスタイルも、着こなし方次第で楽しみたいものです。

原文を読むと、天皇の前で、こんな時(昇進のお礼を言っている時)に踊り騒ぐのはいかがなものか?と一瞬思いますよね。不謹慎でしょう、と。

けど、当時のはそういう作法なんですね。
Weblioを見てますと、「舞踏す」とは「朝廷などでの朝賀・即位・節会(せちえ)・叙位・任官などの際の拝礼の作法の一つ」と書かれていて、そのやり方として「二度礼拝して笏を置き、立って身を左右左とひねり、座って左右左とひねり、笏を取って礼拝し、立ってさらに二度礼拝する」ということです。
しかしやはり動きはヘンです。クネクネダンスですね。
騒ぐ、というのはいろいろ意味がありますけど、ここではくるくる、スムーズ&スピーディに舞うということでしょうね。
「笏」は「しゃく」と読みます。昔の人が手に持ってる札というか板のようなあれです。聖徳太子が持ってるやつです。

「拝し舞踏し騒ぐよ」から想像すると、場所は偉い人のところ、裾出しファッションで昇進のお礼、しかもそこでダンシング。
ダンスは、クネクネ系からストリート系に移り、ロボットダンスとか、ムーンウォークとかヘッドスピンとかしてほしいです。もちろん、そんなことしないですけど、やってくれたらめっちゃウケるんですけどね。


【原文】

よろこび奏するこそをかしけれ。後ろをまかせて、御前の方に向ひて立てるを。拝し舞踏し騒ぐよ。